『ぐるりのこと。』
『ぐるりのこと。』 これは、よかった。
舞台は、ほんの少し前の日本。1993年に時計の針がもどり、それからの10年間の日本の世相、重大事件と重なりあいながら、進行していく。つまりバブル崩壊から9、11までの10年ということになる。世代といい、結婚生活といい、子供の流産といい、芸大生の設定といい、かなりわが身と重複する話題ばかりだった。ただし、夫と妻の立場(性格)だけは、まったく役割が反対だけれもどなー。
それに、絶対に、遠く離れた事件であっても、またその大小があっても、世相の影響を受けることなく、生きていくことなど不可能だ。ぼくの言動にも、この10年の出来事が、間違いなく影響している。
美大卒の夫(リリー・フランキー)は、バイトのようなクツ修理をしながら、おねえちゃんをみれば声をかける呑気な日暮らしを送る。一方、同級生だった妻(木村多江)は、周囲の不安の声をよそに彼と結婚し、出版社に勤める、しっかり者。なにごとも几帳面な彼女は、約束事で彼を縛っていく。門限、予定表に乗っ取った夜の生活(週3回で「やる日」が決めさている)の、対称的な二人のやりとりが、軽妙で笑いを誘う。あやしげな雰囲気の不動産屋の兄夫婦(寺島進)たちの絡みも、楽しく、ユーモラスなタッチで映画は進んでいく。なにかがかけているけれど、誰もがどこかで幸せな雰囲気を感じさせるのだ。
その彼が、テレビ局の法廷画家の仕事を得、90年代のさまざまな理解し難い凶悪犯罪と並行して、子供の流産(これも状況説明でなく、幸せそうにおなかを撫ぜるシーンのあと、嬰児の位牌が映る。つまり押しつけがましくなく、絵でみせていく。ここがいい)から、幸せな雰囲気やコメディタッチが一転していく。職場でも、家庭でも、つながりが感じられない妻が、心の病気、気分障がい、うつ病に悩まされていくのだ。
しかし、彼女を救うのは、周りの家族や人間関係の確かさだった。頼りなげな夫が、絶望せずに、しっかりと支えている。そのアプローチは、一見弱く、何もないかのようだが、けっして彼女の感情に過度に巻き込まれることなく、それでいて、彼女と離れすぎない距離で、待っているのだ。この待つ男がすごい。彼の飄々とした雰囲気は、実際にはかなり出来すぎである感もするが、リリー・フランキーの自然体の雰囲気にぴったりハマっている。
もうひとつ、法廷画家という眼を通して、世相を観ることの視点も面白かった。司法関係者でもないし、報道関係者といっても、コメントや批評をする立場でもない。事件の当事者、加害者の姿を、似顔絵を通して伝えるという役割である。もちろん、なにがしかの個人的な感情が交わるのが人間であるが、それでもなるべくありのままに伝えようとする仕事なのであるから、ともすればマスコミの妙な正義感や、被害者側の大きなお世話の代弁者になるのでもなく、過ちや犯人を糾弾する姿勢でない視点から描かれたことが、映画の幅を広げているように思えた。それに、法廷画家や報道に関わる役者さんが、みな個性派ばかりで、なかなかよかった。
それにしても、いろいろ事件があったものだ。官官の汚職事件や交通事故裁判などに混じって、幼女連続殺害事件、阪神大震災を挟んで、オウム事件、池田小事件、そして和歌山の毒カレー事件(これは出でこない。「和歌山で仕事ある」の一言)、そして音羽幼女殺人事件(これはすぐに思い出せなかったが、文京区で同級生の子供を殺し、わが子の手を引きなながら死体入れのパックで運んで例の事件)。それらをモデルにした、まったく不可解で、理解不能な被害者の言動が、リアルに再現されている。そうだったよなー。そして、宮崎勉や宅間守は、ごく最近、死刑になり、この世にはいないのだ。
法廷画家の観察者的な立ち位置。そして、夫であるカオルの立ち位置。つまり、相手の激しい感情や態度に巻き込まれることなく、そこにいる態度こそ、これからの激動の時代や空気の中で求めれる態度なのかもしれない。ちょうど、「同情」と「共感」との違い。または、「あたかも○○のように」感じるのだけども、あくまでas ifなのあって、そのものではないという、カウンセラー的な態度に似ているなーと思った。ぼくたちは、すぐに自分の未消化な問題を投影したり、相手の感情に巻き込まれて、知らぬ間に自分を見失っていくのだ。でも、カウンセラーは他人だからね。家族になると、ここがいちばん難しいところです。
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