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2008年7月の27件の記事

いよいよ明日から子供大会

 いよいよ明日から、仏の子供大会。きょうは、夕方から、最後の準備です。

 華光会館であるので、油断してますね。いつものなら、もっと早く荷物の準備も、ひとつひとつチェックして、荷造りします。その昔、參加者が多いときは、会場に前泊して準備をしたものです。今回は、先発も、引率も、仏壇の組み立てもない。オルガンも運ばなくていい。もちろん、その分、布団や食事、銭湯の世話がありますが、いつもの同じ生活の調子なので、臨場感にかけるますが、まあ、楽といえば楽です。その分、準備がゴテゴテになって、夕方になってパタパタしました。

 すでに前泊の參加者を迎え、準備の方を交え、コーダルオンで食事。おいしかった。とくに、手作りのケーキも、なかなかの美味。もう少し書類の整理と、法話担当者との打ち合わせをして、明日に備えます。明日は、10時30分から準備と、打ち合わせ。

 そうそう、わが家も、長女かデビューします。楽しみにしていたのに、夜になって不安になってきたのか、いろいろと心配事をいってますね。「足に×印つけられないか」「知らない人ばかり、大丈夫か」「ひとりで、なんか歌わされたしないか」……。はっきりいって、友達も参加するし、半数はお知り合いの方。しかも、自宅なんですがね。それでも初参加なので、人並みに緊張しています。

 では、ご参加の方、お気をつけておいでください。お待ちしています。

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『藝州かやぶき紀行』

 『藝州かやぶき紀行』   藝州(げいしゅう)と読みます。安芸(藝)の州(くに)の略称です。でも、広島出身の連れ合いに「?」と言われた。日本六十余州というように、古来の国をあらわす慣用的な表現。まだ、「安芸」とか「飛騨」の国名は通用しても、「州」の表現はほとんど使われませんね。かろうじて、一般的に通るのは、「信州」(信濃)、「紀州」(紀伊)、または「上州」ぐらいでしょうか。

Kaya  さて本題。「西中国茅葺き民家保存研究会」の監修、監督した、かなりマニアックだけれども、広島という土地に根ざし、「土徳」の言葉がぴったりくる温かい作品です。京都ではないが、広島も、ぼくにはご因縁深い地なので、知っている地名が出て来るたびに、うれしくなってきます。熊野町や大和町の職人さん、可部(かべ)や安芸高田市のかやぶきも出て来る。戦前までは、今は新幹線口になっている白島(はくしま)の周りも、かやぶき民家だらけです。それが、高度成長期に激減したものの、いまも住居に使われる広島県内のかやぶき民家の特徴、高齢となっている茅葺き職人たち、その技(わざ)や道具、さらには、山間部と瀬戸内側での技の違いなどなどを、愛情込めて丹念に追いかけていきます。

 広島のかやぶき職人さんたちは、西日本に広く出稼ぎに出ている。その後を丁寧に追いかけていく、ロードムービーでもある。すると、その技の伝わり方が微妙に違う。山口県と島根県の県内でも、どの系統の職人がやってきたかで、その伝播が異なるわけです。また、広島と筑豊(田川)との、切っても切れない関係が分かってきたりもする。筑豊が、炭坑で賑やかだったころ、広島出身の炭鉱夫が大挙押し寄せたので、屋根から月が見えるくらいの茅葺きの社宅が作られている。広島から、炭坑への出稼ぎや、アメリカやブラジルに移民が多いのは、ひとつは、真宗篤信地帯では、堕胎や間引きを回避するので、貧しい農村の次男、三男と、男たちが多くいたこと。そして、彼らが熱心に働くことと無関係ではないのでしょう。ちなみに、京都にも出張し、東は滋賀のマキノ町に現存。滋賀県今津町には、広島の親方の弟子がおられて、1軒の茅葺き民家も現存。この家は、追ハイの下見で覚えていたので、ちょっとビックリ。

 茅葺きのための「カヤ」を収穫する作業、その村での作業の違い。また見たこともないような独特の道具と、それを造っていた鍛冶屋。そうなんです、農業が機械化し、さらに第一次産業に従事する人口が激減すると、文化や習慣も、どんどん変化していく。「村の鍛冶屋」は、いまでは唱歌の中だけの世界になっている。こうして、生活習慣が変わり、生活文化や様式が失われていくわけです。ほんの40、50年も前のことなのになー。

 古い民家をじっくり写されだけで、とても郷愁にかられます。別に住んでいたわけじゃないのにね。
 さらに、高齢になった職人たちの、味のある姿。とくに、さまざま角度から、職人の「手」を映し出されるけれど、深い皺と、仕事によって歪んだ指、その味のあるひとつひとつの「手」を見るだけで、感動します。でも、需要が減り、高齢化がすすみ、後継者は必要ないわけです。ところが、京都の美山町の茅葺き集落が登場するけれと、そこでは若い30代、20代、時には大学で建築を学んだ若い後継者が育成されている。でも、職人さんじゃない。建築家というか、アーティストの風情です。このあたりは、なかなか複雑な風景で、おもしろかったなー。

 とにかく、高度成長期に急激に、日本で失われていったものが明らかに見えてきます。それは、効率と利便性と、そして利益のみを追求した、当然の結果ですね。いろいろと考えせられます。でも、ただただ好きなものを愛情を込めて撮っているので、へんな押しつけはなし。最後のオチも、なかなかユーモラスした。

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『歩いても 歩いても』

 京都シネマへ。3スクリーンがあるが、けっして大きくないミニシアター劇場だ。でも、このところ上映される邦画は、どれも立ち見がでるほどの人気。『歩いても 歩いても』は、『誰も知らない』の是枝裕和監督最新作だ。ある家族の夏の一日を描いた、ほろ苦く、痛烈で、時にユーモラスな、心温まるホームドラマだった。
 満席の劇場は、左右の通路にも立ち見客が出ていた。朝から二本続けて鑑賞なので、いい席を確保できた。映画が始まり、40、50分経ったころだろうか。突然、「ブッツン」という音と共に、音声が出なくなってしまった。ざわめく場内。そして、1分ほどすると、今度は映像も切れてしまった。いやー、こんなこと古い映画の中の出来事しかしないので、みんなビックリ。でも、すぐ説明があった。もちろん、映像が古いのではなく、落雷による停電で、3スクリーンとも停まってしまったのだ。防音設備のある劇場内なので、まったく気付かなかったが、音声が止まるとかすかに雷鳴が轟いているのがわかる。電気はすぐに復旧した。一瞬だけの停電だったが、再上映に少し時間がかかり、結局、20分後に、5分ほど巻き戻されたところから再スタートとなった。いやいや、いろんなことがあるんですね。まだ序盤だったので、それほど気にはならなっかった。結局、30分ほど長くかかって、映画は終了。映画自体は悪くなかったので、満足して帰ろうとしたら、出口で、スタッフがお詫びしながら、無料招待券を配っておられた。まったくの不可抗力なのにね。次回も満席の上、30分は遅れたので、ロピーはごった返していた。まあこんな日に、ほんと災難なことだと同情しますわ。外に出たら、大きな水たまり。かなりの雨だったようだが、ちょどう雨は上がっていて、自転車で帰った。しかも帰宅してほどなく、また土砂降りの雨となった。電車は止まるわ、停電するわで、大荒れの一日だった。でも、おかげで冷気がはいって、猛暑も一服したし、ぼくにとっては、雷さまさまという一日でした。
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 映画は、ゴンチチの心温かなギターのメロディーと、湘南の夏の風景も美しく、どこにでもあるようで、どこかに忘れ去られたような、家族のすれ違い、葛藤、そして愛情が、丁寧に、やわらかな視点で捉えられている。「ああ、こんなことってあるよなー」というディテールや、セリワが笑いを誘う。若き日に人助けで亡くなった優秀な兄の命日に、集う3家族。老いた権威的な父親と、ダメ息子の葛藤。亡き兄への追慕と嫉妬。姑と嫁の冷かな戦は、時に愛情豊かに、時に厭味の当てつけのセリフガ連発される。母と実の娘、そし母と息子との微妙な関係に、老夫婦の何十年も前の若いころの恨み…。まあ、業は生きているということでてね。それぞれの思案を胸に、大切だけれども、口にすれば壊れてしまいそうな家族の絆が、豊かな人間洞察力で描かれていきます。それに、原田芳雄、樹木希林、阿部寛、夏川結衣、YOUと、なかなかの芸達者がそろって、そのやりとりが、やっぱりおもしろいなー。なーにも起こりませんがね。それもまた美しいです。
 ああ、「孝行を したいときには 親はなし」ってか。父と息子、なかなか面と向かっては、素直になれないものですね。

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生きる喜ぶ

 暑い。京都は、7月1日以来、連続して真夏日、しかも35度を超える猛暑日が続く。日差しも、肌に突き刺すほど痛い。それもそのはず、連日、37、38度と、人の平熱の体温を超えているのだ。学校の先生が、「うちの小学校では、37度を超える熱がでた子は、自宅に帰らしますよ」と、あまりの気温の暑さを愚痴っていた。どうやら、子供大会中まで、雨もなく、猛暑が続くようである。

 今日は、朝から夜まで、仏の子供大会の打ち合わせ会である。少し準備が遅れているので、あと数日、集中した作業になる。朝は、役割の打ち合わせし、簡単に昼食を挟んで、昼からは、新人も交えた仏青例会で、法話のリハーサルと、テーマの分かち合い。夜まで簡単な作業をしてもらって、慰労兼ねた会食をした。お疲れさまでした。明日は、熱い中で、追跡ハイキングの下見がある。火曜日、前日の木曜日に、数名集まって、準備会や掃除などの準備をして、本番に備えることになった。

 今年のテーマは、「生きる喜び」である。ありきたりのようで、実はなかなか深いテーマである。「生きる」とは? 「喜び」とは? 人間の欲望、目先の楽しみではなく、ほんとうの意味での「生きる喜び」とは何か?いまのような、絶望的な閉塞感の社会状況では、ニヒリズムや、刹那的な快楽を求めてごまかすしかない。それで、なかなか生きている実感も、生きる意味も、ましてやほんとうの喜びも実感することは難しい。しかし、私が、いかなるありようをしていようとも、まず人間に生まれたことが、なににまして無条件に尊く、それだけで、ほんとうは大きな喜びがあるのだ。しかし、そんなことを声高に語られような状況ではない。ましてや、人間に生を受けことは、迷いを離れる教えに出会える幸せにつながるものなのであるが、実際は、わが煩悩に惑い、刹那刹那の欲望を追いかけ、それを喜びと錯覚しているのが、無明の私の姿である。ますます私も、社会も、その闇が深まるばかりではないか。そんなことを、いろいろと味わい、また分かち合った。

 ところで、子供大会のテーマは、9年ごとに一周している。当日の記録を読んでいると、世相も反映していてなかなか感慨深かった。
 今年、2008(平成20年)年の前は、1999年に、やはり華光会館で、「生きる喜び」をテーマに、仏の子供大会が開かれている。驚いたことに、すでにバブルがはじけ、いまの社会状況と変わらぬ危機的な状況の話題が出ている。たとえば、小学校低学年でも学級崩壊が起こったり、5分間もジットしておれない子供がいること。自殺者が3万人を超えたこと。閉じ籠もりやウツの人が増加している話題。キレやすい社会への危惧などなど、いまの社会状況と変わらぬ姿が反映されている。しかし、一方で、世紀末の危機感はあったものの、ミレニアムの期待もあってか、今日のような格差社会、急激な社会不安を予想すらしていない。まだどこか楽観的だったのだ。個人的には、結婚していたが、まだ子供は生まれていない。

 さらに、もう9年前。1991年(平成2年)はどうか。まさに、バブル幻想の最終章を謳歌している時代である。物質的な世相に批判的な意見が出ているが、まったく危機感はない。華光誌の子供大会の法話特集の横に、「皆さんも、パソコン通信をはじめませんか」とのお知らせが掲載されている。ぼくも、ワープロで、パソコン通信をしていたのだ。なんと、通信速度は、1200dpsにアップしたのを覚えている。その意味では、その後のIT革命の爆発的進行は、驚異的でもある。情報革命が、この世界と個人に与えた影響は計り知れないのだ。個人的には、まだ博士課程に通っていて、独身である。

 そして、さらにもう9年遡る。1983年(昭和58年)はどうか。もう世相のことはあまり覚えていない。ただ、個人的なには、大学生で、その春に信仰にめざめ、それまでと違って気持ちで、ご法話をさせてもらえるようになったことは、鮮明に覚えている。
 最終日、子供たちひとりひとりの背後にある、如来様の大悲のおこころ、本願の尊さに感極まり、嗚咽しながら、このお法りをお伝えせずにはおれなかった。その身にさせてもらった。それは、いまも変わらないのだ。
 確かに、9年事を振り返っただけで、世相は変わり、わが身も、学生時代、働き、独身の時から、結婚もし、そして子供が生またりと、それぞれ環境が変わり、心境も明らかに変わっている。しかし、コロコロと無常変化する世の中にあって、変わらずに喜べるものに出会えた喜びがある。そこが、ほんとうの尊く、生きる喜びの原点と味あわせてもらうのだ。                

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バトン

 わが家の女子大生は、今夜も大学の飲み会である。新入生やゼミや研究会やと、学期末ということもあって、なんやかんやとよくある。ぼくは、子供を連れて、お気に入りのお店で、ゆっくりと外食することにした。3人で食事しながら、子供の話をゆっくり聞いた。

 いま、下の子(4歳)が、生まれて初めてといっていいほどの悩みに直面している。「もう保育園に行きたくない」というのである。悩みのタネは、バトンである。バトン? バトントワリングのバトンではなく、運動会リレーのバトンの方である。バトンは受け取る時、手を逆手にして受け取り、そのまま順手で、逆手の相手に渡す。小さいので、右手で受けて、右手で渡すだけである。ところで、彼女は、受ける時は、うまく逆手に出来るが、いざ渡す時に、思わず相手と同じ逆手にして渡そうとする。でも、それでは、バトンの長い方が逆になって、うまくバトンタッチができないのだ。それが、クラスで彼女たったひとり、何度やってもうまくいかないのもだから、先生から、直々に注意をされたというのである。なんでも、「横にでなさい」と、ひとりだけ、列から出ての指導が続いたようで、どうも、このことが、小さな胸にショックだったようだ、

Img_2995  もう寢ても覚めても、「バトン、バトン」で、小さな頭は一杯である。「じゃ、練習しょう」ということになると、ニコニコはじめるが、最初はやはり間違った。ところが、そのうち、うまくできるようになるので、「そう、それでいいんやで。うまいやん」というのだけれImg_2994ど、すぐに、「でも、レナちゃんの時はうまくいかない~」と泣きだのだ。もう、毎日、1時間ごとに、「バトン」「バトン」と、歎いたり、ためいきついたりする。「先生がこわい」ということが、根にあるらしい。「だってな、私、いままでおこらるようなことなんにもしてないもん」。どうやら、指導されたことが、悪いことを叱れているような気持ちになって、「また失敗したら叱られる」という恐怖になっているらしい。そして、「保育園に行きたくない」といったり、「運動会(9月中旬)も欠席する」ということになる。まあ、たまたま週末だったので、「いいよ。じゃ、明日も、明後日も休んだら。でも、いまは、ご飯食べよう」というようなことである。それで、まあ、一応、事実だけを母親から、先生に伝えることになったが、わが子のあまりのしつこさに、家中、ちょっとおもしろいやら、かなりあきれるやらである。というわけで、連れ合いが、ナナの「脳内メーカー」を書いた。(先生の名前は伏せておこうかなー)。それをみて、喜んだ長女も、うまくいった絵を描いて、なかなかの新境地の画風を披露した。うまいネ。

 今日も、歯医者のあと、かなり遅れて保育園に連れて行ったら、園長先生に会った。「エライね、歯医者さんに嫌がらんいったんやね」といわれたので、「実は先生、バトン(おこられるの)が嫌で、喜んで『歯医者に行く』と言うです」と告げると、報告を受けておられた園長も、おもわず苦笑い。そうか。バトンの方が、歯医者さんよりも嫌だとわね。でも、嫌がっているという事実だけを告げるだけで、先生がソフト指導に切り換えてくださり、ここ数日続いたバトンの悩みはひとまず解消した。とうとう、「うまくできるようになった」と、ほめられるようになって、一件落着。自信をもってやると、うまくできることも、萎縮すると、バニックになるようだ。

 大人からみれば、小さな悩みのようで、彼女には、悩みで頭一杯。それは、中身は多少は違っても、悩む構造自体は、大人もまったく同じだよね。第一、このしつこさ、クヨクヨ具合は、どうやら、ぼく譲りなのかもしれんなー。 

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「聞けない」自分か、「聞けない自分」か

  「壮年の集い」に引き続いての、輪読法座の集い。平日なのに、1グループにしては、そこそこの人数集まりした。輪読は初参加の方が6名。女子大生も3名ありました。ほんとうの初めての方は3名で、そのうち、2名はネットからこられた初対面の方。かなり勇気をだして参加してくださったようです。ある会で聴聞され続けていたので、○○秘事(馬鹿らしくて書く気にもなれん!)じゃないかと悩み抜いたそうです。華光会のHPをクリックするのも、勇気がいるんだなー。決断までに、昨夜は眠れんほど悩んだあげく、なぜか引きつけられるように電車に乗っていたそうです。でも、まだ会館の前でためらっていたら、なんと、やはり初参加の大学の先輩に出会って、一緒に来られました。これゃなんともいえないご縁ですね。やはり、すごく硬く緊張されて座っておられたが、皆さんの飾らない率直な発言が、新鮮だったご様子で、徐々にほぐれて、あとはもう、百聞は一見にしかずです。最後は華光双書を購入し、終了後は、お同行さんのお茶会にも出席されてました。

 で、今回は、これまで長年ご聴聞されてきた方の心境の変化をお聞きしました。「でも…」がとれて、心境が開けてきた方、これまでのウソの皮、聞き間違いを懺悔された方など、さまざまでした。その意味では、なんか堅い、固着した、「これでいい」なんという心境だけでは、まったく面白くないですものね。信一念の水際は、火に触れたようにハッキリする。でも、それは、迷いに迷ってきた凡夫の迷情、自力の心を破られる一念ですから、むしろ、そんなところに捕らわれることなく、もっともっと自由自在にご聴聞していけるようになるんじゃないでしょうか。刻々変化してやまない生きた体験、生きたご説法を、いま、いま、ここのところでお聞かせに預かることができる。そんな尊い仏智の耳をいただいたわけですからね。それを死にものにしては、あまりにも勿体ないです。

 もうひとつ。壮年の集いで、「聞けない自分を聞いていってください」と言われた方が、その心境語ってくださいました。でも、まだ、「聞けない」自分という、「聞けない」ところだけを問題にされている。それでは、まだ「聞ける」自分や、「聞かねばならない」自分になていく。つまり、「聞ける」とか「聞けない」とかを問題にしているんです。それでは、知らぬまに自分が抜けていく。そうではなく、問題にするのは、「聞けない自分」の「自分」の方ですね。よく似ているけれど、ここが大違い。「聞けない」状態ではなく、「聞けない自性」を問題にしていくわけですね。
 「聞けない」自分と、「聞けない自分」。わかりますかね?

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ホンモノの女子大生も…

 いや、暑いですね。京都は、連日、36度、37度と猛暑日続き。夕立の気配もなし。自転車で少し走っただけでも、汗ビッシリです。特に、このあたりは緑も少なくて、この建物は風も通らない。でも、長時間のクーラーでは調子が悪くなるので、仕事は、短パン、ランニングの薄着で、扇風機で頑張ってます。
 
今日は、子供大会やお盆のお参りの連絡をしたけれど、急に夏の行事が慌ただしさを増してきました。

★仏の子供大会のお誘い
 でも、8月1日~4日の「仏の子供大会」は、もう〆切だというのに、子供の参加が少ないです。班活動に支障を来すんじゃないかなーというぐらい。過渡期の先生の心配をしていたけれど、こちらはメドがたったのに、問題は、子供ですか。わが子は初参加。もう、いまから心待ちに楽しみにしています。お友達も誘いました。せめて、もう4~5名増えないかなー。カウンセリングマインドと、純粋な信仰活動、そして參加者の一体感を味わえ、しかも楽しい。華光会の法座のエッセンスが凝縮された自信作です。でも、最近の子供さんは多忙で、なかなか4日間となると難しいですわ。特に、おばあちゃん世代が熱心でも、親世代に信仰がない方は、普通のキャンプ程度に思われているので、塾やクラブ活動を優先させられるケースが多くて、なかなかお勧いも難しくなっています。
 
いまからでも間に合います!迷っていおられる方、大至急、お申し込みください。↓

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/08/kodomo2008-8.htm

1)輪読法座 明日、24日(木)1時30分~5時
 華光誌67-3号の輪読です。今回は、『巻頭言』へその緒から始めたいです。
 そうそう、連れ合いは、いろいろと大学で宗教勧誘の活動を行なっています。明日も、試験のあと、お寺のお嬢さんを連れて参加してくれます。こちらは、二十歳の正真正銘の女子大生! 真宗学だけもど、信仰のことはなかなか素朴でかわいいです。↓

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/07/rindoku2008-7.htm

2)仏青法話会 27日(日)1時30分~4時30分
 子供大会の法話担当者たちが、法話検討を予て、本番さながらに法話をしてくれます。これがなかなか有り難くて、好評。恒例行事になっています。でも、今回は、担当者の參加者が少ないのが心配。2名はあてにしているけれど、もしや! 誰もないかもしれないなー。でも、ここにも、今度は男子学生を勧誘してますね。彼は、体験的な信仰を求めているようですよ。先生方は、みんな大学生や高校生ですがね。前後に、子供大会の打ち合わせ会を行ないます。↓

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/07/bussei2008-7.htm

3)大阪支部法座 27日(日)1時30分~4時30分
 生駒のセイセイビルで、増井悟朗先生のご法話と座談会です。
 暑い時ですか、奮ってご参加ください。
 ぼくも、法座続きですが、この暑さを元気に乗り切らんとなー。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/07/osaka2008-7.htm

 

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エレベーター

 壮年の集いの終了前、エレベーターの調子が悪くなった。3階で、ドアが開かないのである。ほかの階は別に大丈夫で、エレベーター自体は、動いている。いろいろな方が、フトンや弁当を運ぶおりに、普通の使用では絶対に触れることのない、戸留めのボタンを押すので、その時に、何か違うところを押すこともままある。それで、すべてのボタンを正常にして、ぼくも試しに乗ってみることにした。

 3階まてはいつもの動き。で、3階で停止すると、ほんの少し、ほんとうにわずかにドアが動きかけるのだが、開かずに停まってしまう。あわてて、2階や1階のボタンを押すが、なかなかエレベーターが動かない。開閉を押しても、ランプがついたままである。エレベーターの空間は狭いものだが、華光会館のものは一層狭い。4名乗りだが、4名ではギュウギュウで酸欠になりそうなので、いいとこ2名ぐらいで使用している。その中で、正味は1分足らずとはいえ、正常に動きだすまでは、長く感じられた。狭いところに閉じ込められ、しかも調子が悪いことを承知して乗っているし、たまたま、ドアの開閉を安全なスピードで行なうセンサー部分に寿命が来ていて、明朝に補修されることになったいた。それで、ほんの一瞬、このまま急に落下するんじゃないかという恐怖が脳裏にかすめるものだ。

 今朝、修理にこられてたが、なんとすぐに解決。原因は、エレベーター横に磁石でとめている時刻表の、その直径1センチほどの磁石だったのだ。小さな磁石が、フトンかなにかを運ぶせいに、偶然に動いて、ドアの開閉部分の隙間に入り込み(金属なので引っつく)、安全センサーが作動して、ドアが開かなっただけである。まあ、原因がわかってみると、なんともバカらしいものだが、コンピューターで制御された精密機器ほど、ほんの小さなトラベルでも、正常に作動しなくなるものなのだと、改めて思わされた。

 ちなみに、今日は、修繕の日。エレベーターの後は、トラベル続きの3Fの講師室のクーラーの室外機を丸ごと変えるのに半日かかる。あとは、ドアの開閉部分の修理も続く。それに、以前の木造の華光会館なら、素人でも修繕できるものが多かったけれど、いまの建物は、便利なようで、故障や修繕をやはり専門家にお願いしないといけない部分が多い。さすがに10年以上になると、年々、修繕費用がかかる。なかなか維持をしていくことも、たいへんである。

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歯痛

 壮年の集い、もう19回目。今回ほど、新鮮な顔ぶれはなかなか珍しいね。それに、ご縁の新しい方も多くて、分級座談に不慣れな方も多くて、多少、硬かったと思いましたが、それでも、尊い、有り難いご縁をいただきました。

 初めてお参りくださる方も、皆さん、ほんとうに真面目で、真剣な方ばかり。それらの方の方が、まるで菩薩様のようで、尊かった。ネッやある会をご縁にした方も多かったけれど、一方で、お寺のお坊さんや古くから華光と縁える体験的な聞法を大切にするお寺のご門徒さんも初参加くださり、新鮮でした。最初、全体会で、全員で車座になって、参加の動機などを一口ずつ分かちあったけれと、道場狭しと一杯で、やっと座れるほどの盛況ぶり。
 それに、初日の京都は、37、4度の酷暑の一日。でも、華光会館は、冷房も完備されて、とても贅沢に聞かせてもらって、なかには、気持ちよくお休みになる方もあるありさま。その姿ひとつでも、「楽したい」の凡夫の、いや私の自性そのもので、ある意味で、尊い気がしましたね。どんな大事な話でも、疲労や肉体的な誘惑には勝てない。そこを叱咤するより、逆に、仏説まことを聴く思いがしました。

 座談会は、4グールプだったので、1グループが15、6名と人数も多目。それに2度の全体会と、2度の法話があるので、分級座談の時間は、短めで、ひとりひとりとじっくり関わるというわけにはいきません。特に、初めての方は、非常に緊張されていたので、滑らかに、もしくは構えなく発言するまでには、もう少し時間が必要だったのかなーとも思いましたが、それでも、なかなか有り難い場面もあって、いいご縁だったと思いました。広島カウンセリングで教えてもらった、最後の10分の分かち合いも、なかなか新鮮で効果大でした。

 で、お世話の方のご尽力もあり、無事、終了。そうじの間、皆さんをお見送りし、そのあと、1時間ほどの反省会。お世話もたいへんだったので、近所のファミレスで、夕食を食べました。疲れていたので、軽いものを注文。家族で、法座の振り返りなどをして、多少は、疲れているけれど、今回は、法話もなく、分級座談会も短めで、かなり楽だったなと思っていたのだけれど、食事を初めて、10分もしないうちに、何かを噛んだ拍子に、悩を直撃するほどの鈍痛! 右の奥の親不知の神経か何かを刺激したようで、痛い。もう、そうなると、痛いのと、こわいので、食事もノソノソです。一気に、法悦もしぼむ、しぼむ。この変り目、末通られないわが身の姿は、まったく見事の一言。我ながら、大いに感心したなー。たかが歯痛ですよ。ハッキリいって、いのちにまったく別状はない。虫歯ではないので、いまは、ズキズキした痛みは治まっている。でも、ズキーンという、まったく予想していない、突然の痛みがあるかと思うだけで、もう心はそこ一色に支配されてしまう。後は、こわごわ、ドキドキ、おそるそおる、様子みながら、左の歯だけで噛んで食べたけれど、食事した気分になれないわー。

 ほんとうに、自性を教えられます。でも、ぼくには、動じない心になるより、こうして、一貫性のない、法悦も自分の都合でしかない、自性のお粗末さ、自己中心の姿に触れることで、ほんとうに仏説まことと味わわずにおれらない。へんな話だけれどね。ぼくには、そこが有り難くて、お念仏させてもらいました。同時に、ちょっとした自分の都合で、コロコロ変わっていくしかない、そんな腐り切っているわが身にかけてくだされた、如来願心の、なんと広大で、尊いことでしょうかね。それだけが、すえ通る真実なんですね。そして、私の側に100%、まったく微塵も,まことがないことが、同時に有り難いじゃないですか。「ああ、明日、歯医者にいかんといかんなー」と、一気に憂鬱な気分にドスーンですわー。それにつけて、「なんと、勿体ないことかね」と、南無阿弥陀仏です。不思議やね。

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正統な(?)隙間産業

 明日は、壮年の集い。準備も整って、お参りを待つばかり。でも、珍しく法話がないので、今夜は精神的にも余裕ありました。夜には、事務所で、分級座談会の相談。初参加者が多いですね。初めてお会いする方、顔見知りでも華光会館が初参りの方もある。男性で、仕事もしっかりされている30、40代の方々。ネットをご縁にする方も多い。これも大きなうねりですね。その意味では、高齢化が進み、主婦層や老人中心の伝統真宗寺院のような危機感は、華光にはありません。既成教団も、もう少し広く視野があれば、ほんとうに求めておられる方や悩んでおられる方、仏教や真宗に積極的に関心をもっておられる若い方、新しいご縁の方も、かなりおられると思います。でも、なかなか既成教団がそのニーズに答えているようには思えない。的外れな人集めの企画ばかりに熱心で、「ここをひとつを伝えたい」という篤いものが感じられず、肝心のコアになるメッセージも、幅広い層で受け入れ易い、当たり障りのないものばかりが散見して、なかなか心に響いていかない。せっかくの工夫も小手先だと、すぐに見破られていく。そんな悪循環ですね。それで、新興宗教はうさんくさく、既成伝統教団では満足できない方もあって、おかげで、「隙間産業」の華光会も生き残れているわけです。もっとも、「すきま」といっても、内容的には、正統を自負してはおりますが…。

 それにしても、次々と行事が押し寄せてくる感じですね。6月は次々宿泊法座があり、7月も3日間の「広島真宗カウンセリングWS」の余韻が続く中で、「壮年の集い」でしょう。終われば、すぐに「子供大会」の準備が本格化。お盆参りを挟んで、華光誌と「聞法旅行」の準備が始まる…。こんな小さな所帯で、「なかなかよくやっとるなー」と自画自賛しております。まあ、単なる「貧乏暇なし」なんでしょうがね。

 個人的には、それでも合間、合間に、うまくリフレッシュ出来るようになりました。

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プールの下見

 明日から壮年の集い。今回のそうじは、お手伝いの方に合わせてフレックスタイムで。だから、昨日の方もあれば、今日の昼からの方、夕方の方、そして夜の方と、バラバラに来られました。受入れ側としては、まとまってもらう方が楽だけれども、これからは、実情に合わせていかないとね。京都、大阪、そして仏青の皆さんご苦労さまでした。

Img_2966  ぼくは、仏の子供大会の下見で、子供と、長女のお友達もつれて、初めて伏見港公園プールへ。子供大会と同じ曜日、時間帯を狙って行ってきました。実は、小学校時代に、姉に連れてもらって何度も来たところだと思うんですが…。最寄り駅やひとつだけ妙な記憶があるのだけで、まったく初めてのImg_2973印象。35年以上も前のことですからね。様変わりしていて当たり前か。事務所の方に、「8月2日に、団体で30~40名です」と告げると、「ウーン」と、ちょっと困った様子でした。団体割引はあるのですが、予約はしても意味はないとのこと。それゃ、貸し切りになれば別でしょうがね。でも、今のところ、貸し切るような大きな団Img_2989もないが、ただ「今日より、さらに混みますが、それでよろしければどうぞ」とのことでした。今日も、夏休みと連休が初日の土曜日で、なかなかの混雑と思ったけれど、当日は、芋の子を洗うようなことになるかなー。施設は、屋内と、屋外、それにスライダーや広めの休憩所などあって、充実していたけれど、人出だけは仕方ないですね。団体だと、小中学生240円!と、かなりの格安ですからね。

 急いで帰宅して、定期的なカウンセリングを一件。いろいろと有り難く味わうことがあったけれど、書けないのが残念。
 まあ、ほんとうの幸せってなんなんでしょうか。仏法の正解で飾るのではなく、わが身の実生活を通して、どう生きているかが問われます。

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共感、感情移入(empathy)

  広島の真宗カウンセリングWSの翌日、真カ研の月例会があった。ロジャーズ論文の輪読だが、1年ぶりに担当が回ってきた。大急ぎで、レジュメを作って出かけのに、参加者は世話人4名だけ。でもその分、ざっくばらん、それでいて充実した話し合いとなり、実りも多かった。特に、M先生とは、広島から4日続けてのご縁だったので、その時の経験も分かち合いながら、またお聞かせいただいた。

 ロジャーズは、自己一致につづいて、成長促進的関係にとっての基本条件の第2番目として、「共感、感情移入(empathy)」をあげている。すなわち、

※「カウンセラーは、クライエントの私的な世界の正確な感情移入的理解を経験し、その理解したもののうち、いくつかの意味ある点を伝えることができる」
 「クライエントの内的世界の私的な個人的意味を、あなた自身のもののように感じながら、決して”~のような”という性質を失わないこと」
 それは、クライエントの混乱、はにかみ、怒り、不当感という気持ちを、あたかもあなた自身自身のように感じるのであるが、あなた自身の同様な感情と結びつけないのである。

 つまり、いわゆる「同情、同感(Sympathy)」ではないのである。
 でも、ここがなかなか難しい。感情移入というと、映画やドラマ、悲劇的事件などを見て、同じように涙を流すことは、日常生活で誰もが経験している。でも、ここでは、相手と同じように感じながらも、あくまで、「あたかも~ような」という線を超えないことだというのである。つまりは、相手の感情に巻き込まれて、自分の感情と混同しないのだ。
 でも、時には、知らず知らずに、相談者と同じように憤ったり、混乱し困り果てたりするようなケースもある。または、しっかりした契約、場面構成が出来ていない日常場面では、正義の代理人となって、相手に代わって不当な問題解決に乗り出してしまうケースもあろう。しかし、それでは、たとえ目先の問題は解決したとしても、常に依存関係が生まれたり、成長を促進するという意味では、まったく援助的とは言い難いのだ。

※『クライエントの世界が、カウンセラーに明確になった時、
彼がクライエントの世界の中で、自由に振る舞えた時
カウンセラーは、クライエントにとって漠然としか気付いていないことや
ほとんど気付いていない経験の意味など
理解したことを伝えることができる。
非常なに敏感な共感こそ、人の成長を可能にするために重要だ。』

 ここでは、単なる日常生活での感情移入ではなく、感情移入的理解とか共感的理解といっている。その理解によって、立ちあがってきたクライエントの内的世界を、カウンセラー側が伝えることも出来るというのである。その態度こそが、人の成長を可能にするのである。

 そして、もう一つ、ぼくが気付いたことは、単に「感情」とか「気持ち」の理解という表現ではなく、「内的世界」とか「私的世界」という表現を使っていることだ。世界にひとつしかない貴重な彼自身の内的世界に、飛び込み、お邪魔して自由に振る舞ってこそ、共感的理解だというのである。とは言っても、こう示されてくるとかなり難易度が高い気がしてきた。

※『しかし、この理解は極めて稀。普通は、外部からの評価的理解がほとんである。
「もしも、私が他の人が人生を経験する仕方に、ほんとうに心を開いているならば、-もし、彼の世界を自分の中に取り入れることができるならば-他の人のやり方で人生をみつめ、自分が変えられてしうまという冒険をおこすことになるだろう。」
すべて、変化することに抵抗を感じ、
他の人の世界を、彼の立場からではなく、自分の立場から見る傾向にある。
他の人の世界を、分析し評価するが、理解しない。
しかし、私がどのように感じ、どのように見えているかを理解するならば、
そのような雰囲気の中で開花し、成長することができるだろう。
そのような感情もつと、孤独ではないと確信できるだろう。
 カウンセラーが、共感的過程の中で、彼自身の同一性を失うことなく、
クライエントが見たり感じたままに、その内的世界で起こる経験過程を把握することができる時、変化が起こり易いと、ロジー
ャズは確信している。』

 共感的理解の難しさのひとつは、自己を失うのではないか、相手に同化するのではないかと恐怖である。ここでは、いろいろと興味深い話題も出たが、いまはパス。ただ、世間一般の私達の理解は、自己や世間の価値観で、相手を外側から評価したり、分析したりする評価的理解ばかりであることは確かだ。その立場から、アドバイスや指示を出せば、相手が変わると信じているのであるが、そうではないということだ。

※『正確な理解は重要だが、理解しようとする意図を伝えることも援助的だ。
混乱し、訳が分からず、奇妙な人の治療でも、
私が、彼の言おうとすることを理解しようとすることを、彼が知覚するならば、援助的となる。
私が、彼を一個の人間としての価値を認めたことを伝えることになる。
私が、彼の気持や話を、理解する値打ちのあるものだと考えているという
事実を伝えるのである。』
※『完全な一致を達成することができないのと同様、完全な共感を達成できなる人はない。しかし、個人が、このような線に添って発達することは、疑いようがない。
 感受性訓練などので、人が今までよりも敏感に、他人の言葉を聞くことが出来るようになる。
それは、言葉、動作、態度の中に現れる微妙な意味を受けとめ安くする。
それは、表現された意味を、今までよりも深く自由に共鳴できるようにするものだ。』

 ここまで読んで、なんかみんなホッとさせられた。完全な共感は人間である以上、出来るはずはない。しかし、より相手の内的世界にお邪魔しよう、理解しようとする姿勢や態度が伝わることが、援助的だというのである。それは、相手を一個の価値ある人間として尊重することであり、いかなる話や気持ちであろうとも、聴くに値打ちのあるものだという事実が、伝わっていくというのである。その態度を身につけるために、たゆまぬ努力を惜しまないということなら、ぼくも出来るかもしれない。

 ぼく自身も、一個の価値ある人間として尊重され、この世にひとつしかない内的世界を安心して開き、共に味合わせてくださるような方に、出会わせてもらっている。そして、同時に、ぼく自身は何も出来なくても、相手に寄り添い、共に聞かせていただくことを許してくださることもある。ここらは、頭で理解するのではなく、そのような姿勢や態度に、体験的に触れさせてもらう機会こそが重要だろう。

 レジュメを元に書いていたら、小難しくダラダラ長くなった。すみませんね。

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Img_2955  夕方、外に出て、ふと空を見たら、虹がかかっていた。このあたりは雨は降っていない。東の空では局地的な雨が降ったのかな?

 あわてて、デジカメを取りに戻って、子供と二人、屋上に上がった。虹が消えるまで、しばし眺めていました。ほんの5、6分の出来事。

 大好きな、虹の彼方に(Over The Rainbow) の歌詞のとおりにいきましょう。

 クッキリ見えていたけどれ、カメラには、きれいに写ってないのが残念。分かるかなー?

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3年目に突入

 気がつくと、一昨日、ブログ開始から、丸2年目立っていました。

 真宗カウンセリングワークショッブがあって、忘れていました。よく2年間もおつきあいくださいましたね。ぼくも、京都にいるときは、ほぼ毎日の更新と、よく続いています。自分でも、なかなか不思議ですが、やりだしたら、ある程度極めるまでは徹底せずにおれない、自分自身の性格がここにもよく現れてます。

 昨日から、3年目に突入。これからもおつきあいよろしくお願いします。

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出会いの3日間

 広島真宗カウンセリングワークショップ。

 久しぶりに高揚感というのか、軽い興奮状態で帰宅した。大きな安心感、暖かさに包まれた3日間だったが、同時に、これまで歩み続けてきたことの確かさ、そして今後の真宗カウンセリングや華光の可能性の大きさに、胸踊る思いがしたのだ。

 形骸化している浄土真宗が、現代においてその本来の役割を取り戻すのは、もう「真宗カウンセリング」(DPA)という形を取ることでしかありえないことを、再確認させられた。同時に、その思いを共有できる輪が、ほんの少しかもしれないけれど、確実に拡がったことが、素直にうれしい。
 そして、自分自身も、大きなお育てをいただき、いま、華光という形で徹底して、誤魔化さずに、お聞かせに預かれるご縁を、不思議に、あまりに不思議にもいただいたことの尊さを喜ばずにおれないのだ。

 なにひとつ無駄なことはなかったなー。誰ひとりとして、つまらない人も、不要な人もいなかった。もちろん、何一つとして、つまらない思いや発言などもない。それは、ぼくの中のさまざまな虚仮不実の思い(100%それしかないが)も、ネガディブな感情も含めて、無駄なものは何一つなかったのだ。すべてが、ぽくが南無阿弥陀仏に会うためのいただきものだ。そこのところを、立場もご縁も異なる、いま、その場で出会った皆さん方と、共に分かち合うことが出来た。いかなる有り様であっても、またいかなる思いや気持ちがあっても、百重千重のお念仏に護られている身であることが、文句なくうれしいのだ!

 もし、いまここを読まれた方があったら たとえ、遠く離れていいても、たとえ姿が見えなくても、共にお念仏させてもらいませんか。

 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」。

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ひとつらなりのいのち

E3839ee38381e383a3e38397e38381e38_2  「ますいゆうこ展」に合わせて、マチャプチャレで、原水音(みお)さんのトーク&ライブがあった。素敵なピアノは、森田留美さん。また椿姫の独唱も聞かせてもらった。水音さんは、すごいエネルギシュな女性。さまざまな人生の出会いによって、豊かな歩みをされていることが、よくわかるなー。音Img_2926 楽が1に、トークが2の割合の気がしたけれど、2時間タップリ聞かせてもらった。オリジナルの歌詞に、素敵な声、メッセージ性が高く、伝えたいポイントがストレートに伝わって来た。トークは、その強烈な個性が発揮されるので、もうそれだけでも満腹だ。欲を言うと、もう少しやすらぎ度という意味で、歌声を多く聞きたい気もしたがな。お食事といい、充分、満腹させてもらいました。

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広島カウンセリング、壮年の集いの案内

  今週末は、華光の行事ではないが、真宗カウンセリング研究会の主催で、広島での真宗カウンセリングワークショップに参加する。案内がギリギリになったので、参加者が集まるか心配していたが、〆切前にすでに定員に達して、あるところで線引きをしてお断りすることにしたほどだ。
 先日、世話人のM先生と進行の打ち合わせをしたら、先生なりの「真宗カウンセリング」の形式があり、セッションの頭と終わりを構成的な進行を提示された。構成的といっても、約束事みたいのもので、ごく自然に使えそうなので、もしグループが2つに分かれても、ぼくのグルーブでも継承することになった。
 参加メンバーも、華光の関係者が半数だが、残りは広島カウンセリングの僧侶の皆さんと、その他の関係方で、なかなかバランスがいい。地域も、広島の方が半数ほどだが、残りは、福岡、山口、京都、そして関東方面と、顔ぶれは多彩なようだ。広島以外の方は、華光同人の方だ。2泊3日、楽しみだなー。
  http://www.saikyoji.net/2008.7dpa_workshop.pdf

 なお、週末は、12日(土)に京都支部法座、13日(日)に東海支部法座が、それぞれが座談会を主として開かれるようだ。
 
華光会館では、13日(日)に、日曜礼拝がある。久しぶりに悟朗先生が、子供向けのご法話をされる。
 
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/07/nitirai2008-7.htm

 ところで、7月20日(日)、21(祝)壮年の集いは申し込まれましたか。30代前半から60代後半ぐらいの方が対象。いちばん、生活も、仕事も厳しい壮年世代の方も、しっかり聞法していただこうと企画されたものだ。〆切が迫っているが、ぜひ、お申し込みください。宿泊や食事が必要なくても、4グループに分級座談を固定して分けるので、連絡いただけると幸いです。
 http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/07/sounen2008-8.htm

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『スウェーディッシュ・ラブ・ストリーー』『散歩する惑星』そして『愛おしい隣人』~ロイ・アンダーソンの世界

 初めてスウェーデンの巨匠(?)、ロイ・アンダーソンの映画を観た。しかも3日間で3本。

  なんとも独特の世界観の持ち主、自分を曲げず、商業的、興行的な評価に媚びない姿勢は立派だ。だけど、この人との波長が会わない人は、退屈な映画だろう。ゆったりした時間が流れる。小さなエピソードが次々と現れて来るだけで、起承転結のストーリーなどはない。ぼくも、3本とも、一時意識をなくし、「ハッ」と目が覚めた。それでも、悪い気はしない。不思議な感覚がする。コメディーといっても、ドタバタでも、会話で笑わせるのでもない。とてもユル~イ。どこにでもある光景が小さくつながり、どこか1本ネジが抜けているシーンが続出する。ちょっとほろ苦く、悲しく、そしておかしく、人間味が溢れている。相手がちょっと変わった人であっても、その人を観るまなざしが暖かいのである。

Swedish  まずは、北欧版『小さな恋のメロディー』といわれる、『スウェーディシュ・ラブ・ストーリー』 。15歳の少年と、14歳の少女の初々しく、幼く、危なっかしい恋を綴る。印象的なテーマ音楽が効果的に使われ、二人の間に、会話は少ない。身体的な表現と、映像と音楽が、変わって伝える。接近しそうでうまく表現できず、ぶつかるように近づき、また不器用に離れたりと、頭で理屈や言葉を考えたりはしない。観る方も、情感でこの雰囲気を味わっていけばいいのだろう。少年は、けっして男前ではないけれど、ナィーブな揺れる表情が、ある種かわいい。一方の少女は、金髪に、すらっと伸びた足、大人ぽくい表情と、幼さなさが同居する日本人の北欧の美少女のイメージの典型的だ。
 でも、これだけなら、単にきれい、きれいな青春恋愛ものなんだけれども、どうも周りの家族や大人たちが、ちょっとヘンなところがいい。家族ぐるみの付き合いになり、両家でパーティーが開かれるが、この顛末はなんとも奇妙で、なんか?だった。
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 次は構想20年、撮影4年という『散歩する惑星』。 
Sanpo  不条理なへんな出来事が、次々と起こる。大量解雇で、無遅刻、無欠席が自慢の男が解雇される。上司の足にしがみつくも、ズルズルと引きづらていく。道に迷い、知らぬ人々に殴られる。商売がうまくいかず放火するが、なかなかその後がうまくいかない。切断マジックで腹を斬られる男と、とんまなマジシャン。とぼとぼと荷造りをして逃げていく。かなり悲劇な出来事が起こる。とてもユルーイのに、けっこう毒が混じっている。たとえば、妙な会議にしてもそうだ。水晶占いで決めて、隣のビルが動きだしたと、みんなパニックになって逃げだす。ミレニアムなので、十字架を商売にしようとする。商談会もへん。不良品のキリスト像が、片方だけ釘がつれて、ブラブラ揺れている。面白いが、「いいのか、こんなことして」と思っていたら、最後は売れ残った十字架が、乱暴に廃棄され、車で踏みつける。神を冒涜すると、バッシングされんのかとドキドキしちゃった。そして、空港に殺到する人達。どこに行くのか、何百もの人が、ものすごい荷物をもって、脱出するのである。徹底して同じようなものが並ぶセットと、人海戦術。一切、CGなしだそうで、何百人という人を妙なしぐさをしている。それをワンカメラ、ワンカットで撮っているが、カメラが寄らないから、遥か向こうの人達は、マメ粒みたいなものだ。それでも、手抜きはなし。
 チラシに、ローテク巨編とあった。「ローテクってなーに?」と思っていたら、反対語なら、みんな知っている、「ハイテク」である。なーるほどね。Highならぬ、Lowですか。
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  そして、最新作の『愛おしい隣人』。(英語題は、You, The Living)
Rinjin   『散歩する惑星』のおなじ匂いのする映画だけれども、どこかより温かさを感じた。
  人間の営みが続く以上、その数だけ物語は生まれる。しかもその多くが、どうしようもない悲劇なのである。みんな、ほんとうにツイていない。みんな、「誰もわたしを理解してくれない」と歎いている。でも、そんな悲劇も、端から他人が見ると、まるで喜劇なのだ。そのユーモアを交えた語り口は、どこか人間味溢れ暖かい。やはり、 散文詩のように、小さなへんなエピソードが散りばめられていく。名もなき小市民たちは、みんなほんとうの素人俳優。彼らが織りなす、悲喜こもごもな日常が、ユーモアを交え、ゆる~く、ゆる~く切り取っていく。

 それにしても、こちらもいろいろな人達が出でくる。アパートの一室。寝ていた男が、空爆を受けた悪夢でソファー.から落ちる。公園のカップルは、女がヒスを起こし別れ話の最中。小学校の教師とカーペット店販売員は夫婦喧嘩。精神科医は、患者の愚痴を聞かされることに我慢出来なくなるが、彼の独白も面白い。夫婦のセックスの最中、投資で財産を失ったことを歎くく男。その上にはデブの妻がただ喘ぎまくる。犬を裏返しにして、引っ張っていく男。見知らぬ家のパーティで、貴重な食器を乗せたテーブルクロスの引き抜きを大失敗すると、なんとテーブルには、鉤十字の紋章があられる。彼は電気椅子で死刑になる夢をみ男。夢か、現実か、覚醒と夢との境界などないかのような光景が続く。

 ロックシンガーに憧れる女が、夢の中で、彼と結婚式をあげる。新居が列車になって、駅につく。窓辺に見知らぬ人達が現れて、花嫁に歓声をあげ、「おめでとう、おめでとう」と、口々に見知らぬ人達の祝福を受ける(チラシのシーンね)。別に泣けるところじゃないの、なせかこのシーンで、その温かさに胸がジーンとなった。(ぼくもみんなに祝福されてるんだものなー)、しかし、これも夢なのである。みんな寂しそうなバー。今夜も、ラスト・オーダーが近づく。バーImg_2924テンがベルを鳴らしながら叫び、「ラスト・オーダー。でも、明日があるよさ」と。その店に彼女も立っていた。

 パンフレットもなかなかおしゃれだった。タイトルの小窓をあけると、女が「Aaaaaaa」と叫んでおります。

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『ぐるりのこと。』

  『ぐるりのこと。』 
Gururinokoto_01_2   これは、よかった。
 舞台は、ほんの少し前の日本。1993年に時計の針がもどり、それからの10年間の日本の世相、重大事件と重なりあいながら、進行していく。つまりバブル崩壊から9、11までの10年ということになる。世代といい、結婚生活といい、子供の流産といい、芸大生の設定といい、かなりわが身と重複する話題ばかりだった。ただし、夫と妻の立場(性格)だけは、まったく役割が反対だけれもどなー。
 それに、絶対に、遠く離れた事件であっても、またその大小があっても、世相の影響を受けることなく、生きていくことなど不可能だ。ぼくの言動にも、この10年の出来事が、間違いなく影響している。
  

 美大卒の夫(リリー・フランキー)は、バイトのようなクツ修理をしながら、おねえちゃんをみれば声をかける呑気な日暮らしを送る。一方、同級生だった妻(木村多江)は、周囲の不安の声をよそに彼と結婚し、出版社に勤める、しっかり者。なにごとも几帳面な彼女は、約束事で彼を縛っていく。門限、予定表に乗っ取った夜の生活(週3回で「やる日」が決めさている)の、対称的な二人のやりとりが、軽妙で笑いを誘う。あやしげな雰囲気の不動産屋の兄夫婦(寺島進)たちの絡みも、楽しく、ユーモラスなタッチで映画は進んでいく。なにかがかけているけれど、誰もがどこかで幸せな雰囲気を感じさせるのだ。

 その彼が、テレビ局の法廷画家の仕事を得、90年代のさまざまな理解し難い凶悪犯罪と並行して、子供の流産(これも状況説明でなく、幸せそうにおなかを撫ぜるシーンのあと、嬰児の位牌が映る。つまり押しつけがましくなく、絵でみせていく。ここがいい)から、幸せな雰囲気やコメディタッチが一転していく。職場でも、家庭でも、つながりが感じられない妻が、心の病気、気分障がい、うつ病に悩まされていくのだ。
 しかし、彼女を救うのは、周りの家族や人間関係の確かさだった。頼りなげな夫が、絶望せずに、しっかりと支えている。そのアプローチは、一見弱く、何もないかのようだが、けっして彼女の感情に過度に巻き込まれることなく、それでいて、彼女と離れすぎない距離で、待っているのだ。この待つ男がすごい。彼の飄々とした雰囲気は、実際にはかなり出来すぎである感もするが、リリー・フランキーの自然体の雰囲気にぴったりハマっている。

 もうひとつ、法廷画家という眼を通して、世相を観ることの視点も面白かった。司法関係者でもないし、報道関係者といっても、コメントや批評をする立場でもない。事件の当事者、加害者の姿を、似顔絵を通して伝えるという役割である。もちろん、なにがしかの個人的な感情が交わるのが人間であるが、それでもなるべくありのままに伝えようとする仕事なのであるから、ともすればマスコミの妙な正義感や、被害者側の大きなお世話の代弁者になるのでもなく、過ちや犯人を糾弾する姿勢でない視点から描かれたことが、映画の幅を広げているように思えた。それに、法廷画家や報道に関わる役者さんが、みな個性派ばかりで、なかなかよかった。

 それにしても、いろいろ事件があったものだ。官官の汚職事件や交通事故裁判などに混じって、幼女連続殺害事件、阪神大震災を挟んで、オウム事件、池田小事件、そして和歌山の毒カレー事件(これは出でこない。「和歌山で仕事ある」の一言)、そして音羽幼女殺人事件(これはすぐに思い出せなかったが、文京区で同級生の子供を殺し、わが子の手を引きなながら死体入れのパックで運んで例の事件)。それらをモデルにした、まったく不可解で、理解不能な被害者の言動が、リアルに再現されている。そうだったよなー。そして、宮崎勉や宅間守は、ごく最近、死刑になり、この世にはいないのだ。

 法廷画家の観察者的な立ち位置。そして、夫であるカオルの立ち位置。つまり、相手の激しい感情や態度に巻き込まれることなく、そこにいる態度こそ、これからの激動の時代や空気の中で求めれる態度なのかもしれない。ちょうど、「同情」と「共感」との違い。または、「あたかも○○のように」感じるのだけども、あくまでas ifなのあって、そのものではないという、カウンセラー的な態度に似ているなーと思った。ぼくたちは、すぐに自分の未消化な問題を投影したり、相手の感情に巻き込まれて、知らぬ間に自分を見失っていくのだ。でも、カウンセラーは他人だからね。家族になると、ここがいちばん難しいところです。

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愚痴

  今夜は、「それゃ、ちょっと勝手すぎんかー」という、小さなストレスが2件続いて、かなりカッカしたー。それゃ、本人にしたら、その方が都合がよいだろう。けれど、事前の約束は約束で、いわば契約してのだから、自分の都合だけを通されたら、ちょっと虫よすぎませんかとなる。いくら日本語が上手くても、やはり相手はアーリア民族。民族性の違いもあるのかなー。
 もうひとつは、精神的にちょっと混乱されているのだろうから、なんとなく分かる気もせんでもない話だが、ぼくとしては、これも腑に落ちん、かなり彼女のひとり相撲のお話。

 いやいや、具体的に書かないと、まったく伝わらん話だけれども、馬鹿らしくて書く気にもなれん。それに、どこかで、こんなことでカッカくる自分を、自分で責める気持ちになるから、これもかなわんなー。
 といわうけで、同じ気持ちだった連れ合いからも、的確なアドバイスもらい、ちょっと熟慮の結果、「今夜は伝えない」という選択を、自分がした。それで、今夜はここまでにして、すべて流してしまいましょう。
 ぼくの性分は、いつまでも引きずるグズグズ性。他を非難し、同時にその自分を責めるパターンは、精神衛生上よくないどころか、まったく建設的じゃない。分かっているのに、直らないのだ。
 直らないなら、せめて、せっかくの自分で選んだことは、尊重することにした。

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一円引きか、五円加算か?

  このところ、靴を脱ぐ法座会場は要注意だ。靴下に穴が空いている確立が高いのだ。銭湯の二階の法座会場に向かう、学生時代のT先生のクツ下に穴が空いていたおかげで、華光会館が建設されるきっかけになるKさんご夫妻とのご縁が深まったのは、華光では有名なエピソード。でも、さすがに時代は違う。ものは大切にするのだが、さすがにちょっと、哀れやねということで、たまらず近所のディスカウント店で、靴下を購入した。
 で、このJ店は、「レジ袋がいりません」と言えば、1円値引きしてもらえる。

 駅を挟んでお隣の量販店の酒屋がセールをしていたので、1ケース(24本)買っても、2,360円(つまり1本100円より安い)第三種ビールを購入した。
 こちらは、「袋入りません」と言わないと、一枚、五円で買わされる(ポンイトから引かれる)仕組みだ。前からの導入されているシステムだけれども、前に並んでいて数名は、平気でレジ袋に詰めてもらっているので、驚いた。バックをもっている、ぼくの方が少数派なのはちょっと悲しい。

 さて、一円引きと、五円支払いどちらが効果があるのでしょうか。
 もちろん5円の方が大きいから、後者だろう。
 では、もし金額が同じで、5円引きと、5円を支払うのでは、心理的な効果に違いはあるのだろかー。5円ぐらいならあんまり効果がないかもしれないが、ぼくは、余計に5円かかる方に、反応するけどなー。第一、この方が、店側のサイフも痛まなくすむ。要は、褒美か、罰金かの違い。
 さて皆さんなら、どうですか?

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仏恩

  広島駅に集合して、ジャンボータクシーやミニバンなど3台に分乗して、安芸Img_2917高田市のY家へ。旧高宮町です。25、6名Img_2919 ほどのお参り。中国縦貫道にはいり、どんどん山の中を走って、 70、80分の、山あり、河ありの自然豊かな場所。ほとんどが田んぼばかりの米どころですね。農家が多く、どの家も大きく立派。特に、赤系統の屋根瓦が目立っていたので、そのいわれを尋ねてみると、雪も多いところで、石州瓦(岩見地方の釉薬をほどこした瓦)だそうです。そういえば、島根県の県境に近いようです。
Img_2911  暑い一日だったけれど、クーラーがなくても、川面から流れる風がとてもさわやかでした。Img_2910_3

 ただし、今年は、1、2日の違いで、はちすの花 は、まだひとつが咲きだしたところ。まもなくですね。昨年は、見事に咲いていました。http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_4606.html 

 ご法話は、まったく初めての方おられたので、皆さんにお尋ねしながら、基本的なところから。一般の神仏の信仰と、浄土真宗の信心の違い、特色はなにかを、なるべく普通の言葉で話してもらいました。分かっているようで、初めての方にお伝えするのは、なかなか難しいですね。「悪人正機」「他力回向」「後生の一大事」なんて言葉がボンボン出るけれど、それでは相手はチンプンカンブン。それで、他力回向という仏様(如来様)からのプレゼントを、お仏壇のお荘厳を使ってお話したり、奪う幸せは末とおらず、与えていただく幸せ、つまりいたいだご恩を思うことだけが、ほんとうの幸せ。その大本は、大悲の願心から起こってくることを、なるべく平易にお伝えしました。そして、三角の「私・ご恩・仏さま」の内省の世界(MANU.さんのブログ参照。http://blog.goo.ne.jp/buddist18/e/b3d553da43a65f7dd44310b8bfc7593a)を使って、四恩や如来のご恩徳について聞いていただきましたい。

 父母のご恩、食べものや着るもの、自然の恵みなど、あらゆる衆生のおかげて、いま、ここの、わたしがあるわけです。いわば、執着をする「わたし」なんて実体はなくて、すべて100%がご恩の塊、他のいのちをいただいて出来上がっていると言い切っていいわけです。不思議といえば、こんな不思議はない。どんな有り様をしていようと-どれだけ社会にすね、まだどんな極重悪人であってもです-ご恩の塊でない人はなく、またこの先も、一瞬も、自分ひとりで生きていける人もいないわけです。
 でも、そこだけを喜んでいるのなら、ご縁やご恩を喜んでいるすぎない。その底に仏様のいのちをいただいてることが抜けている。上ばかりみて、自分にうぬぼれきったり、卑下して歎いていても(同じ慢やね)、実は、そんなわたしにかけられたいのちがあり、それを踏みつけている足元をあげて観ることはないわけです。迷いを離れる、ほんとうに目が覚めることがなけれど、せっかくのご恩の意味もわからないわけです。その意味では、浄土真宗のご恩徳は、仏様(如来様)のご恩徳
と、その教えを導いてくださる先生のご恩徳に集約されるわけです。
 実は、座談会での質疑を通じて味わったこと、話すうちにハッキリしてきたこともあるけれど、今夜は、このあたりで。

Img_2922  そうそう、お庭で作られた見事な野菜をいただきました。土つきで、きゅうりも、そこらに売っているにツルツルしてなくて、トゲドゲしていて痛いけれど、とてもおいしそうです。
 まあ、あいかわらず、うまそうとか、まずそうとかの、善し悪しでしか、いのちを奪っていくしかないんですね。
 仏法聞いてるといっても、なーんも変わらんお粗末な身です。
 おいしそうです。

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暑い一日、ネパールのカレーを食べる

 今日は、暑かったね 入道雲も立ち上がり、急に真夏になった。汗かきながら、家族で自転車を走らせ、保育園の七夕音楽会へ。

Img_2847  毎年のことながら、わが子の成長ぶりにビックリ。ゼロ歳児から始まり、一歳児、二歳児、三歳児と進み、四歳児の年中のわが子たちの歌声。しっかり、元気よく三曲Img_2854_2 を披露。今年は、浴衣姿で登場しましたが、年々、目に見えて、その姿勢や態度がしっかりしてきます。体も、心も、知能も、いちばん、成長や変化が著しい年齢ですね。絵にしても、文字にしても、歌にしても、ビックリさせられることばかりです。

 終わってから、連れ合いの絵を展示中の、京阪七条近くのマチャプチャレという自然食カフェへ。20点近く飾ってあったけれど、お店の雰囲気とピッタリ。近々、この絵とのコラボレーションで、音楽ライブもありますから、お店の様子はまた報告しましょう。

 ここのママは、ボランティ活動で、毎年ネパールの支援をしている人で、ネパール人がImg_2869_2 料理を作られます。今度、インド・ネパールに旅することを告げると、カトマンズでも日本食のお店を支援されているらしく紹介されました。へえー。そうですか。桃太郎といImg_2855う名前ですか。カトマンズの中心街にある、けっこう有名なお店らしくて、ぜひ、お邪魔したいですね。
   ここはエコなお店なので、冷房はなし。でも、打ち水をして、自然の風をいれた店内で、ダルバートというネパールのカレーセット(ダル(daal=豆スープ)とバート(bhaat=米飯)の合成語で、カレー味の野菜などのおかず(タルカリ)、漬物(アツァール)の2つを加えた4つがセットになった食事だそうな)と、チャイ(これもすごくおいしい!)をいただいて、英気を養いました。

 その後、切符を取りに行ったり、教案の用意をしたり、そして、カウンセリング(こちらが気付くことあったな)があったりと、暑い一日は慌ただしく過ぎていきました。 

 明日は、広島支部法座ですが、いつもの広島市内と違って、安芸高田市まで遠出なので、2時間以上早めの出発になりますね。よろしく。

 華光会館は、1時30分から「聖典講座」です。

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『休暇』『接吻』そして『山桜』

  6月は、宿泊法座や華光誌で忙しかったが、合間をつくり映画館にもまめに通った。月の半分近くは出張という日程で、16本観た。2日の1本のハイペース。自分でも、ちょっと呆れて、ちょっとすごいなーと感心。そのうち、日本映画は3本。なぜか、すべて2文字のタイトル。

  一番、面白く、余韻が残ったのが、小林薫と大塚寧々主演の『休暇』。脚本、ロケーションも含めて、なかなか丁寧な良心的な作品だった。しかも、朝日新聞の「死に神」の記事に法務大臣が不快感を表明しているが、(偶然だが)おかげでタイムリーな映画となった。Von_dutch080img600x4301209655103k_2

 死刑執行の文書が署名捺印され、関係者の間を上がっていく。最後に法務大臣が捺印するところから、映画がスタートする。全国で七カ所の拘置所に、100名以上の死刑囚が収監されているが、いくら法務大臣が「死に神」でも、そうそう日常的に死刑が執行されるわけではない。日本の場合、死刑執行の様子は非公開で、正式には明らかにされていないが、死刑執行に携わる専門の執行人は存在せず、一般の刑務官の手当てや休暇がつく業務としてある。非日常の業務で、しかも法の刑罰とはいえ殺人に直接加担する仕事に関わるのだ。憂鬱な気分はぬぐえない。
 映画は、吉村昭の小説を許に、死刑囚(西島秀俊)-彼も凶悪犯にまったく見えず、生きる希望もなく、ただ規則正しく生きている、生のリアリティーにかけた模範囚で、逆の意味で存在感がある-が、絞首刑の時に暴れて苦しまないように、彼を抱き支える仕事を、新婚旅行の休暇欲しさに志願した男(小林薫)。寡黙で、平凡なこの男の葛藤と、子連れの女(大塚寧々)との新しい家族を築く過程をシンクロさせた佳作だ。
 死に向かう死刑囚と、愛する女、そしてわが子を「抱きしめる」という行為が重なる。他のいのちの犠牲の上に、平凡なのどかな幸せがあることの意味が、ぼんやりと浮かび上
がって来る。ラストの静けさも奥が深い。
 余談だけど、見合い相手が、シングルマザーとはいえ大塚寧々なんでしょう。男なら、休暇のために頑張っちゃうんじゃないかなー。
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Sep  『接吻』も、また、秋葉原の通り魔事件が起きた今、タイムリーな映画だ。これも偶然だが、いずれも水面下ではその萌芽はあるということだ。

 偶然、戸締りのなかった見ず知らずの家に乱入し、小学生の子供を含む、3名をハンマーで撲殺する男(豊川悦司)。しかも、その言動は不気味で不可解。自ら犯人と名乗り、逮捕の瞬間をTVで生中継させるのに、インタビューには一切、黙秘を貫く。取り調べも、弁護士にも、そして裁判でも、完全黙秘を続け、ただ薄ら笑いだけを浮かべていく。テレビの、その薄笑いを浮かべた笑顔に共鳴し、一目惚れするOL(小池栄子)。共に家族愛に恵まれず、社会や世間から、ただ都合よく扱われ、存在を無視され続けている屈折した心理を抱いている二人。両者が引きつけられ、社会に復讐のために共感しあう。その男の心理をなんとし理解しようとする国選弁護人(仲村トオル)。ただ男の理解が進むことは、女性の一途さにも共感することになり、奇妙な三角関係に発展していく。でも、弁護士が、なぜこの心理にこれほどまで巻き込まれていくのかは、いささか説得力に欠けていた。 
 第一、トヨエツ、小池栄子、仲村トオルと、こんなカッコいい人ばかり登場させて、「世間から相手にされない」「いないも同然」の透明な存在というのには、リアリティーに欠ける感はある。現代の「人間見た目が9割」の日本社会で、皆さん、カッコよく存在感がありすぎるのだ。それと、「あなた○○なのは分かっているんですか!」「×バツなのが△△ですか!」という、弁護士の語尾のヘン強調されるセリフも鼻についた。
 それでも、社会派の心理ドラマとしは、悪くはない。それに、人間の屈折した感情、そして恋愛を描くものほど面白くもある。ラストもある程度は予想できたのに、唯一「接吻」という意味は想定外。まだまだ、ぼくも青いなー。「なるほど、そうきますか」という終焉を迎える
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Von_dutch080img600x4271211124777ttw  上記の2本に比べると、『山桜』は、いたって正攻法の美しい映像の映画。藤沢周平原作の映画化。『蝉しぐれ』『たそがれ清兵衛』『隠し剣 鬼の爪』『武士の一分』と並べただけでも、雰囲気はわかる。
 勧善懲悪に、プラトニックな愛がうらむ、保守的な時代劇。
 北国の小藩の山川は美しい。悪は、大商人、大地主に結託し、農民を虐待し、ワイロを取り、国、民を疲弊させて私腹を肥やす。善は、清く、正しく、貧しく、美しい。好きな人を遠くから見守り続ける恋。人にお勧めしずらいマニアックなアート系の映画ばかり観ているが、これなら、母世代の人にも安心して勧められる。滅多に映画などいかない二人だが、近所の劇場へ喜んで出かけた。「サクラがきれいだったね。まだ続きがあると思ったわー。地味な、静かな映画だね」と言うのが、母の感想。「チャンパラのところだけ、ハッとした」は、父の弁。客層も60歳以上の方が多かった。
 
『休暇』とも、『接吻』とも違うが、これもまた愛の形である。●●●

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『靖国』

  蒸し暑い1日。朝一番で、『靖国』を見る。
Img_2520  上映を巡る騷動が社会現象になったおかげで、こんな映画には無縁の方まで、劇場に押しかけて、たいへんな宣伝効果だ。通常、この手の映画は、京都ではよくて2週間、下手すら1日1回、1週間で終わっている。
 今回は、長期上映が予想できたので、まずはほかの映画を優先し、公開から1ケ月ほどたっていた。それでも、まだ満席に近く、年配の方が多かった。でもね。はっきりいってマナーがお悪い。というより、慣れてられないのかもしれないなー。上映前の「観衆へのお願い」を、ひとつひとつ声を出し、「禁煙にご協力を、当たり前やんか」などと、ブツブツ言っている、斜め後ろの夫婦連れ。いやな予感。やはり半分をすぎたあたりから、映像が変わるたびに、常にしゃべっている。横の人は、「暑い、暑い。冷房ないなんて信じられん」と、スタッフに詰め寄っていく。「申し訳ありませんでした」。「何が申し訳ないねん」と、ケンカ腰だ。真後ろのおじいさんは、コツコツと貧乏ゆすりで、ぼくの座席を蹴っていたが、終わるとなり大声で一言。「ああ、長かかった」。
 別に、鑑賞中は、そんなに気にならずに観られたけれど、若者や子供の公共マナー云々が取り沙汰されるけれど、案外、お互いさまじゃないのかなとも思うね。そして、これも「老」の姿なんでしょう。明日のわが身の姿を見る思いがして、ちょっと寒け。

 で、肝心の映画はというと、想像以上に面白かった。

 8月15日の靖国神社の様子と、靖国刀の刀匠。撮影時点での関係はすごぶる良好で、何がしかの無言の圧力があったのだろう。終わりの方に、ナレーション無しで流れる、昔のニュース映像やモノクロ写真は、長くて退屈した。

 天皇のため、日本国のための聖戦でなくなった軍人を英霊とし、その250万体近い魂が移された一振りの「刀」が、ご神体だという。そうなのか。靖国神社は、刀がご神体とは、勉強不足でした。 

 8月15日の異様で奇妙な光景。ワンダーランドやね。
 軍服マニア、右翼系の人達の、ここはアキバじゃないのかというほど、次々と軍服のコスプレを誇示する集団が、思い思いのパフーォマンスを行なっていく。かっこいいものには、拍手も起こる。百人斬りの報道を虚偽だとする署名活動の様子も収められる。一般の人達の素朴な肯定的な声も、自然に拾われていく。ここでは支持派の声ばかりだ。小泉支持と星条旗をもったアメリカ人がトラブルをおこす。石原都知事や、小泉元総理も登場する。
 反対派の人達の抗議行動の様子も収められている。念仏者九条の会でお見かけした、本派の僧侶の方が、重要な役割で登場されている。心情的にも、冷静に抗議される姿勢や態度に、いちばん共感できるかもしれない。

 ただ、この内容であれだけ騒がれたのかが理解しがたかった。でも、そこが、靖国問題の靖国問題たるゆえんなのかもしれない。
 小泉さんの記者会見で、中国や韓国、そして国内の参拝反対に、こころの問題で、平和を祈願するのを反対する勢力があることを、「理解できない」を連発されていた。そう、支持派は、反対派を理解不能の非国民、売国奴としか、感情的に拒絶することしかできないのである。靖国神社での追悼集会の最中あらわれた、靖国反対派の青年を、同じ言葉で追い詰め、罵り続けるシーンに、その感情的な態度が露になってきて、面白かった。同時に、血を流しながらも青年がみせる、青臭い反権力の態度までも芝居じみて、滑稽に映ってきた。
 そして、上映中止を決めた劇場があったことも、日本人のことなかれ主義をあらわしている。映画の中、米国人と、反対派が、2度ばかりトラブルを起こし、警察の登場となる。どちらが法的に正しいかではなく、「今日は厄介はゴメンだ」という理屈で、排除されていった。とにかく自己主張より、まわりの空気を読んでことなかれ主義に徹するのである。

 ともかく、敗戦を、終戦としか受け止められなかった日本人の屈折した心理、未熟さが、もろにあらわれる、すべての日本人が避けては通れない場所なのである。

 ここにエントリーした参考図書のご紹介です。→http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_3544.html

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自己肯定感と自己内省

 今夜の伝道研究会も、羽栗行道先生の『心身の革命』の輪読。罪悪観の見つめ方を具体的にご指南くださる。今日、華光でのお勧めする罪悪観の基本になっているといってもいい。 

 今日の社会では、建前では、「唯一無二の、かけがえのないあなたです」と言われても、実際の社会生活では、没個性、簡単に誰でも役割が交代できる機械のネジのような存在でしかない。核家族、少子化の中で、一身に両親の過剰な愛情を受けながらも、健全な自己肯定感が育ちづらいのが現状だ。極端な全能感か、または自己の存在を低く見積もり、卑下し、自信が持てず生きいくことに喘いでいる若者も多いのだ。

 その意味では、聞法の緒である、罪悪観や無常観を深める以前に、心理面で、自己肯定感を否定されるように思えたり、または、自己を卑下し、自虐的な反省しかできない人もあるのだ。その点では、お勧めの側にも慎重な配慮が必要なケースもあろう。

 しかし、仏様の真実の御眼からご覧になれば、迷いはあくまでも迷いなのであって、そこを離れることのない限り、苦しみから逃れらることは絶対にないのである。その意味では、迷いの存在は徹底的に破られるものなのであって、微塵も拾うものはない。
 0点は0点なのである。
 落ちるものは、落ちていくのである。 
 悲しいかな、「さるべき業縁催さばいかなるふるまいも」すべき身であることをお聞かせに預かるしかないのである。

 ところが、真宗の教界自体も、「羹(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く」の故事ではないが、差別問題を過度(もちろん、誤った理解は正しく反省する必要はあるが)に反応するあまり、すべての宿業を封印しているといっていい。もちろん、三世因果も否定的だ(地獄なんて言葉は厳重封印だなー)。流行りは、縁起思想と、空の流れ一色で、さまざまなご因縁に生かされることを喜び、死んだらみな仏、成仏(←千の風に吹かれて、これすら薄まっているな)なのだから、ただただ如来の広大な慈悲にすがるよう説かれているのである。

 一見、暖かい、肯定的なメッセージのように見えるが、そこにあるのは、表面の道徳的な反省はあっても、一方的にお慈悲や往生などの救いの面のみが強調されているのみで、それではお救いも絵に描いた餅にすぎないのではないか。

 実は、自己の宿業観なくして、如来の大悲観もない。いわば地獄一定(いちじょう)と往生一定の関係と同じく、切ってもきり離さない一具なのである。単なる反省でも、卑下でも、心理的な否定でもない。法の鏡の前に立ち、自己を内省させていただく。私こそが「逆謗の死骸」なのだとお聞かせに預かる。否定的といえば、これほど絶対的な否定はない。でも、同時にこんな有り難い言葉もないわね。

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華光誌67巻3号の発送

 華光誌、67巻3号の発送しました。

 常連の京都のオバチャン2名に、若手男の子3人、それにムラ君と、ぼくとで作業。始まる前に不測の事態が発生して、プチたいへんでしたが、その割には、人数もあったので早めに完了。無事、発送できました。2~4日ぐらいかかると思いますが、今週に届かない方は、華光会まで、ご一報ください。
 今号は、①8月の仏の子供大会の案内(8月1日(金)~4日(月)、②9月の聞法旅行の案内(9月13日(土)~15日(祝)、そして③来年2月のインド仏跡案内の3つが同封されています。人によっては、「壮年の集い」のお誘いがあったりもしますので、お確かめください。

 発送がすむと、ホッとします。一仕事修了しました。特に、6月は、出張法座が続いて、その合間の作業だったので、余計に達成感あります。今月も、1日からかなりの波瀾含みでスタート。この後も、2泊3日で広島での真宗カウンセリングWSや「壮年の集い」などの宿泊行事が続いて、その合間に、仏の子供大会の準備がやってきます。なかなか、出版の方の作業に入れないのが悩みですがね。でも、ボチボチうまく付き合いましょう。

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