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佐味田の教行寺(2)補足編

 ある同人から、「摂津富田の教行寺って、『富田殿』のことですか」という質問をいただいた。そうなんですね。コメント欄に書きかけたが、改めて一言だけ。

 『蓮如上人の御一代聞書』16條に、
 「一、十二月六日に富田殿へ御下向にて候ふあひだ、五日の夜は大勢御前へまゐり候ふに、仰せに、今夜はなにごとに人おほくきたりたるぞと。順誓申され候ふは、まことにこのあひだの御聴聞申し、ありがたさの御礼のため、また明日御下向にて御座候ふ。御目にかかりまうすべしかのあひだ、歳末の御礼のためならんと申しあげられけり。そのとき仰せに、無益の歳末の礼かな、歳末の礼には信心をとりて礼にせよと仰せ候ひき。」

 とある。さすが蓮如さまやね。今生の挨拶やお礼、形式ではなくて、そんな暇があるのら、「信心獲得せよ」といわけですね。その身になる人がひとりでも増えることが、最高の御礼になるというわけです。まあ、ぼくたちだって、座談や示談が時間切れで終了した時に、相手から「ありがとうございました」とか「長時間、わたしひとりのために」などと言われると、「いや、そんな今生の気兼ねやお礼なんかより、早く『南無阿弥陀仏』の身になってよ」といいたくなるものね。焦点は、そこに当たっているわけです。

 まあ、とにかく、『聞書』にはほかにも「富田殿」と出てきます。この「富田殿」が、摂津富田の教行寺です。この地で、蓮如上人が『教行信証』を書写されたので、「教行寺」といわわれるようになり、寺内町(寺といってもある種の城)も含めて、たいへんな繁栄をし、出口(枚方の)光善寺(京阪の駅ありますね)と並んで、畿内、播磨などへと爆発的な教線拡大の足場となった重要なお寺です。
 それが、石山合戦に破れて移転した先が、佐味田の教行寺だったというわけですね。

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コメント

「光善寺」の響きが懐かしくて、またまた登場です。
私は嫁入りする前はずっと京阪「光善寺駅」の
ひとつ隣りの「香里園駅」を利用していたので、
嬉しくなって、つい。

先生、遅ればせながら「10万アクセス
おめでとうございます
毎日楽しみにしていますではでは。

投稿: 蓮華 | 2008年9月27日 (土) 22:38

 またまたありがとう! みんな、「沈黙は金」と奥ゆかしくて、だーれも触れてくれないのだもん。

 さてさて、「光善寺」は、元京阪沿線の蓮華さんのこと、考えましたよ。「蓮如上人」ゆかりで、真宗が繁昌する拠点だったんですからね。いまとなっては、「蓮」つながりで、すごいじゃないですかね。でも、わざわざ「光善寺」にはお參りしないなー。急行も止まらないしね…。

 

投稿: かりもん | 2008年9月28日 (日) 00:02

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