共感、感情移入(empathy)
広島の真宗カウンセリングWSの翌日、真カ研の月例会があった。ロジャーズ論文の輪読だが、1年ぶりに担当が回ってきた。大急ぎで、レジュメを作って出かけのに、参加者は世話人4名だけ。でもその分、ざっくばらん、それでいて充実した話し合いとなり、実りも多かった。特に、M先生とは、広島から4日続けてのご縁だったので、その時の経験も分かち合いながら、またお聞かせいただいた。
ロジャーズは、自己一致につづいて、成長促進的関係にとっての基本条件の第2番目として、「共感、感情移入(empathy)」をあげている。すなわち、
※「カウンセラーは、クライエントの私的な世界の正確な感情移入的理解を経験し、その理解したもののうち、いくつかの意味ある点を伝えることができる」
「クライエントの内的世界の私的な個人的意味を、あなた自身のもののように感じながら、決して”~のような”という性質を失わないこと」
それは、クライエントの混乱、はにかみ、怒り、不当感という気持ちを、あたかもあなた自身自身のように感じるのであるが、あなた自身の同様な感情と結びつけないのである。
つまり、いわゆる「同情、同感(Sympathy)」ではないのである。
でも、ここがなかなか難しい。感情移入というと、映画やドラマ、悲劇的事件などを見て、同じように涙を流すことは、日常生活で誰もが経験している。でも、ここでは、相手と同じように感じながらも、あくまで、「あたかも~ような」という線を超えないことだというのである。つまりは、相手の感情に巻き込まれて、自分の感情と混同しないのだ。
でも、時には、知らず知らずに、相談者と同じように憤ったり、混乱し困り果てたりするようなケースもある。または、しっかりした契約、場面構成が出来ていない日常場面では、正義の代理人となって、相手に代わって不当な問題解決に乗り出してしまうケースもあろう。しかし、それでは、たとえ目先の問題は解決したとしても、常に依存関係が生まれたり、成長を促進するという意味では、まったく援助的とは言い難いのだ。
※『クライエントの世界が、カウンセラーに明確になった時、
彼がクライエントの世界の中で、自由に振る舞えた時
カウンセラーは、クライエントにとって漠然としか気付いていないことや
ほとんど気付いていない経験の意味など
理解したことを伝えることができる。
非常なに敏感な共感こそ、人の成長を可能にするために重要だ。』
ここでは、単なる日常生活での感情移入ではなく、感情移入的理解とか共感的理解といっている。その理解によって、立ちあがってきたクライエントの内的世界を、カウンセラー側が伝えることも出来るというのである。その態度こそが、人の成長を可能にするのである。
そして、もう一つ、ぼくが気付いたことは、単に「感情」とか「気持ち」の理解という表現ではなく、「内的世界」とか「私的世界」という表現を使っていることだ。世界にひとつしかない貴重な彼自身の内的世界に、飛び込み、お邪魔して自由に振る舞ってこそ、共感的理解だというのである。とは言っても、こう示されてくるとかなり難易度が高い気がしてきた。
※『しかし、この理解は極めて稀。普通は、外部からの評価的理解がほとんである。
「もしも、私が他の人が人生を経験する仕方に、ほんとうに心を開いているならば、-もし、彼の世界を自分の中に取り入れることができるならば-他の人のやり方で人生をみつめ、自分が変えられてしうまという冒険をおこすことになるだろう。」
すべて、変化することに抵抗を感じ、
他の人の世界を、彼の立場からではなく、自分の立場から見る傾向にある。
他の人の世界を、分析し評価するが、理解しない。
しかし、私がどのように感じ、どのように見えているかを理解するならば、
そのような雰囲気の中で開花し、成長することができるだろう。
そのような感情もつと、孤独ではないと確信できるだろう。
カウンセラーが、共感的過程の中で、彼自身の同一性を失うことなく、
クライエントが見たり感じたままに、その内的世界で起こる経験過程を把握することができる時、変化が起こり易いと、ロジーャズは確信している。』
共感的理解の難しさのひとつは、自己を失うのではないか、相手に同化するのではないかと恐怖である。ここでは、いろいろと興味深い話題も出たが、いまはパス。ただ、世間一般の私達の理解は、自己や世間の価値観で、相手を外側から評価したり、分析したりする評価的理解ばかりであることは確かだ。その立場から、アドバイスや指示を出せば、相手が変わると信じているのであるが、そうではないということだ。
※『正確な理解は重要だが、理解しようとする意図を伝えることも援助的だ。
混乱し、訳が分からず、奇妙な人の治療でも、
私が、彼の言おうとすることを理解しようとすることを、彼が知覚するならば、援助的となる。
私が、彼を一個の人間としての価値を認めたことを伝えることになる。
私が、彼の気持や話を、理解する値打ちのあるものだと考えているという
事実を伝えるのである。』
※『完全な一致を達成することができないのと同様、完全な共感を達成できなる人はない。しかし、個人が、このような線に添って発達することは、疑いようがない。
感受性訓練などので、人が今までよりも敏感に、他人の言葉を聞くことが出来るようになる。
それは、言葉、動作、態度の中に現れる微妙な意味を受けとめ安くする。
それは、表現された意味を、今までよりも深く自由に共鳴できるようにするものだ。』
ここまで読んで、なんかみんなホッとさせられた。完全な共感は人間である以上、出来るはずはない。しかし、より相手の内的世界にお邪魔しよう、理解しようとする姿勢や態度が伝わることが、援助的だというのである。それは、相手を一個の価値ある人間として尊重することであり、いかなる話や気持ちであろうとも、聴くに値打ちのあるものだという事実が、伝わっていくというのである。その態度を身につけるために、たゆまぬ努力を惜しまないということなら、ぼくも出来るかもしれない。
ぼく自身も、一個の価値ある人間として尊重され、この世にひとつしかない内的世界を安心して開き、共に味合わせてくださるような方に、出会わせてもらっている。そして、同時に、ぼく自身は何も出来なくても、相手に寄り添い、共に聞かせていただくことを許してくださることもある。ここらは、頭で理解するのではなく、そのような姿勢や態度に、体験的に触れさせてもらう機会こそが重要だろう。
レジュメを元に書いていたら、小難しくダラダラ長くなった。すみませんね。
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コメント
カウンセリングはとても難しそう。。。です。カウンセラーはクライアントの悩みを真剣に聞いて、落ち込まないのだろうかとよく思います。カウンセリングではないのですが、最近職場で互いの意志が上手く伝わっておらず行き違いが一度ならず生じました。ちゃんと伝えたつもりなのに期待外れの回答があったり、指示通りにしたつもりなのに怒りのメールが帰って来たり。「聞く」というのは本当に難しいです。つい、思い込みや早合点が入ってしまいます。
投稿: チャン | 2008年7月19日 (土) 11:11
チャンさん、コメントありがとう。
そうですね。なかなか難しいですが、カウンセリングというと、さらに難しくなりますが、「聴く」ということに焦点を当ててみれば、真宗者にとっても、身近な問題になりますね。
このところ、世間は、コミニケーションがうまくいかずに、イライラ度が増しています。自分の内なる声を聞いたり、相手の声を聞いたりすることは、ますます大切になっています。何もできなくても、まずは聞かせていただく。卑下しないで、そんな謙虚な気持ちで、向き合うことなら、出来る気がします。
余談ですが、返信メール届きましたか? インド、とても楽しみですね。
投稿: かりもん | 2008年7月20日 (日) 00:09