『国道20号線』
『国道20号線』という、マイナーなインディペンデント系の映画をレイトショーで観てきた。宮台真治が勧めていて見たというプログ(http://blog.livedoor.jp/hobo18/archives/51214271.html)を読んで、京都上映を待って出かけた。
京都は、2日間限定の2回上映のみ。それでも、監督の舞台あいさつがあるので、珍しく、外から列が出来ている。並び方が変則だったので、最後尾と思われる人に、「ここが最後ですが」と尋ねたら、「ぼくたちは並んでないので、前へどうぞ」と言われ、その人の前で待つ。関係者かと思ったら、それが監督と脚本家だった。普通の若者風情で、外の階段のところで並んでいた。まだ36歳と若い。終了後にも、すこしだけ声をかけて話させてもらった。今日は、東西本願寺をなど少し京都見物してきたということだ。パチンコ屋の上にあるこの劇場にビックリされていたが、これが京都のよさで、こんな映画が上映されても多くの客がくる。それに、劇場を出れば、国道1号線だが、目の前には、国宝の東寺の五重の塔が見える歴史的なロケーションでもある。
映画はなかなか面白かった。まず、オリジナリティーがあったこと。最近の映画は、ほとんどが、ベストセラー小説か、定番の有名作家の作品、またはヒット作のマンガを原作にした、確実に当たるものばかりが目立っているのなかで、こんな映画はメジャーではまず難しいだろう。
そして、その人物設定、ヤンキーやチンプラ風の下層生活が、息づかいが感じられるほどのリアリティーがあったことかよかった。監督や脚本家の友人、知人だそうだ。
国道20号線と言われても、まったくわからない。監督の出身地の山梨県らしいが、実はどこにでもある見慣れた風景こそが、この映画のひとつのテーマがある。今日も、ある人との会話の中で、「いま住んでいる城陽市と、九州のある地方都市の風景がそっくりなんですよね。国道がズバーッとあって、そのまわりに大型店がポンポンと立っているんですよ」と話していた。そう、彼女の見ている光景は、まさしくこの映画の背景にあるものだ。日本国中、特に中途半端な都会や田舎ほど、画一化された国道の風景が拡がっている。古い国道が手狭になって、バイバスと称して四車線の広いまっすぐな道がズドンとできて、その左右には、大型の駐車場を持った同じような建物が並んでいる。大規模なパチンコ店、家電量販店があり、コンビニがあり、回転寿司かファーストフードがあり、ドンキやホームセンターがあって、そして必ずサラ金の無人ATMがあるのだ。
終了後の舞台あいさいでは、映画のきっかけは、国道で信号待ちをしていた時に、パチンコ屋から出てきた男が、国道を渡ってサラ金のATMに入ったいたのを見たということだ。すごくわかりやすい情景だ。そして、なんと便利だと思っていたけれど、あれ、ほんとうに便利? どこかでこれは踊られれているんじゃないかと、違和感を覚えたことがきっかけだそうだ。
物語は、定職も持たず、パチスロで稼ぎ、シンナーもやめられず、ダラダラとした同棲生活をおくるヤンキーのカップルと、友人のヤクザな闇金業者の男を中心に、その体たらくな生き方の背後に、ひたひたと迫るグローバリーデーションの名のもとでの、個性を奪い、効率と利便性と利潤優先で、ますます画一化されていく、いまの社会の恐ろしさをすくい取っている。まさに希望もなく、適度に与えられた範囲の中で、何も考えることもなく、歯向かう牙も抜かれ、ただ生殺し状態でシンナー中毒のように朦朧と生きている人々の姿を等身大で描かれているのだ。とにかく、セリフがリアル。
確かに、ヤンキーなんて人ごとのようだけれども、多少は上等なふりをしても、この大きな歯車の中では、ぼくたちの生き方も、実はそうかわらないんじゃないのかー。なんでも、かんでも、ネットで情報ばかり追いかけて、知らぬ間に操作されている知らずに、自己で選んでいると錯覚していることも恐ろしいなー。そうして与えられたもの中で満足するのではなく、一度ぐらいは、ほんとうに自分の頭で考えて、行動してみろよということか。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)