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凄い話

 組織という観点からみると、華光の集いは、少し世間とは異なる気がする。たとえば、世間の支部長のイメージには、ある種の幹部的な特権や、権威的な態度がつきまとうだろう。でも、華光の場合、むしろ逆である。各支部の自主性を尊重しているので、まず誰が支部長になるかも、各支部でご相談して決められている。その支部長の役割は、もちろんリーダーシップも大事だが、皆さんの声を聞き、皆さんのまとめ役に徹するなど、いわば縁の下の力的な仕事が多い。もちろん、自信教人信であるから、「自信」のところが、第一であるのは言うまでもないのだが、能力や資質以上に、御同行、御同朋と、「共に聞かせてもらっていこう」と姿勢こそが、尊いのだ。

 だから、今回の集いにしても、各支部の実状を丁寧に聞き会い、法座活動や支部活動を実践しているからこそ起こってきた、皆さんの悩みや苦悩を共に分かち合った。人間が、生身の凡夫が、ご法のことを真剣に願っているからこそ起こっている葛藤があるのだ。熱心な人であればあるほど、純粋性や法の厳しさを伝えずにおれない。そこで、ぶつかり合うことも多々ある。そんな尊い悩みも、それぞれの人間性や凡夫としての欠点が裏に隠れているから、当然、いろいろな行き違いや誤解、時には深く傷つき、ご法の場から離れて行く人たちも出て来る。しかし、それもまた、実はご法を聞く、尊い機縁であり、そんな現場での生の声に触れ、傷ついたり、悩んだり、時に憤慨したり、また落ち込み、かまく行かない力不足を歎いたりを繰り返しながら、ほんとうの自分の姿に気づかせてもらい、またご法に帰らせていただくかけがえのない貴重な機会なのである。そんな葛藤する皆さんの姿が、無条件に尊かった。

 皆さんのお声を聞かせていただくうちに、まるまるぼく自身が抱えている問題にほかならないなーと思えたきた。もし、時間が許せば、ぼくの悩みを聞いてもらいたいほどだ。もちろん、他人の問題だから、少し冷静に聞かせてもらえるし、いい解決策もいろいろと浮かんで来る。しかし、即効性のある解決策を提示するより、共に考え、悩みやつらさを共有しあえるところに、つらさやまどろこしさもあるけれども、そのプロセスを大切に進行できたことも、また尊かった。

 それにしても、皆さん、いかに自分たちのご法を聞く場を大切にしようと、真面目に考えてくださっていた。繰り返しになるが、ほんとうにその姿が尊かった。ご縁の出来た人を尊重し、末永くその法友と共に、真実を求めて行きたいとの姿勢が、有り難い。もっとも、おかしなぐらい、組織を大きくしようとか、新しい方を積極的に勧誘しようとかいう、意識は皆無である。だから、研修会といっても、集金や人集めのノルマも、勧誘のためのノウハウも、何一つない。そこは潔いほど見事である。あまりの潔さに、少しはなんとかならんかと思うほどだが、それだけご、大きな野心をもたず、ご法一筋で歩んできてくださったのが、華光の集いなのである。

 それでも、旧態依然として、古いものだけにしがみつく気はない。時代としての刻々とした変化や、社会に開かれた集いであるためには、変わっていくこと畏れず、その努力も惜しまないのだ。

 それは、何かを握ったり、すわりこんだり、固着するのではなく、常に、破りながら、お聞かせに預かっていく。常に、葛藤しながらも前に歩ませてもらう、聞法の態度にも通じていく。

 もし、そのことで、内外からの、華光やぼくに対するご批判や中傷があったとしても、不思議なことに、ぼくの中には、これまでも、そしてこれからもその歩みにおいては、ご法に対して恥じたり、やましいことは何ひとつない。そう言い切れるものがある。

 そんなことを自信をもって言い切れる身になったことが、自分でも不思議だ。心配性で、貧乏性で、傷つき易く、なかなか難しい人格の持ち主でしょう。欲も、怒りも、満ち満ちている。仏法なんか、大嫌いな典型的な泥凡夫(そう言い切れる自信もマンマンにある)。虚仮不実の身が、このご法に対してこれほど自信があるのは、どこから起こってくるのだろうか。これまで歩んできたことも、これからめざしていくことも、ただ仏法広まれの願い、ただ一つである。そのために、自分も、またお同行も、大切にしていきたい、ただそれだけである。その一点においては、間違いなく立たせてもらい、そう歩んできていると言い切れるだけの力をいただいているのだ。これは、あまりに凄すぎないか。

 あいかわらず、些細なことに悩み、ウジウジ凹み、怒り、しんどくなる。つまらんことで有頂天になり、目先のことに一喜一憂するのが、ぼくの大切な日課だ。いや、それしかないといい切ってもいい身の上に、凄いことが実現している。

 これゃー、どうやら、ドエライすぎるものをお聞かせに預かったようです。

 皆さんの力をいただいて、こんなところに立たせてもらっている自分をを、改めて聞かせていただきました。

 南無阿弥陀仏

 南無阿弥陀仏 

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コメント

おはようございます。かりもんさん、皆様にはお世話になりました。ありがとうございました。私のなかでは、「支部長研修会」というタイトルにいつもとは違う緊張感を抱いての三回目の参加でした。参加された方の、それぞれの思い(苦悩や不安、取り組みへの姿勢など)を聞かせていただきながら、私自身のいい加減さ、力量不足を痛感しつつ、今の恵まれた環境(支部同人の方の配慮、協力等)に感謝をします。何かでみた本に「人は法を求めるにとどまって、法に生きることを忘れている」ありました。私自身のいい加減さは、この意識の希薄さ、欠如が原因ではと知らされました。そして自己弁護には「泥凡夫」だからとか「愚」だから等の、法が示す機の姿のことばに納めてしまう自分に気づく。今回の研修で45年前に作られた資料を読ませて戴いた。古さはない。新鮮であった。なぜならそれは「いま、ここのわたし」に確かに働いている南無阿弥陀仏さまの姿である。
かりもん師のことば「虚仮不実の身が、このご法に対してこれほど自信があるのは、どこから起こってくるのだろうか。これまで歩んできたことも、これからめざしていくことも、ただ仏法広まれの願い、ただ一つである。」に「法に生きる」すがたをしっかり見させていただきました。「ドエライすぎるもの」を戴いたお礼にわたしができることはなにかを意識しながら考え、活動していこうと思います。
かりもんさん、皆様には今後ともお導きのほどをよろしくお願いします。
研修会の最後のG先生のおことば「ありがとう」が、そして、皆様のお言葉の一言一言が、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と響きました。やはりこの研修もわたし一人の尊いご聴聞の法座であっと噛みしめています。      南無阿弥陀仏

投稿: 稜 | 2008年6月 9日 (月) 10:12

稜さん
今日も、まだ余波は、あちらこちらで続いているようです。
このところの、稜さんの意欲的な姿勢がとてもうれしいですね。それに、支部の法座のレジュメとても見事なもので、先生を交えない法座でのお手本の一つだと思いました。
個人的には、華光は、頭よりもからだで聞き、常に真剣の実践の場だけれども、同時に、研修や研究もしていきたいですね。特に、研究というところで、華光の取り組みを形に残していきたいなーという意欲が、いま湧いています。それだけの人材も揃っている気がします。

投稿: かりもん | 2008年6月 9日 (月) 23:37

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