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共鳴し、響きあう念仏の声

  体調不良で、今夜の打ち上げはパスしましたが、盛会のうちに、そしてお念仏の静かな十重二十重の響きの中で、今回の法座を終えることができて、大悲のおこころの一端が、この胸にも届き、とてあついものが込み上げてきます。

  お世話くださったみな皆さん、ご参加くださった皆様、ほんうとにありがとうございました。
 まず、東京駅では、最近仲間になられたばかりの方に、(どうやら同じ新幹線だんたらしい)お声をかけられ、茗荷谷駅へ。すると、道案内のポスターを掲げて立ってくれているO君が目につきました。会館前でも、昨年の講演会でご縁のできた高齢の方が、立って待ったくださる姿に、感銘しました。会場に入ると、すでに花やビデオなどの準備も出来、イスもきっちりと並んでいました。古株の同人に混じって、ご縁が出来て半年ぐらいの皆さんが、自主的にテキパキと作業をされていてくださる姿が、ほんとうにうれしかったです。
 しかも、開場すると、いつもの常連に混じって、久しぶりの同人の方もお出でになる、初めてお見かけする方も、次々と入ってこられました。結局、総勢で50名ほどでしたが、同人の関係者やお子さんなどもあり、ポスターか広告をご覧くだされたと思われる方もあり、また、別の会の会員さんや元会員さんもあって、たぶん12名~3名は、初めての方だったように思いましたが、正直に、反響にビックリしました。

 講演の途中で休憩をいれましたが、お帰りになる方もなく、最後まで皆さんご静聴してくださいました。なかには身を乗り出してご聴聞される姿勢にも、ちょっと打たれましたね。
そのあと、一方的な質疑応答ではなく、思い切って2重、3重でも車座になってみましたが、ほとんどの方が残ってくださり、同人の師弟の初めての方などがご質問されたりで、これもまた温かい雰囲気でよかったです。終了後には、30年来の進まぬ聴聞の心境を告白というか、質問もされる方もおられたり、有線放送でお世話になっている、サウンドプラネットの担当者の素敵な女性にもお会いできるなど、準備段階ではバタバタと不安もあり、課題もあった講演会の出発でしたが、皆さんのお力と、ご法のすばらしさをあらためて知らされる、充実した集いになりました。ご参加くださった、ひとりひとりにお礼をいいたいです。
ほんとうにありがとうございました」。すぐにはご縁と結びつかなくても、長い目では、これからの聞法のご縁のきっかけにはなったという、手応えを感じました。

 ただし、出発前から少し風邪気味だったのもあって、張り切りすぎてホッとしたのか、夜には声が出づらくなり、珍しく懇親会もすぐに退散しましたが、なんとか今日の法座までは、終えることができました。

  そして最後には、東京支部の菩薩方と、響きあう、共鳴しあう、百重千重のお念仏のワークを実践しました。これまで九州や広島で、もう少し小人数でやったことがあります。これには、ぼくなりの狙いがあったのですが、なにかそんなものを超えて、ただただ尊く、皆さん、お一人お一人から、大事に大事に大事に、受け継がれてきたお念仏が、私にも届き、それを仰ぎ、押しいただき、そしてまた大切にお渡しするということを、理屈でなく、体で聞かせていただきました。勿体ない一杯でした。

  これまでの人生が、つらくて、ずっと死ぬことだけを考えているという方がおられました。よく話してくださいました。ほんとうにつらい人生を送っておられるのでしょう。でも、その方にも、確かに温かく、尊い、南無阿弥陀仏のお念仏が、大事に大事に届けられ、そのお念仏でしっかりとつながっているということを、理屈を超えたところで、聞いてくだされたらば有り難いです。

  無漸無愧のこころも、いまは温かい大悲のお心が満ちていますが、たぶんそのせいではないと思うけれど、微熱があるので、今夜は早寝しましょう。

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コメント

東京公開講演会の報告を心待ちにして朝一で開いてみました。
その場が熱心に聴聞される温かでそれでいて尊い場であったこと、私もその場で展開される中に居るようでとても嬉しいものでした。
東京支部の方達の並大抵じゃないお働きにも感激しました。私も頑張らなければとチョット反省。
先生、風邪を引かれた中で頑張られたんですね。偉い偉い。毎日忙しいでしょうがよく休んで下さいね。

投稿: 妙誓 | 2008年10月20日 (月) 08:42

妙誓さん>その場におられなくても、離れた場所からも声援いただき、ありがとう。
 ぼくもその場でも、予想以上の反応のよさに勇気をもらいました。さらに今日になって、參加者のおひとりから華光誌講読の申込みがありました。見本用にはさしあげただけで、なにも特別な勧誘などしていないのに、さっそく反響があって喜んでます。いろいろあるけれども、ウワサではなく、実際に触れてもらったり、聞いてもらわないと分からないですからね。

投稿: かりもん | 2008年10月20日 (月) 19:29

かりもん様

こんばんは、ここでは希死念願と名乗らせていただきます。

今日、初めてこのブログを拝見させていただき、

> これまでの人生が、つらくて、
> ずっと死ぬことだけを考えているという方がおられました。

と、私のことを書いてくださっているのを発見し、びっくりしました。


いきなり話が変わります。
かなり悪趣味ではありますが、私は、母が投身自殺したときの記録文章を下記URLにて公開しています。

http://www.ne.jp/asahi/aqua/eclipse/r/r.html


以前、私が精神科のカウンセリングを受けた際、カウンセラに読ませて、ベテランのカウンセラを絶句させた破壊力抜群の記録文章です。(果たしてカウンセラは、自分よりつらい経験をしたクライアントを癒すことができるのでしょうか? 尽きない疑問です。)

かりもん様、皆様、よろしければご一読いただければ幸いです。

失礼しました。

投稿: 希死念願 | 2008年10月20日 (月) 21:21

希死念願さん>ようこそお出でくださいました。お待ちしておりました。ちょっとこんな形でしか呼びかけできなっかたこと、お許しください。でも、こんなに早く、つながりができるとは、なにかご縁を感じます。

 それにしても、すごいニックネームやね。ある種、死への願望が、いまを辛うじて生きている原動力になってるわけですからね。その意味では、「希死念願」も、尊いかもしれんね。

 記録文章もしっかり読ませていただきしまた。けっして「悪趣味」だとは思いませんでしたよ。それに、ぼくは、人間の言葉で慰めたり、同情したり、癒したりするつもりもありません。ゴメンね。第一、こうして、文章になっている部分なんて、そのときの衝撃のほんの一部の、言葉になって顕せる部分だけでしょう。ほんとうの苦しみ、慟哭は、充分に意識化されず、言葉にもならず、表現されていない部分にこそあると思います。文章になったり、話されている部分は、すでに「話されている」=「放されている」のてすからね。まだ放たれていない部分を、そう簡単に分かられてたまるかだもの…。
 
>果たしてカウンセラは、自分よりつらい経験をしたクライア
>ントを癒すことができるのでしょうか?尽きない疑問です。

 さあ、どうでしょうか。一般論ではなく、希死念願さんのところに焦点を当てると、答えは、Noであり同時でYesでもありますか。日常の苦悩を解決するのか、それとも後生の苦を解決をするのか。人間のカウンセラーをあてにするのか、それとも阿弥陀様をたのむのか。
 「如来の作願をたづぬれば
  苦悩の有情を捨てずして
  回向を首としたまいて
  大悲をば成就せり」でしょう。
 南無阿弥陀仏だけですよ、私の苦悩に寄り添い、除いてくださるお働きは…。そう喜ばせていただているし、今生の傷を癒すことはできないくても、そのことなら、お伝えさせてもらえるかもしれません。分かろうが、分かるまいが、いまも、「南無阿弥陀仏」に願われ、つながってるんですね。
 偉そうなこと、失礼しましたね。

投稿: かりもん | 2008年10月21日 (火) 21:52

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