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『かつて、ノルマンディーで』

  『かつて、ノルマンディーで』(原題の直訳なら 『ノルマンディへの帰還』)。フランスのRetourennormandie_01 ドキュメンター映像作家、ニコラ・フィリリベールの作品。この人の作品を劇場で、最初に見たのは『ぼくの好きな先生』だった。フランスの田舎町で、学年を縦割りに、幼稚園の年長から小学校の高学年までが同じ教室で、ひとりの先生が担当する、そのクラスの日常を、丁寧にカメラが追いかける。ラストのシーン、ほんの瞬間だか、とても暖かいものが胸に去来したことを覚えている。

  最近、「○○の品格」などという使われ方をよくみる聞くけれど、このドキュメンタリーは、なかなか品格の高い一本だと思った。けっして、特別なことはおこらないけれど、重層的な、多彩な視点に支えらた、静かな、後味のいい余韻が残った。ただ、抑揚の少ない静かな映画が苦手な人には、お勧めできないかも…。

 ノルマンディーと聞くと、すぐ「上陸作戦」と反射的に言ってしまう。少し考えると、世界遺産のモン・サン・ミッシェルも、ノルマンディー地方だなーとなる。死ぬまでには、ここも行ってみたいところの一つだ。美しい海岸線と、田園風景というイメージがあるが、そのノルマンディーの片田舎が、映画の舞台。静かな豊かな田園風景が広がります。

 冒頭、豚のお産のシーンから始まる。母ブタの産道から子ブタが産まれて出る。ところが、産まれてきたものの、生死ギリギリの命もあり、人間が(かなり乱暴に)ショックを与えたり、心臓あたりをマッサージする。なんか、ドキドキしましたね。まだ、タイトルも出て来ていない。

 お話は、今から30年前。この監督が、助監督時代に、この田舎村で地元農民を使って映画を撮影している。その時の出演者たちに再会するというもの。そう聞くと、30年ぶりの回顧的な映画かというと、ことはそんな単純ではない。

 まず、1835年、ノルマンディ地方の小さな農村で、農家の長男が、母と弟妹を惨殺するという猟奇的な事件が起きた。犯人の青年は、無学でながら、犯行の一部始終を美しい(実物がでる)手記が残している。精神鑑定にかけられ(きわめて初期の鑑定の一例だろう)、結果は無罪、有罪、極刑と見事に割れたが、結局、死刑(すぐに恩赦で終審刑)になる。その後、刑務所内で自殺するというのである。

 それから130年以上たった1973年、哲学者ミシェル・フーコーは事件を「狂気と理性」という本にまとめ、これを原作にして、フランスの映画監督ルネ・アリオ(彼の師匠ね)が、『私ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』という映画を造ることになる。(フーコー自身も出演シーンがあったそうだ。でも、世界中で、この監督も、この映画もまったく忘れられている。日本では公開されていない)。 
 しかも、事件が起きたノルマンディ地方で、出演者のほとんどが地元の農民を使って映画を作ったのだ。その助監督として、現地で出演者を集めなどに奔走したのが、若き日のニコラ・フィリベールだった、というのである。

 そして、フィリベール監督が、30年ぶりに撮影現場を訪ねて、当時撮影に協力した人々と再会するシーンと、30年前の映画の断片が交錯して引用される。撮影が行われた当時の状況と、今が静かに対比されていくのだ。

  片田舎の人達には、映画に出演した経験は、単なる思い出以上に大きい。残酷な暗い映画だが、そのメイキングは実に暖かく、微笑ましい。ただ、30年の歳月は、特に残酷な一面も残している。みな、さまざまな人生を歩んでいる。微笑ましくユーモアたっぷりの幸せそうな家族もある(このシーンは実に楽しい)。一方で、その後、娘が精神を病む、献身的に介護するも、疲れ果てた様子の夫婦もいる。映画に出たとを誇りに生きている人もいる。映画の世界に飛び込み、人生が変わったものもいる。また、自ら、病に倒れて不自由な生活を送る人もある。さまざまな人の歩みがあるが、大小その痕跡は違えども、この村の人々に、なんらかの影響を及ぼしているのである。

 と同時に、30年間、変わらない日々の生活が営々としてつづいていく。日は昇り、水は流れ、豚は子を生し、果実は実り、豊かな恵みが与えて続けている。豚を屠畜するシーンがある。庭先で、嫌がるブタ(あきらかに察して、荷台からおりない)引き釣りおろし、ハンマーで脳天を一撃する。痙攣し、泣き叫ぶ喉元をナイフで切り、放血をする。痙攣し続ける。そして、内臓を裁いていくる。たぶん、30年前と変わらない風景であろう。

 ところが、30年の歳月は周りの状況を、大きく変えつつつある。農村地帯に、核廃棄施設の建設計画がおこり、反対運動がつづいている。商業的なファンドに買収されて、良心的な映画を作りの環境も厳しくなっている。

 過去と現在、30年前と160年前とが、さまざまなシーンで交錯していく。主役を降ろされた男には会うことが出来たのに、肝心の殺人鬼を演じた主役の消息が分からない。さまざまな噂があるが…。彼は、その後、どのよう人生を歩み、いまはどうしているのか? 最後に、彼が意外な格好で登場する。そして、30年前ではなく、160年前の彼が演じた殺人鬼に対する思いを語るシーンがよかった。この人生、人間の力で、単純に白か、黒だけで量ることなんか、ほんとは出来ないのだなー。このノルマンディーの自然がそうであるように、もっと彩色豊かで美しい世界なのではないだろうかなー。

 そして最後に登場するのが、この映画に出演するもカットされた、フィリベール監督自身の実父の映像……。しかし、父の声は流れてこない。ここにも、隠されたテーマがある。

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