10月の輪読法座。昨日は、華光会館で、講師(僧侶)を交えないで同行だけの京都支部法座があった。今日は、名古屋方面での東海支部法座と、華光会館での輪読法座とあった。ちなみに、明日(27日・月曜日)は、ゆうこが講師で、聞きあい、話し合い(暮らしのなかのカウンセリング)の集いがある。人によっては、三連ちゃんの方もあるかもしれない。
天気は小雨。昨日の京都支部に比べると、半数以下の人数だったが、昨日に引き続きの方ばかり。中には、京都から名古屋に移動した方も数名あったという。皆さん、ほんとうに熱心で、頭が下る。13名たったが、輪読するには手頃の人数だと思う。
67-4号の巻頭言「お育ての眼差し」(松岡宗淳師)を読む。結局、約3時間30分かけて、今日はここだけを味わったが、いろいろと話題が展開した。
冒頭の『香樹院講師語録』-江戸時代のお東の講師(西の勧学)で、香樹院徳龍師の語録の一節から、現代の真宗念仏者がご法を伝える上での対人的態度について、温かくも優しい法の眼差しをが生まれる、その根源に言及されていくのだ。
「南無阿弥陀仏の口にあらわるるも、五十年、百年、千年くらいじゃない、無量劫の御養育」というお言葉がある。このお言葉がいまの私にとって、阿弥陀さまのご苦労を知る秤(はかり)となり、法の鏡となり、またお念仏のご催促にもなっててくださっている。
信前信後をとわず、たとえ口真似や儀式や現世利益のためであっても、その一声のお念仏が、今、称えられるのは、無量劫のお育てがあってのことだと言われる。なんと尊いことではないか。
まったくそのとおりである。もうこう聞かされたら、ほんとうは何も言うことはなくなる。ただ、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、申すだけである。
悲しいかな、ぽくたちの限りある智慧では、今生の法に出会うためのお育て、ご苦労なら、ひとつとひつを具体的に振り返ってお示しいただくと、もしかすると頷き、理解出来るかもしれない。しかし、そんなちっぽけな話ではないだ。無量劫にわたる阿弥陀様のお育ては、まさに、宿世の縁を、「遠く宿縁を慶べ」の世界である。
凡夫の限りある、迷いの眼で、絶対に分かるはずのない世界なのに、自分の称え心ばかりを問題にして、その称えている念仏にかけられた願いをまったく聞いていない。有り難かろうが、砂をかむ念仏であろうが、絶対にこの極重悪人のこの私から生まれるはずのない、尊い真実の「南無阿弥陀仏」の呼び聲が、わが口を借りて出るまでの、そのお育ての尊さ、勿体ないよである。当たり前のことだが、「南無阿弥陀仏」そのものは、真実の阿弥陀様がご成就されたもので、名号には自力も他力もなく、真実そのものであるのに、そのお心を穢すのは、実は、「自力だ、他力だ」とこだわる、わが小さな計らいの心だというお心にも通じるのではなかろうか。
ところが、筆者の眼は、そんな尊い念仏を称えながらも、自力の心で、グズグズ駄々をこねている未信者に向かうのではなかった。ここは意外な展開。むしろ、たとえ、「口真似や儀式や現世利益」の自力心の念仏であっても、念仏を称えている人をこそ、無条件で尊重し、温かい眼差しで受容しない、「我得たり」という邪見驕慢の自己自身に、その破邪顕正の刃を向けておられるのだ。
いまはまだ真実にいたらねども、念仏を称えている人を、肯定的に見ていける眼差しをいただく、この温かい優しい法の眼差しがあってこそ、その人のご法の歩みが進む。自他力廃立という絶対否定の念仏道を歩むためにこそ、肯定的な、温かい人間関係の質が、そ根底になくてはならない、と言われるのである。
特に、時代は、とりわけ若い世代(いや、中年や壮年もかわりないなと、ぼくは体験的に感じるけど)、「傷つきやすい心性を抱え、否定されることに敏感で、すぐ自己防衛に走って心を閉ざしてしまう傾向が強い」ので、そのお育ての眼差しによって、「今の自分が全面的に受容されているという安心感の持てる関係、雰囲気」が、これからは重要で、そのなかで、しっかりと自己と向き合え、仏法と取り組むエネルギーが出て来るというのだ。そのことが、親鸞聖人の御同朋、御同行の精神を具現化する上で、重要な態度だというのであろう。
いろいろと実際の法座経験での困難さや、自分の質のところで、さまざまな意見が出た。ぼくなりの、真宗カウンセリングのところでも、お伝えできる態度などを話した。しかし、ここは言葉で語り合っても詮ないところである。結局、この法座自体が、先生が示されるような対人的な態度、雰囲気の法座に向かっているのかが、問われているのである。それでこそ、この文章を輪読する意味があるように感じした。
特に、僕自身は、仏青大会の座談会の時に味わった課題をあらためて思い出し、その時、相手の方に示せなかった関わりを、今回、あらためて示すことが出来たようだ。相手の防衛的な外側の言葉に反応するのではなく、相手の心根の部分に、ほんの少しでも触れることが出来た。やはり、固い態度と比例して、心は傷ついておられることが分かったし、その寂しさを聞いて、互いの理解が少しは進んだ気がしたのだ。未消化だった部分が、ほんの少し解消させてもらえる機会をいただけたのも、この文章が秤となったおかげである。
泥凡夫のぼくには、相手を思いやる優しい心などない。冷たい、特に恐れや不安をいだく、そんなネガティブな心なのである。それでも、阿弥陀様のおこころに支えられて、恐れることなく、相手にしっかりと眼差しを向け、大切にお聞かせに預かろうという思いに心を寄せていくことで、それが温かい法の眼差しにと変じていくのである。つまりは、恐れたり、飾ったり、軽蔑したりするのではなく、ただ、しっかりと、いま、ここに、この私の前に座ってくださっている、それも昿劫からの不思議なご因縁に結ばれた御養育のたまものとしたなら、ただ、しっかりと眼差しをむけ、しっかりと耳を傾け、静かに口を開かせていただくという、至極当たり前のことなのではないだろうか。もっもと、言うは易し、行なう難しである。結局、それを実践したものだけが、味わえるのだろうなー。