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大悲のおこころ

 広島支部法座。新人はなかったけれど、じっくり法話を聞いていただき、そしてまた皆さんのお味わいを聞きあう、ご縁となりました。法話は、ブログにエントリーした内容を中心にしたもの。

 ひとつは、秋葉原の無差別殺人事件について、ブレーンストーミングの手法を使いながら、1)感じたことや思っていること、2)被害者の家族の立場なら、3)容疑者のケイタイサイトの主な書き込みを読んで、の3つの立場を替えて、話し合ってもらいました。視点が変わる、立ち位置が変わると、考えや感情も変わってくるから、なんとも不思議。そして、個人の中でも、さらにさまざまな人達のなかにも、多様な立場な視点があることが、理屈抜きに体感できるんですね。そんな中で、ぼく自身が、一番感心したことは、容疑者と同世代、もしくと同じ年の仏青の皆さんのお考えや気持ちと、その親世代、または祖父母世代では、かなり隔たりがあったこと。こんなにも世代間の格差が如実に現れると、正直、びっくりしました。たとえば、大人の世代は、ゲームやケイタイ、ネットの影響を指摘する。もしくは、被害者にせよ、加害者にせよ、その親や家族のことに重ねて考えている。そして、容疑者のそこまでの心情、悲しみや孤独などは理解しようとするけれど、悲惨な事件を起こしたことに関しては、まったく理解不能。一方、若い人達は、世間や大人世代への反発した態度に共感の声があがる。当然、ゲームもケイタイの悪影響などは微塵(話題にも)出ない。事件に対しても、容疑心情に共感する声も出来てきました。ただし、共通することは、みなご聴聞されているので、「あるべき業縁ももよおせば、いかなるふるまひもすべ」き身だというところ。それを、わが身にとっていること味わいに、世代がないこともまた驚きでした。 
 まとめとして、四十八願の第一願、第二願のお心をいただき、黄金の牙(タネ本は、六本の牙)のを持った象王の話から、如来様の大悲のおこころについて、短めにご法話をしました。
 http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_a880.html

 もうひとつは、聖徳太子の憲法十七条の十条のご文、「共にただ凡夫のみ」をいただきました。これは、次号の華光誌「聖教のこころ」でも取り上げています。サラッと聞いたら「なるほど」と簡単にわかってしまうけれど、日頃聞いていることと少し異なる気がする。どう位置づけていけばいいのかという、鋭い質問も出ました。確かに、前の部分だけなら、「怒りを収めろ」という風に読めますからね。でも、単なる勧善懲悪で味わっては面白くない。やはり、南無阿弥陀仏に会った身ならばこそです。抗しきれない愼恚に気づく煩悩具足の凡夫だからこそ、その愼恚のこころだけの虜になって終わるんじゃなくて、その煩悩の身をご法に返し、我が身を内省させてもらう。お念仏に帰ってこそ、初めて、「共に凡夫だった」と味わえるんじゃないでしょうかね。そのあたりを皆さんと考えてみました。
 http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_3d93.html

 さらに、「へその緒」というもの。こちらは、「巻頭言」にまとめました。これは、羽栗先生の「心身の革命」の親のご恩徳に教えられたもので、「幸福とは親二人を思うこと」という、まったくぼくには、目からうろこの内容に触れています。だって、幼い子供のことを想像したら、幸福感に浸れるけれど、親のことを考えてもね…。まったく間逆の自己がいます。それと、『子宮のなかのエイリアン』という書物で読んだ、母の胎内から始まっている親子の葛藤についても触れて、ご恩徳の塊である自己は、罪業の塊であることを聞いてもらいました。
 http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_2efb.html

  「生死を超える教え」の輪読法座を含めて、阿弥陀さまの大悲のおこころ、慈愛の深さ、大きさに触れさせていただき、そのおこころを共に聞きあう、尊いご縁でした。
 ありがとうございました。

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コメント

広島支部法座、ありがとうございました。
24日(火)に法座のあとの分かち合いを
この「大悲のおこころ」の輪読でおこないました。十七条憲法を通じて、「法の鏡」で私を知らせてもらう。その私に、阿弥陀様は、なんとおっしゃられているのか聞かせていただく。ということを聞かせていただきました。
私の中で、それは、金の牙をもつ象の話につながっていき、本当に、申し訳なく、そしてあったかいです。仏青以来、娘が「何を聞いてきたか教えて~」と
言ってくるので、早速、ブログと、象の話をしました。
「仏様って、広い心!!」と、驚いていて、
一緒に、「広いこころ!!」をあじやっています。

投稿: Tねこ | 2008年6月26日 (木) 09:40

Tねこさん、いつもコメントありがとう !
こうして反応がもらえると、やっぱりうれしいですね。
そうですね。私の気分には関係ない、阿弥陀様のところをお聞かせ預かるのです。確かに自分の感じや思いも大切にしないといけないけれど、それだけに、ただ引きずられるだけなら意味ないものね。だって、自分の感情や思いだけで「分かったり、分からんかったり」、「有り難かったり、しらけてきたり」、「暖かかったり、腹立ててみたり」、、、全部、自分のひとり相撲だものね。自分を聞くのだったら、そういうコロコロ変わる、自分中心しかない、虚仮不実の自分というところなんだけれど、わかるかな?

投稿: かりもん | 2008年6月26日 (木) 09:50

ありがとうございます。うーん、、、、、。読ませていただいて、
この、「自分を聞く」ということが、よくわかってないと感じます。「自分のところばっかり見ていて、阿弥陀様のおっしゃることを聞いていない。」とよく、言われてきました。
そのことと、「自分を聞く」ということの違いが、よくわからないです。
自分の思いに囚われきっている、自分中心でしかいられないそのなかで、一喜一憂するばかり、、、。
今は、そこを一生懸命、聞いる感じです。

投稿: Tねこ | 2008年6月26日 (木) 15:54

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