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2008年8月の23件の記事

これから九州支部

 これから福岡のA家へ向かいます。

 九州支部法座は、月曜、火曜と平日ですが、その前に、A家の皆さんとのご法縁を結ばせてもらうことになりました。明日の朝は病院に向かいます。重篤な患者さんへの、たぶん、最後になるご示談の機会をいただきました。厳しい状況ですが、最後に耳だけは残るということでしょう。

 さきほど、(枕元におくために)携帯用のご本尊を探したけれど見つからなかったので、高山支部法座の開かれているF家に電話して、父に確認。ちょっとへんな感じましたね。電話口からも、法座の熱気が感じられましたが、なんでも、部屋に溢れるほどの人数がお参りされているとのこと。地元の方だけでなく、真宗カウンセリングをご縁にした初めての方や、関東方面、福井、名古屋など、かなりの参加があると聞いています。なんでも、高山経由で、明日の福岡にもお参りされる方もあるそうです…。すごいですね。

 では、行ってきます。

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『鳥の巣』~北京のヘルツォーク&ド・ムーロン~

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 今夏、世界中の人達が、いちばんよく目にした建造物は、北京オリンピックのメーンスタジアム(北京国家体育場)、通称『鳥の巣』だろう。国家水泳センターも印象に残る建物だったが、この鳥の巣も、ずいぶん、ムダな鉄骨が複雑に絡み合った建物だなと思っていた。このところ、中国やドバイなどで、建築ラッシュが続き、世界中の鉄鋼が不足して値上がしているというニュースがあったが、この資財ひとつでもすごいものがあった。

Tori_2  設計したのは、J.ヘルツォークとP.ド・ムーロンという、スイスの世界的建築家の共同作業である。設計段階から、中国文化のベースを理解し、「不死鳥を招くおめでたい形」と中国の人達が認識して、自ずとコンペを勝ち上がっていく。その姿を追いかけたのが、『鳥の巣』~北京のヘルツォーク&ド・ムーロン~というドキュメンタリー映画だ。

 しかし、中国通のアドバイザーも加えた布陣で望むものの、かの地での作業はまったく一筋縄ではいかない。たとえば、設計段階では、真ん中にアキのところに、帽子のような天井(ポットのフタのような感じ)がつく計画だったが、契約にない無謀なコストダウンを迫られて、妥協を迫られていく。スタジアムの建築と同時に、上海郊外の地方都市の都市計画にも加わるが、さまざまな障害に阻まれて、こちらは頓挫してしまう。つまり、この国では、西欧の物差しや契約の概念は通用しないのだ。無謀ともいえる短期間の工期で、大きなリスクを負いながら、ギリギリの設計、監理が行なわれていく。しかも、次々と施工主(政府)の要求が変わり、コストがドンドン削減されていく中での難工事だのだ。

 今回のオリンピックでも、しばしばし西欧諸国から「中国異質論」が吹き出したが、西欧の視点から(スイス、フランス)撮られたこの作品からも、次々と文化的背景の違いから起こるトラブルの様子がよくわかる。まさに、異文化のコミニケーションの典型だ。その中で、いかに中国文化を理解し、溶け込み、時に妥協し、かつ独自の創造性を発揮していったのかというプロセスを追いかけていく。やっぱり、超一流の人達は違います。これだけの建築になると、繊細さや、創造性、時に大胆さ、また芸術性も必要なのだが、同時に、現実的で、タフな交渉人としての、高度なコミニケーション能力も備えていないと、けっして一流の仕事は不可能ということだ。国家の威信をかけた大事業。高級幹部の意気込みも違うし、多くの利権が伴うと、怪しげな人物も登場したりする。

 結局、二人は何を作ったのか。けっして、国威発揚のための国家や政治家のための建築ではなく、中国の人々のための建物だと明言しているが、その真価が現れのは、これからであろう。

 と同時に、中国の人たち(特に知識人)にとっての、北京オリンピックも、ただただ熱烈歓迎一色ではないこともわかる。けっこう、国威発揚に醒めていたり、ハコ物行政に、辛辣な批判を展開する中国の大学教授のコメントがあったのは、意外だった。共産党一党支配で、言論の自由のまったくない国だと思っていたが、チョッピリ認識を改めた。

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ますいゆうこ展

Img_2950_2  8月31日までの予定で開かれていてますいゆうこ展」~仏様を感じる毎日~が、好評につき、9月15日(祝)までに延期になりました。わざわざ足を運んでくださったのに、臨時休業(ネパーImg_2893 ル行)で、ご不自由をおかけした方も…。連れ合いも、土曜、日曜日には、けっこうお店に顔をだしているようです。「居ないなー」と思ったら、マチャプチャレという感じの日も…。もし、ご縁がありましたら、ぜひどうぞ。自然食カフェなので、食事も、オーガニックのお茶も、いろいろと飲めます。

Img_2860  日時:7月2日(水)~9月15日(祝) 朝11時30分~20時までImg_2863(火曜日定休)

    会場:マチャプチャレ    (075-525-1330)
 京都市東山区鞘町通正面下ル上堀詰町290
 最寄駅:京阪七条駅から、4~5分です。正面通りを5分、真っ直ぐ行くと、秀吉の
「耳塚」、そして有名な国家安康の鐘がある「方広寺」と「豊国神社」という秀吉ゆかりの地。その隣には「京都国立博物館」や、「三 十三間堂」など、東山Img_2862 の有名な寺院が多数あるところです。

 7月には、この絵とのコラImg_2948_2 ボレーションで、音楽ライブもありました。また、展示品の即売もやっています。
 華光同人の方も足を運んでくださっているようです。(下の案内状をクリックしてね。
案内は8月31日ですが、9月15日まで延期)

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スイカ

  今日は、仕事が混線した1日。昨日送った、9月の法座案内に同封した人もあるが、今日は8月の子供大会の写真の送付し、9月に迫った聞法旅行の参加要項も発送。同時に、仏青の面々が、10月の仏青大会の案内状の発送作業もされたりと、これからの行事の準備に、ちょっとバタバタ。実は、混乱は、人間ではなく、活躍しすぎたコピー機にトラブル発生。結局、修理待ちとなって、仏青の案内は土曜日以降になった。
 その間、カウンセリングの予約があったので、この時間だけは、じっくり聞かせていただいた。普通のカウンセリングから、真宗カウンセリングに支えられたご相談。後生の一大事だけれども、今生もまっとうに生きることはしんどいことだ。最後に提案して、ご一緒に5分ほどお念仏をさせてもらった。

Img_34591_2 夕方には、子供二人が抱えるほどの大きなスイカをいただいた。ぼくもスイカは好きだけれども、M先生には完敗。見事に赤いスイカが真っ白にかわるまで食べ尽くされた。スズムシじゃないですがね。ほんとうのスイカ好きに脱帽。お味の方は……。もう夏も終わりが近いです。

 これからは、九州の準備があるけれど、聞法旅行の準備と並行して、華光誌の編集作業が始まる。今回は、誌上法話も、巻頭言も、他の先生が快く引き受けてくださり、かなり助かっている。でも、このところ、こまごました雑用が増えてきて、ちょっとたいへん。油断せずにとりかからんとなー。

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ネタ

 ほぼ毎日、更新しているけれど、ネタに困ることはない。法座の味わいひとつでもかなりいろいろある。映画だって、これだけ見ていれば書くほうが追いつかない。読んだ本のことも、もっともっと書きたい。映画と本だけでも、365日書けるだろうが、それだけじゃ、世間のものとかわりなくなる。夫婦や子供のことだって、もし許されるのなら、もう話題の宝庫だ。問題は時間やね。これでも、かなり健闘していると思うけれど、手抜きも必要だしね。

 で、今日は、『闇の子供たち』という、ディープな社会派映画を取り上げる予定だったのに、おやおやネタが向こうからやってきました。

 DMで、仏教雑誌の見本が送付。おお、これは! チューリップ企画さんという会社から、『とどろき』という月刊誌が、「寺院限定 ご優待ブレゼントキャンペーン」と題して、丁重なお手紙と共に届けられました。ああ、華光会も、寺院として見てもらってるんだな。

 これもご縁ですからね。せっかくの施本なので、ザーと読ませていただきました。

 まずベージをめくると巻頭に「光りに向かって」。

事実は、遠く世に響く」 と題して。

「誠実安穏に暮らしていても
 時として、あらぬウワサや中傷に驚き、
 悩み苦しみ腹立つことがある。

 しかし、
 やがて時の流れが洗い出す事実は、
 名人の打つ太鼓のように
 遠く世に響くのである。」  

 いやいや。そうですね。「事実は、遠く世に響く」ですよ。わざわざありがとうございます。 そうそう、ちゃーんと引用した本の名を示しておかないと。(とどろき 20年8月号より)。

 それにしても、不思議なことに、読者のひろばなんかの感想は実名が出ているのに、それ以外の文章には、まったく筆者の名前が書かれず、ただ(M)などとあるだけ。目次にも、だれひとりと著者名がない。それどころか、広告の出版案内のすべての本にもない。発行人も、編集人も不明。その意味では、不思議な体裁の雑誌です。なにか伏せねばならない必要あるんでしょうかね?

 まあ、「ご門徒のご教化にぜひ、お役立てください」というご親切でしたでの、ちょっと紹介しておきましょう。

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高山支部、九州支部法座

  早いもので8月も最終週。7月1日以来続いていた京都の真夏日も、やっと途切れ、日曜日あたりから、暑さもちょっと一服。長女の小学校は、なんと22日の金曜日から始まって、はやくも今日から給食が再開し、6時間のフル授業へ。ぼくたちのころとは大違いだ。だいだい、今頃から、夏休みの宿題にやっとエンジンがかかっていた。もう最後、いつも必死でしたわー。それに、9月1日から学校が始まっても、始業式があり、1週間は短縮で午前中で終わってました。いくら、週休二日を導入したとはいえ、ゆとり教育なんて過去の遺物になっちゃいました。

 さて、週末は、父は高山。ぼくは、明日、明後日と、カウンセリングの相談が続いて、日曜日には、重篤な病人さんへのご示談があったりで、九州法座にと向かいます。先週の東京も、東海も新しい人が、ずいぶん多かったです。案外、例のルートだけではなくて、東京講演会がらみだったり、広告をみた方、ネットで検索された方、またはお寺のご法話会経由と、さまざまなルートからのご縁があるので、ほんとうに楽しみです。新しい空気が送り込まれて、ずいぶん法座に活気が生まれます。高山支部にも、遠方から、また新人の方があるみたいですね。これゃ、楽しみだ。ただ、九州支部の方は、新しい方は少ないようです。平日なんでね。難しい方もあるかもしれないけれど、逆にこれは、案外、狙い目かもです。10数名と少人数なので、じっくりと聞いてもらえるチャンス 西日本の方、どうですか?  思い切って福岡までこられませんかね?

1) 高山支部法座  8月30日(土)18時30分~31日(日)16時 高山市の舟本家。
  増井悟朗先生のご法話が中心ですが、松岡宗淳先生も参加されるので、分級座談会もあります。↓
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/08/takayama2008-8.htm

2)九州支部法座 9月1日(月)13時30分~2日(火)16時30分
 福岡県福津市「ウェルサンピア福岡」(まだ海水浴ができる?)↓
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/09/kyusyu2008-9.htm

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新幹線にて。禁煙席とケイタイと

 東京法座のあと、最寄りの地下鉄駅ビルの居酒屋で、有志による恒例の懇親会。初参加も交えて楽しい一時を過ごした。早めに失礼して東京駅へ向かったが、新幹線前コンコースは、お盆中かと思うほどのたいへな混雑ぶり。あちらこちで、地ベタにも人が座っている。いくら、夏休み中の日曜日とはいえ、様子がおかしいと思ったら、熱海付近の大雨で、新幹線が大幅な遅れて、運休も出ている。梅雨どきや雪での遅延はしばしばあるので覚悟はしているが、東京は小雨だったので、ダイヤが乱れているとは思ってもみなかった。20時の新幹線の予定だったが、まだ17時台の列車がホームに停まっている。とにかく、座れないのも覚悟して、早く動きそうな列車の自由席に飛び乗った。まあ混雑は思ったほどではなく、列車自体も、定刻より2時間30分は遅れていたが、ぼくは予定より20分程度の遅れで済んだ。

 その列車は全席禁煙のN700系だった。春から、このタイプの車両に乗ることが、ずいぶん増えた。ほんの昔は、分煙なんて発想もなかったのに、だんだん禁煙派(嫌煙派?)の声が強くなって、徐々に禁煙車両が増えていき、いまでは、喫煙席の方が少数となり、)全車両禁煙の列車の割合も増えている。公共の場での喫煙への目も一層厳しくなっているので、近いうちにすべての新幹線が禁煙になる日がくるかもしれない。小さなときから、ノドが弱い上に、どうも目が痛くなるので、たばこの烟が苦手なぼくには有り難いことだが、大幅なタバコの増税の意見が出るなど、愛煙家は迷惑な少数派になって、ますます肩身が狭くなっているようだ。

 車中で、タバコを吸う人は見かけなくなったかわりに、このごろは車中でケイタイをしている人はやたらみかける。といっても、通話する人は少ない。今回のように列車が遅れた時などは、たいへん便利だ。どの人もこの人も、席に着いたら、まずメールのチェックをしている。京都駅から、近鉄に乗っても事情は同じ。前席に座って並んでいた6名全員、ケイタイを出して操作中。その行動に妙に感心して、なにげなく車中を見回すと、8割以上の人が、そうしている。どうやら、電車に座ったら、みんなメールチェックが、習慣になっているようだ。「いまから帰る」なんてメールを送ったりするのだろうか。ケイタイを持たないので、ぼくはこれは完全に少数派。それで、5分程度の列車でも、本を読むことが多い。でも、在来線で読書をする人は、かなり減っている印象もある。ケイタイがあれば、メールだけでなく、ネットもできれば、スケジュール管理も、小説もTVも見れるし、写真も見れるのだから、確かに便利すぎる。

 以前、2泊3日の法座で、「ケイタイを自宅に忘れて不安でしかたがない」という青年がいたが、いまやケイタイは身体の一部になっているようだ。これだけ依存的になると、きっと棺桶にも入れてもらわないと、不安で死に切れないかもしれない。もしかすると、もうすでにそうなっているのかもなー。だって、一緒に燃やしてしまわないと、あとでまずいことが発覚する人も多いんじゃないかな。皆さんは大丈夫? まあ、死んだ時に、誰と交信できるのかは知りませんがね。

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摂取して捨てざれば

   東京法座から戻りました。三席。歎異抄十二章の学解往生の異議に出る、「本願を信じ、念仏もうさば、仏になる」のご文から始まって、『唯信抄文意』の心口各異、言念無実のおこころで、如来様が真実100点満点と、私は虚仮不実の0点。その0点を0点とありのまま聞くこと。そして、最後に、浄土和讃の阿弥陀経讃の「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取して捨てざれば 阿弥陀と名づけたてまつる」のご和讃のお心をいただきました。特に、共通しいてたわけじゃないけれど、最後に振りえると、我ながら、三席とも一貫したテーマが流れているようにも思いました。

 というのも、今回、東京法座が始めてのご縁の方がありました。皆さん、ようこそ、おいでくださいました。お出会えできてうれしかったです。ほかにも、1年以内、いや半年ほどの新しいご縁の方が多くて、皆さん、熱心です。事前に連絡があった方以外でもお参りされてましたが、皆さん、とても真面目な方で、いい加減なお気持ちでないことはわかりましたが、ひっかかっておられるところがよく似ている。

 いまは、まだ混乱されているようですね。確かに、聞き方に、明確な方法が提示され、ただ「求める」という方向だけなら、コツコツ努力していければいいわけです。でも、「捨てる」ことを聞くのは難しい。まっしてや、これまでの求道や聞法の方法や聞き方では役に立たないと、聞くことは至難の技でしょう。確かに、これまで浄土真宗でのご縁があったから、華光とも出会え、後生の一大事の解決を求めていく身になったわけですから、その意味では無条件に尊いご縁だったことに違いありません。だから後日、そのお育ての尊さに涙する時がくるかもしれません。でも、いまはそこに甘んじて「まあまあ」で留まっていては、ダメです。
 その心の延長で聞くのなら、別に華光にまで来て求める必要はない。自分にとって、どれだけつらいことでも、これまでの求道や聞法の方法や求め方では、絶対に聞けない、これまでの求道は役に立たないとお聞かせに預かっていくのです。けっして、それは易いことはないでしょう。これは、組織や教学がどうこうというレベルではありません。あくまで、自分自身の聞き方、自力のこころでの求め方を問題にしていくわけです。それは、実際には、自分が否定されていくことにつながりますから、すべてを失うようで怖くもあるわけですね。いままで、苦労して集めてきたものが、贋札だと分かっても、捨てられないのと同じで、その中の二、三枚ぐらいは役に立つとうぬぼれているわけです。

 というのも、下手に、答え、外側の公式ばかりを、頭でっかちで覚えるように聞いているから、最後の正解だけは知っている。だから、一見、それが、正しいように思うわけです。でも、自分の心の底をほんとうに見つめてみてください。それでは、虚しいじゃないですか。口で正解を並べられても、心には何もない。後生も真っ暗です。だからもっと努力して、もっと宿善を積んで、この足し算さえ続けていけばとなるが、実は、それがますます予定概念を募らせていくような聞き方だといことには、なかなか気付けない。

 今回も、「上の心ではわかるが、下の心に届いていない。下の心で聞けるようになるのにどうすればいいのか」と、真剣な質問があった。その気持ちはわかるけれど、そのもっともらしい質問しているのが、どの心なのか。それこそが、上の心で、しゃしゃーと質問しているんじゃないのですかと言うと、「じゃ、どうすればいいんですか」と、またまた上の心で尋ねていくことになる。まさに、「自力スパイラル」、「自力堂々巡り」現象に陥ってしまいますね。それは、無常のいのちを抱えている、いま、ここの「自分」がお留守になっている姿。

 だから、生きたいのちの躍動、広大無辺のお働きを、ほんとうに小さくしていることに気付けない。無明のちっぽけな頭で計らって、肝心の「南無阿弥陀仏の姿」、如来の作願のお心、私にかけられた「大悲の呼び声」に耳を塞いでいたのでは、せっかく躍動している真実のおいのちを殺していくだけです。

 阿弥陀仏は、無量のいのちと、無量の光の仏さまということでしょう。生きた「いのち」は、形式やマニアルで捉えたり、数値で量ることはできないもの。刻々と変化し、イキイキと躍動しているものなんですからね。しかも、単なるいのちじやない、「無量」のいのちのお働きを、私の限りなる智恵、限りあるいのちで計らうことなど、絶対に出来るはずはない。だから、親鸞様は、称えることも、説くことも、考えることも出来ない、「不可称、不可説、不可思議」だと仰っています。そうですよ。自分の機ざまを見れば見るほど、救われていく手かかりが微塵もない、虚仮不実そのもの。仏になるタネも怒りの心で燃やし尽くし、真実のかけらも、真実に向かおうとする気持ちさえまったくない、無漸無愧そのもの。それが、絶対に遇うはずがなかった、無量のおいのちに出遇うわけです。けっして、衆生の側からではなく、真実そのものが、逃げるものを追いかけ、抱きとって離さないという摂取不捨のお働きから以外では、この迷いの私が救われていくことはないわけですね。「十方微塵世界の、念仏の衆生をみそなわし、摂取して捨てざれば」というその働きそのもが、「阿弥陀」と名付けれらているわけ。私を抱き取って捨てたまわない不思議のお働きそのものが、「阿弥陀」なんだと。その生きたお働きが、この私ひとりを救うために、三世十方を覆い尽くして、いま、まさに躍動しまくっているわけでしょう。勿体ないじゃないですか。

 「どうなったのが信心か」「あれは、ホンモノか、ニセモノか」「この念仏は自力か、他力か」なんって四の五のいっている暇が遇ったら、阿弥陀様の大悲のお心、お働きの尊さ一つを聞かせてもらういましょう。
 そして、喜びたくなってら、喜ばせてもらえばいいです。
 念仏を称えさせてもらえばいいです。
 泣きたくなれば、泣かせてもらえばいいです。
 僧、俗、教学のあるなし、聴聞歴の長短、五劫思惟の本願の前じゃ、まったく関係ない。ホンモノ? ニセモノ? 「南無阿弥陀仏」に、自力も、他力も、ホンモノも、ニセモノもないじゃないですか。100%、正真正銘の真実です。それがいま、まさに私の上に、イキイキと届いてきている広大な、躍動している本願がある。生きた働きなんです。生きものなんです。そこを小さく頭にはいるように、都合のよい教えに合わせて納得しようとする姿こそが、自力の心なんですから、絶対に役に立たない。そんなものにかまわずに、己をむなしうして、ただ聞かせてもらうだけなんです。

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『ジャージの二人』~映画の最中に。

 京都シネマで、映画2本。正確にいうと『白い馬』『赤い風船』という、ファンタステックなフランス映画、中編の名作2本と、『ジャージの二人』という日本映画を続けてみたのだがら、3本になる。

  この劇場は、3スクーリンだけれども、けっして大きくないアート系の劇場で、完全入れ替え制。新しくて清潔な感じがする。やや前の真ん中あたりに座る。満席ではないけれど、左右ともに人が座っていて、8割ぐらいの入り。 『ジャージの二人』、映画自体は、脱力系のまあまあながら、いい雰囲気で映画が終わり、エンディングロールが流れ出したところ。前列の座席で、「ガチャン」となにかが落ちる音と、「この人、チカン」との女性の声。「エッ」と、声の方をみると、男性が脱兎のごとく逃げていく。あわわて出口を間違えそうになるが、その間、ほんの十秒足らずのこと。みんな、一瞬のことで、何が起こり、どうすればいいのかが理解できないまま、ただ眺めていた。すると、しばらして、声を出された女性も、立ち上がって追いかけられたが、誰も声を出さない。 

 結局、何事もなかったように映画は終了したが、周りの人達も、「何があったのか? ひったくり?」「いや、痴漢らしいよ」と会話されている。せっかく勇気をだして声をだされたのに、何十名もいる客が、誰も何も答えず、行動にも移せなかったのだから、被害の女性にすれば、見て見ぬふりをされたということにな.る。「出口付近の客が、男を止めてくれなかった」と、受付で話されていた。 

 痴漢といえば、電車と思っていた。それで思い出すのは、その昔、日高法座の帰りの山陰線の急行列車でのこと。4人がけのシートにぼくがひとり。通路を隔てた座席に、若い女性がひとり。空いているのに、酔っぱらいのジイさんが彼女の横にすわり、嫌がっているのに絡みだして、「手相をみよう」と手をとったりしている。彼女は声を出せなかったが、「大丈夫ですか。彼女、嫌がってますよ」と、声をかけた。その時は、痴漢というより、酔っぱらいの迷惑な客で、しばらくぼくにも話しかけてきたが、だんだんと客が乗り合わせて混んできたこともあって、何事もなくすんだ。結局、通りがかった乗務員に通報すると、切符も持っておられず、次ぎの停車駅で降ろされていたという経験がある。

 ただ、映画館は、スクリーンに集中しているし、映画が見易いように、前後の座席の人が見えないような構造になっている。ましてや暗闇だ。逃げる男性の顔もわからず、ただ唖然と見送ってしまうしかない。その意味では、列車の中よりも、劇場の痴漢や置き引きの被害が多いのかもしれない。
  状況が見えない中で、一声聞いた瞬時の判断だけで、離れたところから、「大丈夫ですか」と声をかけたり、出て行く男に、「そこの人、待ってー!」と叫びのは、かなり至難の技だということが、よく分かった。たとえ、出口付近に座っていたとしても、その男性を止めたり、係員に通報できなかっただろう。想定外のことに、瞬時に転機を効かして対応するのは難しいけれど、やっぱり勇気のある一声は必要だ。今後の教訓にはなった。それにしても、被害の女性は当然のことたが、同席しているものにも、不愉快きわまりない事件だ。

 停電になったり、痴漢騷動があったり、今夏の京都シネマはいろいろと起こります。

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週末は東京法座

 週末は東京支部法座。華光会HPで、トップにアップされているのは、10月の講演会の方ですね。その前に8月もあります。↓
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/08/tokyo2008-8.htm

 まだ、參加者の顔ぶれがどうなっているのかがわかりませんが、直接、メールや電話での問合わせが続いているので、もしかすると、新しい方のお参りがあるかもしれません。それも、優秀な大学の学生さんや弁護士さんからの問い合わせ。ほかにも、この1年で、医者や公認会計士といった世間ではエグゼクティブと認知されるような職業の方が増えられたけれど、これもだいたい決まったルートからですね。

 法話は…。ちょっとこれからです。一つは、歎異抄の第12章に決めています。そして、法話ではないけれど、少しやりたいことは一つありますが、これは最終日の最後で。あとは、子供大会のテーマで一つ話してもいいけれども…。ほんとうは、顔ぶれをみて、少し考えたいですね。もし始めての方があれば、皆さん、だいたい同じようなところで引っかかってられますから、「仏願生起本末を聞く」というところ(いつもそれしかないですが)、に焦点を当てたご法話もでもいいですね。ほんとうは、座談もジックリやりたいけれど、このところの東京支部はご縁の新しい方が中心で、少し口が重い気がします。皆さん、飲んだら別なんですが…。陽気になったり、絡んできたり、素面の法座でも、発揮してもらいたいものです。

 まあ、明日考えましょう。ただ問題は、野球の韓国戦か!べったりじゃなくても、きっと見てしまうでしょう。今夜も、ソフトボールに大興奮。解説の元監督(宇津木さん)の感極まった嗚咽やコメントに、かなりジッーとなりましたね。

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『おいしいコーヒーの真実』

 「食の安全性、エコ、グローバリゼーション。『いのちの食べかた』『ダーウィンの悪魔』に続く、日常からあなたの知らない世界を知るドキュメンタリー」と、『おいしいコーヒーの真実』の映画チラシにあった。石油につぐ、世界で第2位の超巨大な貿易商品であるコーヒー豆を通じて、フェアトレードの重要性を取り上げたドキュメンター映画。これは! かなり期待して、みちママさんと待ち合わせて、みなみ会館へ。

Coffee  ぼくに期待しすぎ感が強すぎたか、正直、啓発的なメッセージが中心で、少し面白みに欠けていた。コーヒー市場を牛耳る多国籍巨大企業へのつっこみがなく、「取材を拒否された」のテロップで終わっている。たとえそうでも、その拒否されたプロセスから見えてくるものもあっただろう。それと、肝心なところは、テロップ(字幕)で説明中心だが、もう少し何か映像が欲しいところ。そして、その啓発された問題の、その先が知りたいと思うころで映画は終わる。要は、先進国のひとりひとりの消費行動によって、発展途上国との不公平な経済格差、そして深刻な貧困にストップがかかるという趣旨だが、具体的に、消費者が、巨大企業へどのような圧力をかけることで、フェアトレードの商品に変わるのかなどの実例も欲しかった。

   とはいっても、私達が享受している快適な日常生活と切り離せない、重要な問題を取り上げていることには変わりがない。いま、日本も格差社会といわれているが、世界規模で見るなら、先進国と発展途上国(特に資源をもたないアフリカ諸国)との間の、経済格差ほど激しいものはない。別に、バイクやラジオなどの贅沢品を求めているのではない。せめて、子供たちに最低限の生活のための食事と、安全な水を確保するだけの、飢餓から救われるだけの正当な収入を求めたり、何時間にも及ぶ過酷な労働に対する対価の支払を求めているにすきない。映画では、その貧困に苦しむエチオピアの農民を救うために戦う現地の農協連合会の代表の奮闘を通じて、メジャーが牛耳り、不公平なコーヒー取引の実体を浮き彫りにしているのである。

  トールサイズのコーヒー1杯330円の内訳は、
「カフェ、小売、輸入業者」取り分 297円(90%)
「輸出業者・地元の貿易会社」取り分 23円(7%)
「コーヒー農家」取り分   3~9円(1~3%) ! 
 しかも、コーヒー豆の暴落のしわ寄せは、末端の農家だけが受ける仕組みになており、しかたなく、不法植物の栽培に手を染める農民も増えているのだという。

 これはコーヒー豆だけではない。「自由貿易」というと、とても聞こえはいいが、実際は、先進国や巨大多国籍企業に利をもたらす構造にもなっている。画面には、新多角的貿易交渉、つまり、世界貿易機関(WTO)加盟国による、農産品、工業品の貿易自由化、サービス、途上国問題なども扱う通商交渉が、2003年9月のメキシコでの閣僚会議が決裂した様子が描かれている。真の貿易の自由化、自国の農業保護といった難しい問題もあるが、ここには環境問題にも通じる構造があり、特定の先進国が、自国の利権やエゴを剥きだしに、途上国に決裂の責任を押しつける非難合戦の場になっていた。

Img_3444  確かに、このところ「フェアトレード」(公正貿易)という言葉も認知されつつあり、フェアトレード商品を見かけることも増えてきたが、まだまだ一般の認知度は充分とは言い難い。まずは、その実体を知ることからだ。年間、800億ドル!以上と言われ、莫大な利益をもたらす強大なコーヒー豆の取引。その一方で、生産農民の深刻な生活難や飢餓が助長されている事実を、コーヒーを飲む度に思い出し、自分の頭で考えることから始めないとなー。
 せっかくなので、映画で取り上げられていたスタバでお茶しました。

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『王妃の紋章』

 開幕前から、スボーツの領域を超えて、政治、外交、経済、人権問題や環境問題と、さまざまな話題や批判の絶えない北京オリンピック。その一つの象徴が、「これでもか、これでもか」の人、金、物を総動員したあの派手な開会式セレモニーだ。他国のやっかみや嫉妬もあってか、さまざまな疑惑が取り上げられて、いまだに姦しい。

 ぼくは、ああ、やっぱりチャン・イーモウだなーと思った。好き嫌いは別にして、最近の彼の映画を見ていると、今回の演出も驚くことはない。人情的な映画もうまい監督で、誰が名付けたか、幸せ三部作といわれる作品が好きだ。時に、チャン・ツィィーの初々しさもあって、ある種のユートピアのような『初恋の来た道』の暖かさがいい。ある一家の家族史を通して中国の激動の現代史を描いた『生きる』も忘れがたい名作。もちろん、初期の、コン・リーの出世作『紅いコーリャン』や『紅夢』も好きで、「紅」というタイトルが象徴するように、鮮やかで色彩が豊かな映像が特色でもある。

Golden_flower  そして、今春、『HERO』『LOVERS』に続く、『王妃の紋章』が公開された。CGも驅使しているのだろうが、これでもか、これでもかというほどの人海戦術と、300万本といわれる菊の華、そして黄金に光り輝く宮殿と、超豪華な衣装…。正直、ここまでやるかと感心する以外はないけれど、なにか腑に落ちなさもある超豪華絢爛のスペクタクル巨編だ。要は、マクベスのように、王族内の葛藤を描いている中国の古典が下敷きにある。夫と妻、父と息子という王族一家の愛憎劇や孤独を、いまや国際的大スターのコン・リーやチョー・ユンファの豪華な顔ぶれが、揃い踏みして描いている。

 その意味では、興行的にはすごいけれど、最近のハリウッド路線はどうなのかなと思いながらも、やっぱり彼の作品は見ずにはおれないし、劇場の大スクリーンでその映像美も堪能するには一見の価値はある。でも、50億もの巨額を投じ、大スターが揃い、超豪華な衣装や美術、すこいアクションに、愛憎劇にと見どころ盛り沢山なのに、見終わっても、その豪華絢爛な印象以外は、なにも残らず、心に響いてくるものはない。あ、これって、開会式のセレモーと同じかもしれんなーと思った。

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次々と…

 お盆が終わって、今日から連れ合いと子供たちが広島へ帰省した。朝、京都駅に送りにいく。どうも世間とは反対のようで、駐車場は迎えの車で一杯だった。

 その間少し待っていただいて、10月の東京講演会のポスターとチラシの印刷の依頼。幸いなことに同人の方が手配してくださるので、大いに助けられる。23日からの東京法座に間に合うようにご無理をお願いした。

 まあ、そこまでは予定どおり。でも、そこから急な来客、電話での信仰相談、カウンセリングの依頼に、メールでの相談などが次々と入ってくる。どうやら日曜日でお盆休みがあけたことが関係しているのかもしれない。

 一般のカウンセリング(相談)の予約がはいったかと思うと、「いますぐ行ってお話したいことがある」という急な来館の方もあって、おつきあいする。この娑婆は生きていくだけでも、ほんとにうたいへんですわー。そうかと思うと、「『仏敵』を読んで、混乱している。(1)獲信すれば、ユチリほども疑いがないのに、なぜ伊藤先生は、信後に不審が起こってくるのですか。(2)華光会では、弥陀の本願をどうといっておられますか」という問い合わせである。すぐにでも来館して話を聞きたいという勢いだったが、とりあえずは電話で丁寧にお答えした。また、同じように、ある会で聴聞していたが、どうもネットを見ていてさまざまに疑問に思う事があるで、直接、お答えいただきたいという匿名での問合わせ。最近、この手の問い合わせが多い。有り難いといえば有り難いが、まだまだ、こ;れらの方々は、いまだ自分のところはお留守になっている。もちろん、その方なりに必死にご聴聞されているので、本人は気付いておられない。しかし、焦点が、まだ外側の組織や会、もしくはそこで説かれる教義という外郭に焦点が当たっていて、自分の「後生の一大事」が遠く遥かであることに気が付かれないないのだ。私のほんとうの正体、物柄はどうか。いくら頭で納得してわかっても、その弥陀の本願が、いま、ここの私にハッキリと届いているところを聞かせてもらわないと、ご聴聞はならないのだ。その意味では、まったく「自分」のところが抜けて、頭でっかちのご聴聞で、「どうしたら、どうたから」の方法だけを追いかけていく。それより、まずは勇気をだして食べみないとね。食べてもいないのに、信後の心配ばかりしてんても始まらないもの。もちろん、それもプロセスとして仕方がないことだろうし、まずは段階をふんでいかねばならないのも百も承知だ。それで、まずは、疑問にお答えしていくしかないのだろう。
 その意味では、ほんとうに華光で純粋培養でお育てを受けてきたものは、ほんとうに幸せだなー。でもね、あまりに恵まれすぎていて、「座談が嫌いだ」の「厳しすぎる」のだの、ちょっと贅沢すぎませんかね? もう少し大切にせんと、御罰を蒙りますぞー。

 そうそう、同朋観光さんからは、9月の山陰の妙好人めぐりの参加状況の問い合わせもあった。〆切が、8月20日と迫っているに、定員どころか、最低実施人数にもまだ達していない。正直、計画段階から苦戦は承知していた。バスの時間が少々長くなるのと、経費もかさむ。2月インド仏跡もある。でも、なかなか個人では訪れにくい寺院が多いし、車中も、仏教詩歌集の唱和や詳細な説明など、華光ならでは楽しみもある。迷っておられる方は、奮って参加してほしい。↓

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/09/monpouryokou2008-9.htm

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「いま、ここでしかない」と言われても…

 8月の輪読法座。日曜日ということもあって、20名の参加。悟朗先生も出席。顔ぶれも、ずいぶん、新しいご縁の方が多い。同人会会員は、半数強ぐらいか。東京や神奈川、愛知と、遠方からの參加者もあったし、例によって、例のルートの初參加者もあった。『誓願不思議』の輪読。ご縁の浅い方や未信の方が多いので、どうしても発言が重くなる。悟朗先生もおられて、緊張されている様子だ。第一、この文章は、「誓願」と「不思議」について、聖教の言葉が重ねて説明されているので、日頃から、聖教に親しみ、味わっていないと、なかなかお味わいが出しにく。「ごもっとも」で終わるか、疑問点などを質問するか、または本文から離れていくような質問が中心となってしまう。発言者が偏って、冒頭と終わりの一廻り以外は、発言がないいままの方もあったのは、残念。それでも、初めての方や遠方の方には、一言は口をきってもらった。

 その中で、「いま、ここで聞く」とか、「いま、ここかしない」と言われても、なかなかまったくそうは聞けない。当然、救われていくとは思えないが、どうすればいいのかという趣旨の発言があった。悟朗先生が、言葉を重ねてお話されたが、当然、頭の上をスーと通り越してした聞こえない様子である。もちろん、言葉の意味がわからないというのではない。頭では理解できるが、人ごとにしか受けとれないのだろう。

 というのは、この質問自体が、まったく意味をなさないからである。せっかくお話をいただいているのに、その話をわかったつもりで、自分の方の聞き方、受け方ばかりを詮索しているのだがら、当然、こころは、いま、ここにはないのだ。それで、いくら「いま、ここで聞かねば」と力んでみたところで、結局は、空回りするだけである。

 卑近なたとえだが、勉強や仕事に手がつかない時は、いくら「集中しよう」「集中が大事だ」「集中するにはどうすればいいのか」ばかり考えていたら、ますます集中できないの同じである。そんなときは、集中できないなりにでも、まず目先の1行を読もう、それが終われば、次の1行、1行、そして1頁と進んでいくと、いつのまに、「集中する」とか「しないとか」が問題でなくなっていく構造と、よく似ている。当たり前だが、意識するればするほど、集中に遠くなる。ましてや、ほんとにう集中し夢中になっている時は、「いま集中しているぞ」なんてことを絶対に思わないはずだし、「どうしたら集中できるのか」なんて方法で、集中なんかしないはずだ。

 だから、「いま、聞けているぞー」なんて意識をしても無駄なのだから、せっかく、いま、ここでお話くださっているお話を、ただ受け止めて聞くだけなのである。どうにか感じねば、しっかり有り難く受け取らねば、なんて無駄なところに力をいれる必要はない。まずはわからないものは、わかないと聞くしかないが、せめて、こちらの感情や思いの変化ばかりを問題にしないで、相手のお話くださるそのお話を受け止めていくのである。できれば、話の外郭ではなく、その私に関わって来る中身のところでを聞くのである。そうしてお聞かせに預かる以外に、その背後に隠れている、生きた大悲のお心も触れていく道は開けないのである。

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17日輪読法座

 明日、17日(日)は、華光誌輪読法座。ゲストで、増井悟朗師も参加されます。いつも木曜日が多いので、初めてです。「誓願不思議」の輪読なので、ちょうどいいです。半日だけの法座ですが、日曜日なので、奮ってお参りください。京都は暑いですが、いまの華光会館はエアコンがありますからね。子供大会で故障しましたが、すぐに修理したので、Okですね。

 日 時:8月17日(日)昼1時30分~5時 
 会 場:華光会館研修場
 内 容:「華光誌67巻3号」(ご持参ください)の誌上法話の輪読
 参加費:無料(おさい銭を集めます)
 詳しくは下記まで。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/08/rindoku2008-8.htm

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世話人会

 終戦の日の今日も、暑い1日だった。

 真宗カウンセリング研究会の世話人会を華光会館で行なう。1年1度、自由な世話人の話し合いの場だ。なぜか、半数が僧侶なのに、こんなお盆の多忙な時に行なっている。案外、8月15日ごろになると、出席できるお坊さんもおられるのだ。会報の発送作業をおこないながら、フリーに話し合う。何もカウンセリングの話題だけでなく、格差社会や社会情勢の話題から、平安高の先生の教え子が、銀メダリストになったこともあって、オリンピックの話題も出た。その後は、ご馳走を食べながらワイワイとやる。僧侶、カウンセラー、教師などの教育関係者、社会福祉士など、それぞれバックボーンが異なるのだが、それでいてどこかで共有する認識があるので、安心していろいろな話題が出せる集まりとなっている。このごろは、あまり真宗のところをやかましく強調しすぎないのがいいのかもしれない。それでも、ロジャーズの人間観より、さらに「共に凡夫のみ」という真宗独自の人間観が、それぞれのところに浸透している気がする。もちろんそれは、如来の大悲観に支えられているが、暖かさの根源となっている。それに、M先生を中心に、真宗カウンセリングとしての体験学習も、ある種のかっちりした型が出来上がり、派手さはないが、地道に人も育てきているようで、そんなことも確認しあう場となった。

 少し飲んで帰って来てテレビをつけた。オリンピックの中継につかまってしまった。わざわざ録画てまでは見る気はないし、見なったら見ないですむのだけれど、なぜか一度見てしまうとダラダラと見てしまう。ぼくの場合は、野球が始まるとダメだね。 

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盂蘭盆会

 今日は、華光会館の盂蘭盆会(うらぼんえ)。といっても行事案内にはない。いつも家中で勤行し、そこに檀家さんが1家族だけお参りされる。京都支部で告知されたようだが、どなたもお参りがなかった。 

 お盆-正確には、盂蘭盆会は、サンスクリットの「ウランバナ」の音写語だが、これには、倒懸(さかさにかかる)の意味があるという。安居(あんご)の最後の日、7月15日 (旧暦)を盂蘭盆とよんで、父母や祖霊を供養し、倒懸(とうけん)の苦を救うという行事だ。これは『盂蘭盆経』などに説かれる、目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への供養の逸話によっていることは、皆さんご承知のとおり。一般には、「盆会」とか「お盆」と言われ、今日でも広く行なわれているが、ただし、インドではなく、中国で起こったものが、日本の先祖崇拝と結びついて、盛んになったのではなかいと考えられている。安居の終った日に人々が衆僧に飲食などの供養をした行事が転じて、祖先の霊を供養し、さらに餓鬼に施す行法(施餓鬼)となり、儒教などの影響も受けながら、目連尊者の亡母の救いのための衆僧供養が、クーロズアップされてきたのだ。

 つまり、安居の最中、神通第一の目連尊者が、愛情をかけて育ててくれた亡き母親の姿を探すと、なんと餓鬼道に堕ちているのを見つかった。いまでいう教育ママ。しかもわが子だけを溺愛し、贔屓する吝嗇家だった。それが、餓鬼界でノドを枯らし、飢えて苦しんでいる。さっそく水や食べ物を差し出したが、ことごとく口に入る直前に炎となって、母親の苦しみは増すばかり。たまらず釈尊に相談すると、「安居の最後日、すべての比丘に食物を施せば、母親にもその施しの一端が入るだろう」と。それで、比丘のすべてに布施したところ、比丘たちは喜び、飲食をした。その喜びが餓鬼道に堕ちている者たちにも伝わり、母親も救われて天上界に生まれたというのである。その時の喜びの踊りが、盆踊りの始まりだという話まで、スライドでみたことがある。

 だから、ともすれば先祖供養の代表みたいな法会であるが、やはり生きている人達のご縁になってもらいたい。その意味では、今年は仏の子供大会に参加してくたれ双子が、2家族6名でお参りされた。うちも子供がいるので、表白はそのまま、勤行は「子供の聖典」のお勤めに切り替え、ご法話を50分ほど、悟朗先生のご法話をいただいた。やはり「子供の聖典」の『二河白道の話』の輪読を中心に、六道や南無阿弥陀仏の「南無」のこころなど、いつもとかわらぬご法話になっていた。最初は、子供向きという配慮があったようだが、さすがに小3年、4年には、難しかったようだ。その昔、双子さんのお母さんも、その伯母さんも、姉妹で、子供大会に参加してくれていた。今日も、そのお二人もお参りされ、一緒にご聴聞してくださった。とても子供大会を喜んでくださって、日曜礼拝にも参加してもらえそうだ。子供さんの縁として、ご法縁が拡がることを願っている。

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『クライマーズ・ハイ』

  8月12日。新聞は、北京オリンピック一色である。国際面のロシアとグルジアの軍事衝突も、なんとなく端に追いやられている。

 三面にほんとうに小さく、御巣鷹山23回忌の慰霊の記事が出ていた。たぶん、この映画を観ていなかったら、この記事を見逃していただろう。
 当時のことは覚えている。夕食時、テレビ速報が流れ、報道が二転三転して、思わずテレビの前に釘付けになった1985年8月12日。日本航空墜落事故は、単独では、航空機事故史上最悪の大惨事で、ハイテク、安全神話の崩壊を予感させる衝撃の事件だった。20数年で風化するのは早すぎる大惨事だが、その後、大事件や大災害が後を絶たず、色褪せるスピードが早いことは、ちょっとおそろしい。

D8b39e16a06235ee040f906f96b2baa0  『クライマーズ・ハイ』とは、登山時に、興奮状態が極限まで達して、恐怖感が麻痺してしまう状態を言うが、本作は、社会派ドラマ、人間ドラマの暑苦しい(?)秀作だ。80年代って、こんなに熱かったのかなー。原作は、作家・横山秀夫氏が、上毛新聞記者時代の日航機墜落事故取材の実体験を小説化したものだ

 群馬県の地方紙に、何十年に一度の大事故の一報が飛び込む。大久保清事件、72年のあさま山荘以来の大事件に、新聞社内は一挙にヒートアップする。しかし、520名の犠牲者を出した、現場はその想像をはるかに超えた惨状だ。それを、いかに制約された時間内に、記事にし、印刷し、配信していくのか。毎夜、毎夜が、文字通り心身をかけての試練が続く。時には、社内で、ヤクザまがいの怒号を飛び交い、感情むき出しに個人や部署間の対立が起こる。先輩後輩の確執、男のいやらしい嫉妬が渦巻く。さらには、資金も人力でも劣る一地方紙が、全国紙を出し抜けるかという男のプライド、意地もある。主人公役の遊軍記者、堤真一が熱く立ち向かった1週間の、まさに熱病ようなクライマーズハイ状態を映画化している。

 でも、たった20数年。ずいぶん、時代は変わった。通信手段の最先端が、自動車電話や無線機の時代だった。命懸けで、現場にはいった堺雅人(いい味だしてます)が、なんとか時間内に入稿しようと、必死に民家の固定電話を探し回るシーンに、時代を感じた。ケイタイも、ネットも、パソコンも普及してなかったんだ。その意味では、テレビにその速報性や臨場感を抜かれ、いまやそのテレビも、ネット報道にその地位を奪われている。いまだに、限られた時間内の報道という使命を帯ながら、日刊紙は何を伝えて行くのだろうか。そんなことを考えながら観るのも一興かも…。まあ、社会や会社などの組織の中で働く男性向き。2時間半が、テンポよく、かなり血が騷ぐんじゃないかとなーとお勧めです。

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女房は女子大生(3)

  連れ合いが大学院生活を順調に送っている。あの好奇心旺盛、物おじしない性格である。特別に心理臨床のゼミや仏典翻訳など本業以外の研究の仲間にも加えてもらうなど張り切っている。久しぶりにあった人からは、「なんか、ゆうこさん、若返ったんじゃないの? 若いエキスを吸ってるんでしょう」などと言われて、「そうじゃろう、そうじゃろう」と、悦に入っている。確かに、男女問わず学生にも、またおじ様の教授陣にも、なかなか評判がよいようで、充実したキャンパスライフを送っているようだ。そこに加えて、英会話や絵画もあるし、自力整体に通っている。オフの時間もほしい。というわけで、もう毎日、席の暖まる間もなく、飛び回っているのである。

 まあ、それはそれで結構なことだが、教授や学生とはランチの時間があっても、夫婦で、ゆっくりと話し合う時間がなくなってきたのは、ちょっと寂しい。せめて食事だけでも一緒にと思うが、夕食は家族6名で過ごすので、話題は限られる。ちょっと、このままでは、なんかすれ違う気がしてきたので、週1回ぐらいは昼食を一緒に食べる提案をした。月曜日は彼女も休み。ぼくも仕事をオフにして、映画を2~3本は観に行くので、その合間で、外でランチをする約束となった。

 でも、まあ、ここが夫婦の難しさ。どうしてもね。他人の約束や予定が優先されて、「まあ、また今度」「いまは忙しいので」と、なかなか時間が合わずに、せっかくの提案も流れ流れて、一度も実現しないまま、とうとう夏休みになってしまった。もちろん、彼女も学校は休みなのだが、子供も休みなので、ますます難しい。

Img_3423  それが、ちょっとうまい具合に、二人の時間が取れた。その気になって、意識して、時間を取ろうと思えば取れたわけ。ほくは、『俺たちダンクシューター』という超おバカ映画を観た後で、ちょっとリラックスして、三条冨小路のカフェ・コチ(CAFE KOCSI)で待ち合わせ。ゆるやかな時間が流れている。

 夫婦関係にしても、親子関係にしてもそうだが、近しい人間関係ほど、他人でないのだから、簡単に分かり合っていると錯覚するけれど、実は、これほどデリケートで、難しい関係はない。近くて、気軽な分、関係を甘くみるのか、お互い甘えは出て、「それを言っちゃお終いだよ」という言葉も出る。他人なら、簡単にケンカ別れする内容も、夫婦や親子は、ますます泥沼に入って恨みあったり、お互い、もう諦めて鉄板になったり、世間体だけを整える仮面夫婦や家族ごっこの体面家庭も、結構多いじゃないかなー。安らぎでもあるけれど、同時に悩みのタネだものね。

 今回は、ぼくから、率直に、今、感じている不満を話してみた。別に、彼女を責める問題ではない。彼女も、その内容を充分に理解していたが、なかなか頭と行動が一致しずらい話題だ。それは、ぼくも承知している。でも、無理に我慢して、そのために不満でイライラしたり、何かに八つ当たりするより、ちょっと勇気をだして、心配な点を伝えることにした。今日のところは、悩みを聞いてもらえただけでも、まずはよかった。やっぱり、親しい関係であればあるほど、話し合ったり、聞き合ったり、コミニケーションって大切だな。基本中の基本だけれども、これが難しいー。

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アメリカの同行

 今日は、アメリカのカリフォルニアからお同行の来館があった。アメリカ布教でお世話の中心者だったK家一族で、ご家族4名で来館。まだ、お若い方で、日本から嫁がれたご縁もあって、日本語が理解できるので助かる。ご挨拶程度ではなく、ご夫婦とも、かなり真剣に求めておられご様子で、父がご示談することになった。

 もし日本に行くのなら、ぜひ、増井先生にお聞かせに預かったらとお勧めくださる方があって、今回の法縁となった。昨日も、奥様だけM家の家庭法座にお参りされていた。がごこれまでも、アメリカの海野大徹先生の念仏セミナーに参加されておられるようだが、ここまで真剣な厳しいご縁は、なかっただろう。

 ちょうど、お子さんたちが、うちと同じぐらい年齢なので、ぼくは子守役だ。途中、子供を保育園に迎えに行って帰って来たら、父が、かなり厳しくお念仏をお勧めていた。この時ばかりは、まだまだ元気で、すごい迫力である。側で聞いていて、かなり強引かなーとも思ったが、遠く離れて、またの機会があるかどうかはわからない。連れ合いも、ご主人に英語に訳して、お念仏を勧めている。その間、子供たちも、だんだんと打ち解けて、賢く遊んでくれていた。いつしか、お二人が、お名号の前で、泣きながらお念仏を称えておられる。その姿がなんとも尊かった。

 獲信云々ではないかれしれないが、ほんとうの意味で、聞法の緒に付かれたのではないか。聞いても、聞かなくてもいい教えではない。ほんとうに心身をかけて聞くことを身をもって教えていただく。そのことひとつとっても、ほんとうはものすごく有り難いことだ。もちろん、そこに留まるのではなく、そこを超えて聞く教えであるが、そのスタートに立たせていただくまでの、種々の如来様のご方便、ご苦労ひとつをお聞かせいただくだけで、もう頭が上がりませんがね。南無阿弥陀仏。

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お盆参り

 それにしても暑い日が続く。猛暑の中、汗だくになりがら、昨日、今日と、お盆参り。父は、M家の法要を兼ねた京都家庭法座へ。これは、法要がある以外は、日頃の法座と同じで、かなり新しい顔ぶれ。ぼくは、今年から法座以外のお盆参りを担当することになった。といっても、参るのは8軒で、あとは華光会館でお勤めをする。ただし、ご近所の華光同人のお宅が1軒あるだけで、後は遠方。元同人の師弟のお宅か、完成直後の華光会館のご近所に住んでおられた方で、いわば華光会の檀家さんである。なぜか、宇治や伏見方面に多くて、桃山御陵と乃木神社の深い緑の道を抜け、宇治川の流れに沿いながら、平等院を横目に進む。いつもなら40分ほどの距離だが、今夜の宇治川の花火大会のため混雑していた。まだ交通規制はなかったが、夜店の準備で車が動かないのだ。花火客を当て込んだ臨時の駐車場も準備中。なんと1台、2,000円也と、かなり高い設定だった。

 お盆といっても、年忌法要なみに丁寧にお勤めする。家族の方が一緒にお勤めするので、『阿弥陀経』だけでも30分はかかる。お盆なので、最後に「其仏本願力、聞名欲往生、皆悉到彼国、自到不退転」を回向句にし、10~15分くらいおご法話する。1年に1度だけ顔をあわせなので、近況をお尋ねしたりるすと、1軒あたり60分はかかる。遠方の方も多いので、1日で4~5軒程度しか回れない。

 毎年、仏の子供大会直後なので、子供大会のテーマのご法話する。今年は、「生きる喜び」。源信僧都さまの、有名な横川法語の頭をいただいた。
 「まづ三悪道を離れて人間に生まること、おおきなるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや。家はまづしくても餓鬼にまさるべし。心におもふことかなはずとも地獄の苦にくらぶべからず。世の住み憂きは、厭うたよりなり。このゆえに、人間に生まれたることをよろこぶべし。信心あさけれども本願ふかきがゆえに、たのめばかならず往生す。…」

 ご法話の反応はさまざまだが、丁寧にお勤めすることもあって、家族で丁重にお迎えくださり、聞いてくださる。一緒に勤行すること、声に出して称名念仏をすること、そして、短いご法話を聞いてくださるところまではご縁がついた。でも、なかなか華光会館の法席に足を運ぶところまでは、難しい。かなりいい線をいっている若いご夫婦もあって、楽しみにImg_3415_2 しているのだが、もう一歩がなかなかだなー。
 釈尊と阿難尊者の「つめの砂」のたとえではないけれど、「人間に生まれたこと」を喜びところまでは聞けても、それが聞き難い「仏法」を聞いて喜ぶ人は、ほんとに稀Img_3415 なのだ。

 さすがに花火大会に行く元気はなかったので、子供たちと、地味~に線香花火をして楽しんだ。

 明日は、初対面のアメリカの同人が、ご家族で来館される予定だ。

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夏の家族旅行

 「仏の子供大会」は華光会館が会場だったので、2日はかかる荷物の後片付けも、だいたいが最終日の片づけで済んで楽だった。昨年と同じ日程になったが、1日雑用をすませて、2泊3日の家族旅行へ。

 前夜遅く、同人から、葬儀の依頼があった。事前にご相談のないお話だったが、もし日程さえあえば、お引き受けしたいところだ。でも、臨終勤行(通称、枕経)に行くにも、遠方で、帰路の新幹線がない時間。翌日からは旅行もある。力になれず申し訳なかったが、お断りすることにした。たぶん、一般の寺檀関係ならこうもいかなだろが、華光会の檀家さんではないので、少し相談にのり、華光同人の僧侶を紹介した。でも、こんな時、「NO」とお断りし、しかも自分は休みや楽しみに出かけることに、すご~い後ろめたさというか、罪悪感を持ってしまう。妙な責任感があって、人が困ったり、不幸な時に、自分が楽しんだり、休んだりすることに、抵抗があるのだ。でも、ここは冷静に頭を切り換えて、予定どおり家族旅行を優先することにした。

Img_3271_2  日程も同じなら、行き先や宿も昨年とまったく同じ。京都府内、丹後半島、夕日ガ浦温泉へ。でも、同じ京都府内といっても、高速道路を使うと、京都市内から、大阪、兵庫を通り、また京都府内の天の橋立から回ることになるので、かなり遠い。だいたい3時間半はかかる。
 さて、準備万端、出発という時になって、今度は、ナナが「歯が痛い」と泣きだした。虫歯の治療がすんでいるが、乳歯だがあえて抜かないで、クスリで抑えている。痛がると、その度に連れて行かねばならない。旅先でグズらなかっただけ、まあよかったかなーと、歯医者に連れて行き、かなり遅れて出発した。なんか波瀾含みの予感がする。

Img_3298  幸いなことに、夕立も雷雨もなく、なかなかの海水浴日和。かなりの遠浅で、砂の目の細かい浜詰海岸で泳ぎ、鳴き砂で有名な琴引浜、聖徳太子の御生母ゆImg_3322かりの間人(たいざ)の海水浴場へ。これも昨年と同じ行程だ。少しシュノーケリングをしたが、ただ、今年は風が強く、波があったので、昨年のようにはあまり魚は見えなかった。子供たちは、波に乗って大はしゃぎ。ぼくは、ちょっと油断して、日焼けした肩がいまも痛い。でも、実は肩よりも頭が痛い。帽子を忘れたこともあって、生え際にそってM字形に見事に赤くなって、ちょっと格好悪い。

Img_3398  3日目は、城崎マリンワールドへ。子供も、ぼくも、近くに水族館があると寄らずにおれない質。水槽の規模はたいしたことはないけれど、ちょっとした体験型というか、ショーが中心で、イルカやアシカのショーは、これはかなり楽しめImg_3400た。後は、トドのダイブングも迫力満点。海棲哺乳類、鰭脚類というのですか、かなり調教しているようで、なんかここまで芸をさせるとく哀れでもありますがね。そして、アジ釣りのコーナーが人気で、しかもその場で天ぷらにしてくれる。園内のファーストフードも、ハンバーガーやフランクフルトもなく、イカ焼き、チクワ、アジの天ぷら、サザエの壺焼きと、海鮮のみ。でも、タコ焼きはなかった。「魚を見たら、魚食べたくなるなー」という趣旨なんImg_3373でしょうが、このあたりも、なんとなく昔感覚の妙なズレが漂う水族館でした。まあ、楽しめましたが…。

 子供と旅行する旅に、Img_3364 その成長に目を見張ります。姉が妹の世話し、二人が仲良く遊ぶ姿が微笑ましくもある。
 4日間は、華光の子供たちと、そしてこの3日間は、わが子と、楽しく遊びました。

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4日間、無事終わりました

  仏の子供大会、4日間、おかげまさで無事に終わりました。

 お世話の先生方、スタッフの皆さん、お疲れまでした。そして基金や飲み物、ジュースなどのご支援くださった同人の皆さんも、ありがとうございました。

 華光会館が会場だったので、「初日」、「2日目」…と、毎日報告する予定で、頭の中には構想ができていたけどれ、やっぱり、パソコンに向かう時間がなかったですね。子供大会は、子供以上に先生方にたいへんな行事。朝6時30分から夜0時30分まで、バッチリ予定が入ってますからね。朝のラジオ体操から、夜の見回りに、トイレに起こすところまで、入浴時間にして、短時間で引率して銭湯に連れて行くので、子供たちも遊ぶ暇ないが、先生もなかなかたいへん。泳いだり、歌ったり、踊ったり、クモになってリレーをしたり(46歳でも、中学生に勝ちました!)、はたまた猛暑の中を歩いたり、腹を抱えて大笑いし(日常生活で、こんなに笑うことは少ないなー)、時にはカッカッと腹立て、有り難く泣いて念仏し、もう体力も、気持ちもハードなスケジュールで、とにかく充実しています。ぼくにも、全体の掌握だけでなく、車の送迎や会計、プールの引率やゲームなどの仕事に、もちろんご法話や分級座談もありました。

 だから、いろいろな方の網の目のように十重二十重につながたとても温かな力添え、ご縁によって、この大会が出来上がっていることがよく分かります。伝統の重みも、しっかり感じますね。50年の時を経ても、毎年、同じプログラムで続いているのに、色褪せないのは不思議なことです。マンネリ化するより、むしろ蓄積されていく感じしますね。別に、仏法のことだけでなく、遊びや班活動も、とにかく楽しい。「○○先生が子供の時には…」、「あの時のファイヤーでの××君のスタンツは…」と、昔からの疑似的な家族のように、ノスタルジックな感傷も含めて、この4日間が進行していきます。

 もちろん、そこには、「仏法広まれ」「いま、ここで、このお念仏を聞いてほしい」の熱い、篤い願いがその根底にあるんです。だから、どの先生の法話も尊かったし、悟朗先生の全体座談のお話も、大人のご法話そのもの。きっと言葉の意味は難しく、通じないかもしれないけれど、その願いやお心は、必ず子供たらの毛穴を通して伝っていくとことが、子供たちの成長ぶり、そして、その子供たちがお手伝いをし、そして先生になり、または親となって、喜んで我が子を参加させる姿を通して、確信させられます。もう、2代目どころか、3代目、4代目の時代になってきました。

 そして、プールに泳ぎに行ったら、昔の同人で、旧姓のKさん(仏青の前進である真宗高校連盟のメンバー)が、激励に訪れてくれました。「華光誌の子供大会の案内をみて、近くなのでこれはぜひ顔をだしたかった。昔、華光会館の子供大会では、消防署のプールに行ったなー」と言われて、感慨深げ。先生として子供大会で活躍され、ぼくも追ハイの先発でのエピソードがあります。まったく有り難いことに、いま中心メンバーで活躍中のカープさんや楽邦さんのお父さんたちと、いわば同じ求道仲間で、M先生の奥様やチャンさんの堺の法座にもよくお世話になっていたので、皆さんを見てとても感慨深げでした。

 そして、やはり、昨年の東京講演会(講演会だったので敷居が低かったそうです)で、何十年ぶりに復活されたMさん(華光会館に居住されていたSちゃんですね)も、お手伝いのスタッフとして参加されました。この方も、Kさんの法友であり、親友なんです。普段は目に見えなかったけれど、こんな方々の伝統に上に、いまの子供大会が続いていたことが、ハッキリ見えてきましたね。連続無窮のお働きが、子供大会に関わることで、わが身を通して体感させてもらえます。

 法話のこと、先生方の活躍ぶり、楽しかった行事に、今年のスタンツに、水泳にと、あれも、これも書きたいことはたくさんあるけれど、今夜は、ここまで。

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