東京法座から戻りました。三席。歎異抄十二章の学解往生の異議に出る、「本願を信じ、念仏もうさば、仏になる」のご文から始まって、『唯信抄文意』の心口各異、言念無実のおこころで、如来様が真実100点満点と、私は虚仮不実の0点。その0点を0点とありのまま聞くこと。そして、最後に、浄土和讃の阿弥陀経讃の「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取して捨てざれば 阿弥陀と名づけたてまつる」のご和讃のお心をいただきました。特に、共通しいてたわけじゃないけれど、最後に振りえると、我ながら、三席とも一貫したテーマが流れているようにも思いました。
というのも、今回、東京法座が始めてのご縁の方がありました。皆さん、ようこそ、おいでくださいました。お出会えできてうれしかったです。ほかにも、1年以内、いや半年ほどの新しいご縁の方が多くて、皆さん、熱心です。事前に連絡があった方以外でもお参りされてましたが、皆さん、とても真面目な方で、いい加減なお気持ちでないことはわかりましたが、ひっかかっておられるところがよく似ている。
いまは、まだ混乱されているようですね。確かに、聞き方に、明確な方法が提示され、ただ「求める」という方向だけなら、コツコツ努力していければいいわけです。でも、「捨てる」ことを聞くのは難しい。まっしてや、これまでの求道や聞法の方法や聞き方では役に立たないと、聞くことは至難の技でしょう。確かに、これまで浄土真宗でのご縁があったから、華光とも出会え、後生の一大事の解決を求めていく身になったわけですから、その意味では無条件に尊いご縁だったことに違いありません。だから後日、そのお育ての尊さに涙する時がくるかもしれません。でも、いまはそこに甘んじて「まあまあ」で留まっていては、ダメです。
その心の延長で聞くのなら、別に華光にまで来て求める必要はない。自分にとって、どれだけつらいことでも、これまでの求道や聞法の方法や求め方では、絶対に聞けない、これまでの求道は役に立たないとお聞かせに預かっていくのです。けっして、それは易いことはないでしょう。これは、組織や教学がどうこうというレベルではありません。あくまで、自分自身の聞き方、自力のこころでの求め方を問題にしていくわけです。それは、実際には、自分が否定されていくことにつながりますから、すべてを失うようで怖くもあるわけですね。いままで、苦労して集めてきたものが、贋札だと分かっても、捨てられないのと同じで、その中の二、三枚ぐらいは役に立つとうぬぼれているわけです。
というのも、下手に、答え、外側の公式ばかりを、頭でっかちで覚えるように聞いているから、最後の正解だけは知っている。だから、一見、それが、正しいように思うわけです。でも、自分の心の底をほんとうに見つめてみてください。それでは、虚しいじゃないですか。口で正解を並べられても、心には何もない。後生も真っ暗です。だからもっと努力して、もっと宿善を積んで、この足し算さえ続けていけばとなるが、実は、それがますます予定概念を募らせていくような聞き方だといことには、なかなか気付けない。
今回も、「上の心ではわかるが、下の心に届いていない。下の心で聞けるようになるのにどうすればいいのか」と、真剣な質問があった。その気持ちはわかるけれど、そのもっともらしい質問しているのが、どの心なのか。それこそが、上の心で、しゃしゃーと質問しているんじゃないのですかと言うと、「じゃ、どうすればいいんですか」と、またまた上の心で尋ねていくことになる。まさに、「自力スパイラル」、「自力堂々巡り」現象に陥ってしまいますね。それは、無常のいのちを抱えている、いま、ここの「自分」がお留守になっている姿。
だから、生きたいのちの躍動、広大無辺のお働きを、ほんとうに小さくしていることに気付けない。無明のちっぽけな頭で計らって、肝心の「南無阿弥陀仏の姿」、如来の作願のお心、私にかけられた「大悲の呼び声」に耳を塞いでいたのでは、せっかく躍動している真実のおいのちを殺していくだけです。
阿弥陀仏は、無量のいのちと、無量の光の仏さまということでしょう。生きた「いのち」は、形式やマニアルで捉えたり、数値で量ることはできないもの。刻々と変化し、イキイキと躍動しているものなんですからね。しかも、単なるいのちじやない、「無量」のいのちのお働きを、私の限りなる智恵、限りあるいのちで計らうことなど、絶対に出来るはずはない。だから、親鸞様は、称えることも、説くことも、考えることも出来ない、「不可称、不可説、不可思議」だと仰っています。そうですよ。自分の機ざまを見れば見るほど、救われていく手かかりが微塵もない、虚仮不実そのもの。仏になるタネも怒りの心で燃やし尽くし、真実のかけらも、真実に向かおうとする気持ちさえまったくない、無漸無愧そのもの。それが、絶対に遇うはずがなかった、無量のおいのちに出遇うわけです。けっして、衆生の側からではなく、真実そのものが、逃げるものを追いかけ、抱きとって離さないという摂取不捨のお働きから以外では、この迷いの私が救われていくことはないわけですね。「十方微塵世界の、念仏の衆生をみそなわし、摂取して捨てざれば」というその働きそのもが、「阿弥陀」と名付けれらているわけ。私を抱き取って捨てたまわない不思議のお働きそのものが、「阿弥陀」なんだと。その生きたお働きが、この私ひとりを救うために、三世十方を覆い尽くして、いま、まさに躍動しまくっているわけでしょう。勿体ないじゃないですか。
「どうなったのが信心か」「あれは、ホンモノか、ニセモノか」「この念仏は自力か、他力か」なんって四の五のいっている暇が遇ったら、阿弥陀様の大悲のお心、お働きの尊さ一つを聞かせてもらういましょう。
そして、喜びたくなってら、喜ばせてもらえばいいです。
念仏を称えさせてもらえばいいです。
泣きたくなれば、泣かせてもらえばいいです。
僧、俗、教学のあるなし、聴聞歴の長短、五劫思惟の本願の前じゃ、まったく関係ない。ホンモノ? ニセモノ? 「南無阿弥陀仏」に、自力も、他力も、ホンモノも、ニセモノもないじゃないですか。100%、正真正銘の真実です。それがいま、まさに私の上に、イキイキと届いてきている広大な、躍動している本願がある。生きた働きなんです。生きものなんです。そこを小さく頭にはいるように、都合のよい教えに合わせて納得しようとする姿こそが、自力の心なんですから、絶対に役に立たない。そんなものにかまわずに、己をむなしうして、ただ聞かせてもらうだけなんです。