『闇の子供たち』
『闇の子供たち』を観たのは8月25日だから、かなり時間がたって、衝撃も薄らいでいるが、そのぐらいの方が、冷静に考えられるかもしれないほど、インパクトが強かった。改めてパンフレットを眺めつつ、書きかけの文章をし仕上げた。
半分、観たくない気持ちもあった重いテーマの社会派ドラマだ。小さな子供をもつ身としては、中途半端な気持ちでは見ないほうがいいような、眼を背けたくなるようなシーンやセリフも多い。
「血と骨」の梁石日の小説を原作にした映画の主な舞台は、タイ・バンコクと、南部の田舎町。タイ駐在の新聞記者(江口洋介)が、闇ルートで行われている子供の生体臓器移植の取材を始める。その過程で、調子のよいフリーカメラマン(妻夫木聡)を知り合い、紆余曲折があって協力者となる。一方、NGO職員として、子供たちの援助活動のために現地にはいた若い女性(宮崎あおい)は、典型的な「自分探しボランティア」で、世間知らずの青臭い正義を振り回す(この青臭さがリアル)とも絡み合いながら、闇の世界、そして裏社会の現実を目の当たりにすることになる。
そこは入れば入るほど、想像をはるかに超えた現実の悲惨だけが待つ世界だ。貧困からおこる児童(幼児)買春に、人身売買、数々の犯罪。その末路は、エイズとなって捨てられるか、きれいな洋服を着せられれば生きたままの臓器摘出をされていく。たとえ生き残っても、ヤクザとして人間性を喪失した虐待する側としてしか生きていけいないのだ。
供給があるのは、需要があるからだ。そこには、金を持った先進国の人々の薄汚い欲望と、あるいはかわいいわが子の命を救うために、外国の貧しい子供たちの命が引き換えにしたいとう親のエゴという現実だ。だから、どこかに異常性愛の変質者がいるという問題だけではすまないのだ。それをただ糾弾するだけでは、問題は解決しないことは明白だ。認識する、せずにかかわらず、それぞれが密接に絡み合い、今、私達の生活と無関係とは言い切れないということだ。
たとえば、15歳未満の子供への脳死者からの臓器移植は、日本では禁止されている。あくまで日本ではの話。外国では、巨額が動くビジネスにもなる。当然、臓器の売買やいかがわしいバイヤーが介在するのも現実であろう。極貧困であるがために、生きたまま(つまり殺される)臓器提供される子供たちもいるのである。難病のわが子のために、犯罪に加担し、モラルに反することに葛藤しながらも、現実を覚めてみている父親役の佐藤浩市もいい味がででいたが、簡単に「親のエゴ」と攻めるだけで解決する問題ではないのだ。
それにしても、売春宿に動物同然に監禁され、エイズに罹患して邪魔になると、ゴミ袋のゴミとして生きたまま捨てられていく少女。泥水をすすり、なんとか必死の思いで実家にたどりつくのだが、この少女の身に待ち受けているものは、まさに悲惨そのものである。そして、こころの中で呼び合うその妹は、身綺麗な洋服をきて病院に連れていかれるだが、その姿も悲劇以外になにもない。
この映画を見ていると、日本はいま、競争原理の格差社会と言われているが、それでもその大半は光りの中の世界になるのだろう。だか、世界の現実は、光りのまったく届かぬ闇の世界もあるということなのだ。そして、それは、社会的構造であると共に、先進国に私達、ひとりひとりの中にも、存在している闇にほからない。
ラストも衝撃的で、打ちのめされて画面を眺めていたが、突然、桑田佳祐のエンディング曲が流れてきて、ぼくにはかなり興ざめだった。もし単独で聴くのなら、彼の歌は大好きだ。でも、この映画の後ではゴメンだ。イメージソングとして、メッセージ色の強い歌詞なので、押しつけがましく、個々人の思いに浸食してくるからだ。これだけのテーマを、各々の「心の闇」に投げかけているのだから、無音のエンディングロールの方が、さらにインパクトが強かったのではないか。まあ、このあたりは、人それぞれの趣味でしょうが。
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