« 姫路の旅 | トップページ | 週末の東京法座 »

この善太郎…

 姫路の旅から帰宅すると、深夜から雨になった。せっかく、日曜日は日曜礼拝の遠足(ハイキング)で、お世話の先生が何度も下見に行って準備万全だったのに、中止になって残念。父は、大阪支部の法座。ぼくは、広島支部法座で、五日市での支部(家庭)法座だ。新幹線を西に下ると、姫路城が遠くに見える。このあたりまでくると、雨は止んでいた。

 なかなか京都の華光会館にはお参りは難しいが、広島の法座には欠かさずお参りくださる方も多い。ここのご縁は、お友達の紹介が多くて、後は真宗カウンセリングや別院などを通じて知り合う方ばかりだ。最初のうちは、どうしても今生的な聞き方で、結構なところ、有り難いところだけ聞いて、どうしても自分がお留守なのだが、それでも聴聞を重ねるうちに、明らかに聞き方が変わってこられるから、不思議だ。ただし、自分や今生のものさし、自分の気持ちを基準に、いくら熱心に聴聞しても、絶対に、仏様のおこころは届いて来ない。ご法を喜ぶ先達の言葉も、同じレベルで捉えて、「あなたは××からもしれないが、自分の思いは○○だ」などと、対等にやりあっているうちは、仏法話にはならない。なぜなら、その判断するものさしが、日夜ころころ変わる私の心や今生の規範、またこの世の相対的な善悪ではなく、すべて阿弥陀様のお言葉、おこころをものさしにして、わが身をみせてもらうのが、ご聴聞だからだ。ここが切り替わったら、ご聴聞はグングン進むのだが、なかなかここに難しい関門がある。この手前で留まっている人も案外多い。

 今回は、華光大会と同じく、善太郎さんの歌を中心にいただいた。あの時は話題が3つあって、詳しく話せなかった彼のエピソードや触れられなかった歌(ご恩の歌)も交えて話させてもらった。もともとの『妙好人伝』での記述では、濡れ衣を甘受したことや泥棒も前世のご因縁と喜んだこと、奇瑞などが取り上げられて、どうもいま一つ分からなかった。ところが、今回、聞法旅行で、無学で、一文不知、当て字だらけのヘタな文字と、その生きた文章に触れて、こころが揺さぶられた。彼の領解に、一切今生事はないだ。

 初めての方もあったので、ご聴聞の要として、1)いま、ここの、2)私ひとりと、3)具体的に聞くことをお話した。まさに、善太郎さんの歌そのものである。常に、彼は、初事、初事として、善知識様のご意見を、「この善太郎」ひとりのところで、具体的に聞いておられるのだ。罪悪も、如来さまのご恩も、この泥凡夫の生活の中に生きているのだ。死の3ケ月前に「この善太郎」と始まる長い歌がある。その最後に親鸞様の高僧和讃、
「五濁悪世のわれらこそ 金剛の信心ばかりにて
ながく生死をすてはてて 自然に浄土にいたるなれ」
を引用され、次ぎのように歌われた。
「金剛の信心ばかりにて ながく生死をへだてける この善太郎が」
 そうである。如来さまのお救いを遠く十万億土の彼方にながめていてはダメなのである。そして、それは誰のためなのか。まさに「この善太郎」ひとりのためである。まさに、私ひとりのところで、私の地獄と向きあい、そして、私ひとりと如来さまのご本願を聞いておられるのである。

 今回の法座で、口数は少ないが、このところご聴聞が進んでおられると思っていた方が、ご法話そのままに、「この善太郎」をすべて「この○○」と自分として聞こえてきた方があった。そして、「ただ、涙しかありません」と泣かれるのだ。そう、せっかくそこまで出させてもらったのだ。「いいえ、ただ涙だけでなく、ちゃんと聞こえているじゃありませんか。この耳に、南無阿弥陀仏と入ってきたら、その聞こえたままを、この口を通して南無阿弥陀仏と出させてもらうんですよ」。そしてまた、耳で聞こえ飛びこんでこられた南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と口に出していく。まさに、念仏循環なのだ。いつも遠慮気味に、一番後ろで聞いておられるが、今日はご正客。なんの遠慮もいならい。どうぞ、真っ正面に座って、聞こえるままを称えさせてもらいましょう。
 その横では、「この善太郎がために 阿弥陀如来のお体、千本の釘を打ちこんで、その釘を抜いて、あとの穴に油をついで、灯しみ(灯心)を入れて、火をとぼしてくだされたとはこの善太郎がためとは、ありがたい」の歌を、自分の姿と聞かれた女性が、すごい勢いで念仏されている。ただ、かなり上Img_3581_2半身に力みが入っているのが気になった。しばらく様子を観ていたが、力みが抜ける気配がないので、ちょっとその力みを少し抜いてもらうアプローチをした。頑張ってきたんだよなー、この世も、仏法も…。でも、如来様の前では、まったく頑張る必要はないんだよ。
 残り時間10分、皆さんにも促して一緒にお念仏申した。ぼくは、とても冷静で、ただ静かに称えさせてもらった。結局、このボスターの他力回向のお心そのままでした。ひとり、ひとり、それぞれの味わいを胸に、お念仏と共に、法座を終えた。最後、2、3分、黙想の時間を設けてもよかったなとも思っている。

Img_4174  余韻と共に、7名ほどの方が残られて、心尽くしのお料理(ひとつひとつが手作りで、こころがこもっている)をいただき、さまざな話題に花が咲いて、ほんとうに楽しかった。宿泊の方もあったが、最寄りの駅まで送迎してもらったのに、15分ほど前にひとつ前の駅で人身事故が発生。五日市駅で電車がSTOPしている。復旧に一時間はかかるそうで、最終の新幹線に間に合いそうにない。結局、妙誓さんを呼び出して、広島駅まで送ってもらうことになった。会場、食事、そして最後に予定のなかった送迎まで、お手数をおかけしました。おかげで、最終の新幹線のうまく乗れて大助かり。凡夫の予定、計画なんて、ちょっとしたことで外れて、あてにならん。でも、これもまた一興。

|

« 姫路の旅 | トップページ | 週末の東京法座 »

法座と聞法」カテゴリの記事

コメント

先生のご法話を聞きながら、「ぎゃ~!!」と叫んでいる私がいました。阿弥陀様から灯心を入れられ、火をとぼしていただき、口からお念仏が噴き出て止まりませんでした。先生が、
「力を抜くように」うながしてくださって、初めて、阿弥陀様に、頭を下げさせていただきました。「ごめんなさい!!」と、、。
そしたら、力が抜けて、やわらかくなって、静かなお念仏を称えさせていただきました。
帰りに、「聞く耳もろうたけえ、これから聞いていくんよね~」って、親子の名のりをされた方と一緒に帰りました。

投稿: Tねこ | 2008年11月18日 (火) 08:02

先生有り難うございました。今度もすごい御法に遇わせていただきました。仏様のお心が罪しかないこの私の心にびしびしと響き渡り、ただひれ伏すしかない思いでした。
残って下さった方と明け方まで、少し寝た後また昼2時頃まで飽きることなく仏法讃談させてもらいました。
汲めどもくめども尽きない泉のごとく仏様のお光が届きます。
このような時間、「人が聞いたら可笑しかろう」ですね。しかし仏様は喜んでおられるのがよく分かります。本当に本当にありがとうございました。
先生どうかお疲れにならないように気をつけて下さい。

投稿: 妙誓 | 2008年11月18日 (火) 09:26

 Tネコさん>尊いお姿でしたね。一劫もかけて、私の罪悪調べをしてくださったんですから、如来様はすべてお見通しです。つまりは、この私をよくよく理解し、受け入れてくださってるわけです。勝った、負けたはこの世のなかのこと。わが身を飾る必要も、背伸びする必要もなかったんですよね。

 妙誓さん>最後までお世話になりましたネ。ご法座は、仏徳を讃嘆する場でしょう。私の小さな理屈(知)や思い(情)を離れて、共に称名念仏させてもらう場。ひとりだと、すぐに懈怠に流されて、粗末に手を合わせたら、それでお終い。友同行がいて、共に讃嘆し、喜び、そして念仏し、また讃嘆していく…。これも、また念仏循環ですね。

投稿: かりもん | 2008年11月18日 (火) 18:13

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: この善太郎…:

« 姫路の旅 | トップページ | 週末の東京法座 »