汚染米
産地偽装や表示のごまかし、賞味期限の改ざん、毒物混入などが、次々と発覚して食の不安は増すばかり。それが、とうとうここまで来たかの感がする「汚染米・事故米」の事件。「儲かるならばそれでいい。バレないならば何でもあり」という風潮が、なんとも恐ろしい。
先日、ぼくたちの学区の中学校(その周辺も含めて)でも、汚染米が学校給食に使われていたのことが発覚した。学校給食のルートの解明は初めてという。直接、赤飯にして供給した会社が、ファースト・フーズ(『いちばん』ですね)という、長い間、華光会館の行事の時にお弁当をお願いしていたご近所の会社(最近は違います)。問題の汚染米は、接着剤の会社から卸されたもので、複雑な経路を通って来ている。「国内産」と信じて仕入れていた米問屋も、この会社もある意味で被害者。何より、実名公開されて、会社の信用という意味でも大打撃だろう。
ぼくは、「米」という字、(ほんとうの字源はともかく)「八」「十」「八」という字から来て、八十八もの手間をかけられていると教えらた。そして、そのお米のおかげやご恩徳を教えていただいた。お仏飯(ぶっぱん)をいただき、「一粒一粒に仏様が宿っておられのだから、粗末にしてはいけないよ」と、育てられてた。そして、「み仏と皆様のおかげにより」恵まれた御馳走なのだと、食前食後には手を合わられるようにと育ててもらったのです。そのことから思っても、ずいぶん、悲しい事件が続きます。
ところで、「勿体ない」という言葉は、まだ聞きます。食べ残し再利用していた業者も、「勿体なかった」と、コメントを出してます。でも、「冥加」(みょうが)という言葉は、死語になっていますね。まだ、「冥利」は残っているか。つまり、神仏からの目に見えないが確かにある加護の意味である「冥加」。その冥加を受けたことに対する謝礼として寺院や神社への喜捨のことを「冥加金」と言ったりします。(このことは少し前に「冥加」と題して書いてますので、こちらをクリックしてください)→http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_0c71.html
つまり、利益優先ということから、都合のよい「勿体ない」という言葉は残ったけれど、一方、神仏に対する畏怖の念は薄れて、「冥加」という言葉が使われなくなっていることも、今回の事件の背景と関連している気がして、どことなく悲しいんです。みんな、みんな、阿弥陀様のいのちでないものはないんですがね。そう考えると、ただ安全、安心という面だけでなく、なにかやりきれいな世相になってきたと感じます。仏法に耳を傾ける人が、少なくなっていくのも、末法五濁なんでしょうが…
| 固定リンク
「法味・随想」カテゴリの記事
- 修正会(2)~地震~(2024.01.03)
- 今日はご示談(2022.11.25)
- 神鍋高原・八反瀧(2022.11.06)
- 納骨法要(2022.10.29)
- 法に追い立てられる幸せ(2022.05.29)
コメント