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オウム返し

 ある法座で、奥さんが立腹されていた。なんでも、このところ、カウンセリング学習会で学びだした夫が、(妻に夫が)『カウンセリングしてやる』(つまり夫が「困っている」妻を助けるイメージだ)と態度で話を聞くというのである。だから、「○☆*○※*△◇だ」と言ったとしたら、「『○☆*○※*△◇だ』と思ってるのだね」とオウム返しされる。「お前、バカにしてるとー」というと、「バカにしていると思っているのだね」と、オウム返しは続くよ、どこまでも。だから、ほんとうに腹が立って仕方がないという。
 まるで笑い話のような話だが、ご本人同士はいたって真剣だ。

 でも、それゃ、そうだなー。子供の時、友達をからかう時に、誰もよくやったでしょう。3、4回も口真似し続けると、子供でも腹を立てる。まして大人になったらどうか。別に悪意がなくても、ぼくの真横で、ぼくの発言内容を、そのまま何度も何度もオウム返しされ続けたら、とても話しづらくなってしまう。そんな経験もしたことがあるが、ましてや、そんなことを知らない人には、なおさら悪意にしかとれないかもしれない。

 その場では、「より正確に聞こうとされる一生懸命なんです。ダンナさんのレスポンス(返答)が不自然で未熟なだけで、もうちょっと暖かい目で見守ってあげてください」といったアドバイスなどがあったが、カウンセリングというものを通じて、夫への不信、怒りは収まる様子はなかった。

 あるカウンセリングの本の中には、カウンセラーの返答の技法として、「オウム返し」という文言で示しているものもある。しかし、「オウムは返しませんよ」と、西光先生はよく言われていた。ここでの返答は、オウム返しとは違うのだ。『暮らしの中のカウンセリング』でも
 「この内容のくりかえしは、ともするの形式的・機械的な『オウム返し』になりやすいのです。前の『簡単な受容』もそうですが、心がともなわない言葉だけの模倣が、いかにぎこちなく、またしらじらしい感じをを与えるかは、少し実習してみるだけでも、実感としてつかめます」と(86頁)で述べられている。
 さらに、話し合いの基本ルール(221頁)にも、「正確にいい直すということは、必ずしもオウム返しにすることではなく、相手の言おうとした気持ちや意図の核心を明確化することを意味する」とも、言われている。

 にもかかわらず、少しミニ・カウンセリングの学習が進むと、「ああ、カウンセリングって、言葉を正確にオウム返しするんだなー」程度の理解に留まって、しばしば上記のような悲劇といか、喜劇がおこってしまう。確かに、その場合も、より正確に、誠実に言葉に寄り添う、聞こうとする誠実さの現れなのである。が、すこし相手の立場に立ってみればよくわかることだ。当たり前のことだが、「カウンセリング」=「ミニ・カウンセリング」という理解では、実は不自由分なのである。とはいっても、この不自然さを意識しながら、やはりそうしていくプロセスを経ないと、なかなか聞く態度は身につかないのも事実だろう。そのためには、頭の片隅に、正確にレスポンスすることは、決してオウム返しとは違うんだということぐらいは、置いておいていい。決して、「オウム」は返さない、私も、相手も人間なのだと。そうでないと、正確に「オウム返し」することだけに神経を募らせて、ただ言葉のうわつらだけを捉え、相手には、単なる言葉を模倣されているというメッセージしか伝わらず、聞いてもらっている実感も薄いだろう。聞くという営みは、実は、言葉そのものではなく、その言葉の出所や、その響きこそ聞くのである。そのために、その言葉を大切にするのことが、実は相手を大切にすることなのであって、そのことを忘れては、喜劇のような言葉の模倣に終わってしまうのだ。

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