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「いま、ここでしかない」と言われても…

 8月の輪読法座。日曜日ということもあって、20名の参加。悟朗先生も出席。顔ぶれも、ずいぶん、新しいご縁の方が多い。同人会会員は、半数強ぐらいか。東京や神奈川、愛知と、遠方からの參加者もあったし、例によって、例のルートの初參加者もあった。『誓願不思議』の輪読。ご縁の浅い方や未信の方が多いので、どうしても発言が重くなる。悟朗先生もおられて、緊張されている様子だ。第一、この文章は、「誓願」と「不思議」について、聖教の言葉が重ねて説明されているので、日頃から、聖教に親しみ、味わっていないと、なかなかお味わいが出しにく。「ごもっとも」で終わるか、疑問点などを質問するか、または本文から離れていくような質問が中心となってしまう。発言者が偏って、冒頭と終わりの一廻り以外は、発言がないいままの方もあったのは、残念。それでも、初めての方や遠方の方には、一言は口をきってもらった。

 その中で、「いま、ここで聞く」とか、「いま、ここかしない」と言われても、なかなかまったくそうは聞けない。当然、救われていくとは思えないが、どうすればいいのかという趣旨の発言があった。悟朗先生が、言葉を重ねてお話されたが、当然、頭の上をスーと通り越してした聞こえない様子である。もちろん、言葉の意味がわからないというのではない。頭では理解できるが、人ごとにしか受けとれないのだろう。

 というのは、この質問自体が、まったく意味をなさないからである。せっかくお話をいただいているのに、その話をわかったつもりで、自分の方の聞き方、受け方ばかりを詮索しているのだがら、当然、こころは、いま、ここにはないのだ。それで、いくら「いま、ここで聞かねば」と力んでみたところで、結局は、空回りするだけである。

 卑近なたとえだが、勉強や仕事に手がつかない時は、いくら「集中しよう」「集中が大事だ」「集中するにはどうすればいいのか」ばかり考えていたら、ますます集中できないの同じである。そんなときは、集中できないなりにでも、まず目先の1行を読もう、それが終われば、次の1行、1行、そして1頁と進んでいくと、いつのまに、「集中する」とか「しないとか」が問題でなくなっていく構造と、よく似ている。当たり前だが、意識するればするほど、集中に遠くなる。ましてや、ほんとにう集中し夢中になっている時は、「いま集中しているぞ」なんてことを絶対に思わないはずだし、「どうしたら集中できるのか」なんて方法で、集中なんかしないはずだ。

 だから、「いま、聞けているぞー」なんて意識をしても無駄なのだから、せっかく、いま、ここでお話くださっているお話を、ただ受け止めて聞くだけなのである。どうにか感じねば、しっかり有り難く受け取らねば、なんて無駄なところに力をいれる必要はない。まずはわからないものは、わかないと聞くしかないが、せめて、こちらの感情や思いの変化ばかりを問題にしないで、相手のお話くださるそのお話を受け止めていくのである。できれば、話の外郭ではなく、その私に関わって来る中身のところでを聞くのである。そうしてお聞かせに預かる以外に、その背後に隠れている、生きた大悲のお心も触れていく道は開けないのである。

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