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大阪支部法座~三つの量~

  日曜日。朝、約束していた個人相談を中止したいとの連絡。午後から、大阪支部の予定だったので、ちょっと余裕ができた。

 年に1度、大阪支部といいながら、京都の華光会館で法座がある。久しぶりにお参りくださる方、少し体調を崩しておられたのに、元気に顔をだしてくださった方もあった。また、初めての方が、4名あったが、お友達と一緒にお出でくださった方以外は、例のルートである。法話は、歎異抄の12章の「学解往生の異義」のところを、少し長めにご法話したあと、座談会。ちょっとご法話が、長くて、しかも内容が盛り沢山すぎたようだ。「庄松、お前を助けるぞ」の話が印象に残ったという人が多い。初参加の20代前半の若い女性から、「後生の一大事」とか、「無常」とか、「罪悪」という言葉がバンバンである。普通ならありえないことで、まさに有り難い話だし、ちょっと斜めからみると、おかしな話でもある。

 座談時もそうだったが、その後も小一時間、その疑問に答えた。正直に、わからないことや不審に感じていることを話されたのはよかったが、ちょっと疲れた。別に答えが難しいからでなく、外側の「○○会では××ですが、華光会はどうですか」という類の質問が中心なので、まだまだ自分に触れていかないからだ。ほんとうは、その、いわば思考の負のスパイラルから一歩でなければ、○○会であろうが、△△寺であろうが、そして華光会で聞法をしても、意味はないということを分かってもらいたいのだ。そのためには、このプロセスを一度は通っていかないければならないのもわかる。ただ、「教学の根拠はどこにありますか」「親鸞聖人の聖教上では、どこにありますか」を連発されと、逆に心配になる。本人にしたら、騙されたくない、ほんとうのことを知りたい、いちばん、整合性のありそうな、納得できる話を信じたいの一心なのだろうけれども、その金科玉條の「教学的根拠」にしても、聖教を都合よく取ったり、つなぎ合わせて、再構築したもので、簡単に丸め込まれる危険性もあるのだ。他者への批判にしてもその通り。一見、客観的なような根拠に、聖教が悪用されるケースだってあることを、頭にいれておかないと危険なのだ。

 もちろん、聖教量は大事だ。それが法の鏡であることはいうまでもない。同時に、いま、わたしの上に届いている「現量」がなければ、これまた空しい。でも、聖教だけなら、偏狭な教条主義、学解往生に陥るし、一方で、ただ体験だけなら、独善的な心理主義になる恐れもある。その意味で、友同行と、喜びを分かち合い、響きを聞き合う「比量」という「三量」がイキイキとしていることが、その中心にある法(ダルマ)が躍動している姿である。それが生きた法座なのだ。すると質問がでる。「その教学的根拠は、どこにありますか」と。ヤレヤレだ。いま、ここに届いている、生きた「南無阿弥陀仏」を聞きながらも、小さな迷いのこの人間の頭に収まるように、切り刻んで標本にして、保存しておくつもれなんだろうかなー。

 その意味でも、一度、冷静になって、俯瞰的な視点、第三者の目で、自分のいまの姿を眺めてみることをおすすめしたい。「後生の一大事の解決こそが、人生の究極の目標」と、必死になって「正しい」ことと疑わずに求めているが、そのわが姿そのものが、ほんとうに「真実」なのかを、一度、鏡に写して、確かめてみる必要がある。目の前にぶら下がる「信心」というニンジンを追い求めて、鬼のような形相で、餓鬼のような心を持ち、畜生同然の愚かな姿を、しっかりと聞かせてもらうしかない。もう、それを聞かされれば、「うんも、すんも」なくなる。いま、ここの自分を抜いて、外側ばかりを比べ合う聞法や発想から抜けることは難しいけれど、まずそこが出発点なのだ。ウーンと皆さんを困らせて進んでいくしかないかなー。
 その意味でも、この先のご縁は、もう宿縁としかいいようがない。面々の御はからいなのである。

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