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広島法座~無常観~

  日曜日の広島法座。常連の欠席を聞いていたが、お友達を連れてきてくださる方が多くて、24、5名の参加。ここには、カルト的な真宗教団に行っておられた方のご縁は誰もない。初めての方でも、在家の念仏者で育てられた方や、別院やお寺参りにも熱心な方、小さなときにお寺の日曜学校に参加されていた方など、なんらかの方で浄土真宗に触れおられる方ばかりである。さすが、安芸門徒の地である。

 それでも、法話はわかりやすいものに努めた。再来週の東京を意識して、久しぶりに、法話を一から考えた。聞法の基本の基本といったところ。白骨のご文、無常を手がかりに、四門出遊、良寛さんの「捨てる」真似事の話、力なくして終わる時を目にもの見せられた病床説法の老婆の話など、人間は…」という、一般論ではなく、「私」ひとりと聞くことを、エピソードを交えながら話した。法話も以上に、そのあとの座談会での質疑がなかなかよかったが、法話の流れから追っていく。

 結局、「人は」「世間は」「みんな」はというところからしか、無常も、罪悪も聞いていない。「人は産まれたなら、必ず死ぬ」ことぐらい分かっていると思っている。自分の浅ましさも知っているつもりだ。でも、ほんとうに「地獄行き」だと聞いているのか。明日もいのちも分からぬ身だと聞いているかと詰めていくと、ほんとうはなにも分かっていない。人のいのちにかぎりがあることは充分分かっているという患者と、「癌で余命3ケ月」と宣告する医者の笑い話風の会話ではないが、「それ」(一般論)と「これ」(わが身)とは別なのである。
 そんな調子で、いくら「後生の一大事」と口で気張っていても仕方ない。それは、お救いにしても同じだ。十方衆生を「みんな」を救う阿弥陀様程度の、大様なところ、人ごとで喜んでいる。でも、法蔵菩薩のご思案、ご修行も、「親鸞一人」の「いちにん」、「私ひとりのため」とお聞かせに預からないかぎり、絶対に、そのおこころに触れることできない。みんなつもりの求道、聞法、お救いなのである。だから、いつもどことなく気持ちが悪かったり、薄皮があったり、今生が交わったりしていくのだが、なかなかそこに心を振り向けて聞く人は少ない。それが、お釈迦さまの四門出遊で、知っている「老、病、死」から、わが身の一大事になってきた。それで最初は、目を背けて逃げたかったわけ。でも、凡夫と違うところは、釈尊はすべてを捨てて出家する道を選ばれたわけだが、それは凡夫には真似できない。

 ところが、真面目に求めている人は、「なかなか無常が身に迫らず、まだまだです」とか、「どすれば後生の一大事、地獄行きが実感できるのか」などと、なんとか死や無常を取り詰めようと気張っている。それが、ほんとうに無常が分かっていない迷いの姿。ほんとうは、刹那無常、一刻、一刻変化していく今この一瞬の中に、一期無常、このいのちが終わる大無常があるのに、どこかで、「無常が取り詰まり」「いつかわかる日がくる」と轉倒している。その轉倒している姿を聞かせていただく。ほんとうに、聞いたことも、蓄えたことも、死ぬことが実感できようが、できまいが、例外なく、何もかもごっそり、根こそぎ、なにもかも持っていかれる。「言葉」も、「見える目」も、「聞く口」も、「歩く」ことも「動く」ことも、「考える」ことも、「感じる」ことも、この世で身につけたものは、この世にすべておいていく。役立つものは何一つないのだ。そこが、一大事なんでしょう。それがほんとうの私の姿そのもの。死ぬことが実感できたとしても(この腐っていく頭でしっかり分かっても、それがどうしたの?)、いつも迫ってくることがわかったとしても、そんなものは無常観でもなんでもないのだ。

「『されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば』(無常迅速、それで何を急ぐのか)『だれの人も』(まったく例外の人はなく)、『早く』(グズグズしている時間はない)『後生の一大事を心にかけて』(今生事ではない、また後生が心にかかってからではもない「こころをかけて)、『阿弥陀仏ふかくたのみまいらせて』(深くとは他力のこころ、自力で祈願請求、願いではなく、阿弥陀様におまかせする身となって)『念仏申すべきものなり』(他力の身となり、念仏申していく)」。

 老少不定のさかいなので、「早く無常観を取り詰めろ、そう実感してから、南無阿弥陀仏と聞け」などとは仰っていない。「だれの人も、早く」なのである。もちろん、後生の一大事がかかってからではなく、いま、たったいま「後生の一大事を心にかけて聞け」との仰せである。

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コメント

天然ボケだということに最近気づいて、「だから、天然なんよ。」と娘に教えてもらいました。ここに、コメントすれば、よかったですね、、、、。
「聞きあう会」で、聞かせていただいたことをまた、味わわせていただきました。良寛さんのお話の受け取りがまちまちで、??になりました。ブログにしきりにでてくるお言葉の
「捨てる」ということを思わせてもらっています。
他人事のように、「捨てるんよ」と思っている私こそ握ってる!と感じます。ものすごい執着!!

投稿: Tねこ | 2008年10月10日 (金) 08:57

Tねこさん、でも、「だから、ホンモノなんよ」と言われなくてよかったじゃないですかね。

>良寛さんのお話の受け取りがまちまちで、??になりまし>た。
「??」。一応、ぽくの受け取りはご法話したつもりですが、これは、一種の公案みたいなものですからね。正解を聞いたり、覚えても意味ない。それでいて、それぞれの受け取りをご自由というわけでもない。取り組んでみてください。

投稿: かりもん | 2008年10月11日 (土) 21:57

仏教のお話で因果の道理、曽無一善、後生の一大事、
阿弥陀仏の本願と聞かされてもきょとんとしていた自分が
ある日、この心臓が止まったら後生なんだと居ても立ってもいられなくなったとき、法をわがものこととして聞くことができました。真実であっても客観的に証明できないことが多い中、すべての人は必ず死ぬという事実は誰もが認めざるおえないことだと思います。ダジャレみたいですがどこかの講演会で聞いたことですが「無常は無情に通じる」と思います。無情は情けないという意味よりは非情(残酷さも交えて)に近いように思います。レ ミゼラブル でしょうか。

投稿: 和顔愛語 | 2008年10月12日 (日) 06:32

和顔愛語さん>はじめまして。ようこそ!
なるほど、「無常は、無情に通じる」んですね。
 「生」に執着して、いつまでも続くと思っていることこそが、迷いなんでしょう。その目で見れば、「死」や無常は、(自分にとっては) 残酷で、無情なものなのだけれども、それが迷いのほんとうの姿そのものなんでしょうがね。

投稿: かりもん | 2008年10月13日 (月) 22:57

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