触光柔軟…~九州法座(2)~
静かなお念仏に包まれながら、その足で、九州支部法座へ。最近、ちょっと參加者が寂しい九州の集いですが、今回は、平日にもかかわらず、20名ほどの参加。常連の九州支部の方だけでなく、東京や広島からの参戦で、かなり活発な法座でした。1日だけですが、まったく仏法聴聞が初めてという青年に、初参加の本派の布教師の方。「父の遺品にあった『親指のふし』を読んで、ぜひ、悟朗先生にお話を窺って後生の一大事を解決したい」という年配の方も初参加。この方は、感銘を受けたと、1日だけの予定が、翌日も参加して、華光誌も定期講読、さらに今週末の広島支部も申し込まれました。若手僧侶の方も多かったし、ほんとうに久しぶりに参加の方もありました。それぞれ年齢(20代~80代まで)も、性別も、仕事も、バックボーンも、趣味もそれぞれ異なる人たちが、一同に集って、お念仏のおいわれを聞き、そして称え、喜びあいました。特に、最後の法座の分かち合いが有り難かったです。一方的な法話だけでは味わえない、ひとりひとりの身を通して発せられるウソ、偽りのない言葉が尊かったですね。ウソ、偽りだけらの虚仮の身なのにね。
初日、ぼくの迎えのために、博多駅で待っていてくださった彼女は、夫への怒りのエネルギーがすさまじく、何時間も愚痴一杯を吐き出されました。いや、「王舎城の悲劇」ならぬ「博多A家の悲劇」だなーと思いましたね。親子の愛憎劇ではなく、夫婦の愛憎もからんで、お互い業を果たし合ねば、別れるにも別れられない。まったく不思議なものです。まあ、我が身に詰まらせれもしました。それに、その怒りの矛先は時に、華光へも向きますからね。「お釈迦様、お釈迦様はどうして、あの極悪人のダイバダッタの親類なんですか…」と始まるイダイケ夫人じゃないですが、ぼくもお釈迦様ならぬ、A家のイダイケ夫人の愚痴のありったけをお聞かせにあずかりました。でも、これも権仮の仁でした。ご法の偉大さ、不思議さに触れさせてもらえることになりました。
それが、2日間、法席につらなられ、お念仏を称えられると、最後の分かちあいで、お同行さん方の励ましに応じて、素直にその相手に頭垂れ、感謝の言葉を口にされました。その姿に、正直、驚かされました。博多駅までお見送りくだされ、お別れした時には、ほんとうに満面の笑みを浮かべておられました。こんな現世利益もあるんですね。ご法の暖かさ、やわらかさに触れた気がします。まさに触光柔軟の願だなー。
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