自己肯定感と自己内省
今夜の伝道研究会も、羽栗行道先生の『心身の革命』の輪読。罪悪観の見つめ方を具体的にご指南くださる。今日、華光でのお勧めする罪悪観の基本になっているといってもいい。
今日の社会では、建前では、「唯一無二の、かけがえのないあなたです」と言われても、実際の社会生活では、没個性、簡単に誰でも役割が交代できる機械のネジのような存在でしかない。核家族、少子化の中で、一身に両親の過剰な愛情を受けながらも、健全な自己肯定感が育ちづらいのが現状だ。極端な全能感か、または自己の存在を低く見積もり、卑下し、自信が持てず生きいくことに喘いでいる若者も多いのだ。
その意味では、聞法の緒である、罪悪観や無常観を深める以前に、心理面で、自己肯定感を否定されるように思えたり、または、自己を卑下し、自虐的な反省しかできない人もあるのだ。その点では、お勧めの側にも慎重な配慮が必要なケースもあろう。
しかし、仏様の真実の御眼からご覧になれば、迷いはあくまでも迷いなのであって、そこを離れることのない限り、苦しみから逃れらることは絶対にないのである。その意味では、迷いの存在は徹底的に破られるものなのであって、微塵も拾うものはない。
0点は0点なのである。
落ちるものは、落ちていくのである。
悲しいかな、「さるべき業縁催さばいかなるふるまいも」すべき身であることをお聞かせに預かるしかないのである。
ところが、真宗の教界自体も、「羹(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く」の故事ではないが、差別問題を過度(もちろん、誤った理解は正しく反省する必要はあるが)に反応するあまり、すべての宿業を封印しているといっていい。もちろん、三世因果も否定的だ(地獄なんて言葉は厳重封印だなー)。流行りは、縁起思想と、空の流れ一色で、さまざまなご因縁に生かされることを喜び、死んだらみな仏、成仏(←千の風に吹かれて、これすら薄まっているな)なのだから、ただただ如来の広大な慈悲にすがるよう説かれているのである。
一見、暖かい、肯定的なメッセージのように見えるが、そこにあるのは、表面の道徳的な反省はあっても、一方的にお慈悲や往生などの救いの面のみが強調されているのみで、それではお救いも絵に描いた餅にすぎないのではないか。
実は、自己の宿業観なくして、如来の大悲観もない。いわば地獄一定(いちじょう)と往生一定の関係と同じく、切ってもきり離さない一具なのである。単なる反省でも、卑下でも、心理的な否定でもない。法の鏡の前に立ち、自己を内省させていただく。私こそが「逆謗の死骸」なのだとお聞かせに預かる。否定的といえば、これほど絶対的な否定はない。でも、同時にこんな有り難い言葉もないわね。
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