収まるべきところに収まる
今夜は伝道研究会。というより、華光大会の分かち合い。法座の問題点や、有り難かったこと、尊かったことを分かちあいました。
いろいろな意味で、良くも悪くも変革の時です。参加者の顔ぶれをみても、また現代という時代も、ハッキリと大きなうねりが起こっています。しかし、うねりに逆らうことなく、それでいて流されるだけななく、うまく舵取りをして進むべきところにいきたいものです。結果ではなく、そのプロセス、道行きが大切。いろいろと都合が悪いことも起これば、傷つくこともある。逆に、うれしいことも、励まれることもある。でも、はっきりと成るべきものに向けって、進んでるんですね。それを無理に動かすのでも、また流されるでも、逆らうのもでなく、信頼して、おまかせして、誠実な態度さえ保っていけば、たとえ時間がかかろうと、収まるべきところにしっかり収まっていく気がします。いま、ここで起こっている事柄や事象も、そして人もです。
今夜の伝道研究会(ほとんど役員会)では、何年かぶりに、とてもスッキリした提案を出せました。進むべき道が見えてきたし、ブレーンとなって力を貸してもらえる人達の収まるべき場所も、はっきりした気がします。災いもあるけれど、どうやらそれが転じるかもしれません。それは、華光の中の流れ、滞りをスッキリさせるだけでなく、小さな枠にに留まらないで、華光精神を外部との関係も拡張させていけることにもなるかもしれない。先生方の役割、若手の成長、そしてそれを支える人達、運営する人達。そして、その裏付け。すべてこれまでの先輩先生や同人のお世話のたまものでありますが、ぼくには信頼できる方が多くおられるのです。同時に、それは、ぼくが、いま、そしてこれからやらねばならない要請なのです。まだ、小さな小さな歩みですが、楽しみになってきました。
まあ、とても大きなバックがついてるものなー。大安心。
もう一点。単なる信仰の問題だけでなく、実は信仰を隠れ蓑に、長年の心理的な葛藤や深い悩み、本人も気付けずにいる問題を抱えた人達が集うようになってきました。みな、暖かさ、つながりをもとめているんですね。寂しいもの。そこをしっかり受け入れるには、まずその枠組みを造って向き合わないと、なかなかたいへんです。今回でも、法と、御同朋のこの厳しくも温かい雰囲気に触れ、自然と癒され、そこをステップに始めて、自分自身と法に向き合っていかれた方があります。これって、西光義敞先生が提唱された、真宗カウンセリング(DPA)そのものじゃないですか。その意味では、場面構成も必要。契約とまでいかなくても、しっかりとした枠組みも造らないといけない。その意味でも、今回の総会で提案された案は、経済的な問題だけでなく、とても大切ですね。華光の法座は、単にご法話を一方的に聞くだけでないので、座談会にしても、情報交換や意見交換、知識、学習の場ではなく、ある種の心理的なセラピーの要素も含まれるわけですから、安心した場でなくてはいけないということですね。もちろん、後生の一大事の解決に焦点を当てる法の場でもあるわけですから、そな中にも、かなりデリケートな問題もあります。
誰まで関わり、どこまでその任を負うのか。その枠組み作りの意味でも、会員制や事前申込、会費制度、責任の明確化、資格なども大切になっている時代は、もうすぐ来ています。そのための受け皿となる、しっかりした組織づくりも必要になるわけです。
まずは、その小さな一歩から、始まります。
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コメント
尊い御縁に遇わせてもらいました。
[ふかきみ法ににあいまつる 身の幸何にたとうべき ひたすら道をききひらき まことのみむねいただかん
永久のやみよりすくわれし 身の幸何にくらぶべき 六字のみなをとなえつつ よのなりわいにいそしまん]
何も言うことが出来ません。 南無阿弥陀仏
投稿: 妙誓 | 2008年11月 6日 (木) 08:19
南無阿弥陀仏 華光大会お世話になりました。ありがとうございました。師のブログを読ませていただき色々と感じ、味わい、考えさせていただいています。また、師の熱いこころの思いを感じました(師の真意を理解できているとは思いませんが・・・)。師のブログを読みながらある方のことばを思いだいして味わっています。(どこでみたか、聞いたか忘れましたが・・・)。それは、「私のなかでDPAは、“拡げてゆく仏法。深めてゆく仏法”というイメージですが、“仏法”が曖昧なままではどうしようもありません。きわめて具体的な働きがあるから拡がり、深まる」とありました。私には他にたいして、拡かげてよくことも、深めていく力もありませんが、仏法が曖昧にならによう(仏法は曖昧でなく、関わる私が曖昧になる)聞かせていきたいと思います。今後ともよろしくお導きのことよろしくお願いをします。南無阿弥陀仏。 PS.蓮華さま。ありがとございました。本当にお世話ご苦労様でした。皆様のお働きがあり、聞かせていただける場でありました。南無阿弥陀仏。 かりもん師には週末お世話になります。よろしくお願いをします。
投稿: 稜 | 2008年11月 6日 (木) 09:16
妙誓さん、ありがとう。今回は、分級座談のグループが違ったので、ゆっくりお話できませんでしたね。新しい方が増えたので、懇親会も大忙しでした…。来週は、最終列車にしたので、少しだけですがゆっくりできます。
その前に、稜さんにお世話になりますね。話したいこと満載ですが…。今回、自然に、動いてみたら、率直に、スーと応えて動いてもらえたことが、うれしかったです。
というわけで、この後、お二人とは、日高、広島で続けてお会いできるのが楽しみ
投稿: かりもん | 2008年11月 6日 (木) 19:09
先生、華光大会ではありがとうございました。
最後の座談の最後の時間での、あの方と先生とのやり取りは、とても印象深く、脳裏に焼き付いています。
「○○さんが行かへんのやったら僕がいく!」とパッと立ち上がってダーっとその方を迎えにいかれた姿に、いつまでも動かん私自身と、その私をここまで迎えにきてくれた仏さまの姿が重なりました。
泣くのも忘れてボーゼンとしてしまいました。
ご法座ってすごいところなんですね。ありがとうございました。
投稿: スナコ | 2008年11月 6日 (木) 23:00
スナコさん、ここ初めてかなー。ようこそ。うれしいです。
そうだったんですね。自分でも、少し曖昧なところがあるんですが、そんなこと言ったんですね。おかげで、いろいろと動いていこうという気持ちになりました。ちょっと大げさに言うと、ぼくにとって、今の人生を象徴する出来事だったのかなーとも思います。
あの分級座談も、前半はちょっとしんどい経過もあって、緊迫した雰囲気で、しんどかったじゃないかなー。でも、勉強にもなったけど…。
ちなみに、ひとつ前のエントリー「華光大会の余熱」のコナンさんのエントリーとあわせて読むと、またまた不思議なことですよ。
投稿: かりもん | 2008年11月 7日 (金) 01:08