冥加
昨日と今日の2日間で、華光誌の同封する、8月の仏の子供大会の案内状と、9月の聞法旅行の案内状の版下を作成した。詳細は、7月1日に発送する華光誌をご覧くださり、ひとりでも多くご参加いただきたい。また折りを見て、ここでも告知しますが、仏の子供大会は、華光会館が会場。聞法旅行は、山陰の妙好人(源左、善太郎、才市同行と、法然上人の誕生寺)を巡る。
ところで、昔は、子供大会と、聞法旅行は、共に8月の行事だった。昔の華光会館はクーラーがなかったので、ほかの行事はお休み。そのかわり、外に出て、子供も、大人も、聞法したのだ。それが、新会館になって、冷暖房が完備して、夏の行事も差し障らなくなったが、地方法座以外は、基本的にお休みである。同じ月に、ふたつの大きな行事は大変だったので、聞法旅行も9月の連休になった。
それが、今年は華光会館で子供大会を開く。9年ぶりである。これも、冷房があればこそ。聞法という観点かられみれば、華光会館ほどけっこうな場所はない。道場、分級の部屋、時間を気にすることも、周りの目を気にすることもなく、専念できるのである。ただし、先生以外に、お手伝いの方にご苦労をおかけせねばならないが…。
で、華光会館の冷房のことで思い出した事件がある。ある時、悟朗先生が、道場の付けっぱなしのクーラーを消そうとしたら、横から、「先生、お金をだしますよ、ケチケチしないで…」と、おっしゃった方があった。その後、先生がとても悲しい顔をされたのを覚えている。(もちろん、あの先生のことだ。しばらく法話にネタにされるのであった…)。これは、もうお金どうこうの問題じゃないんだよね。「冥加に悪いことをするな」というわけだ。
しかし、この「冥加」(みょうが)という言葉自体、いまでは完全に”死語の世界”だ。かろうじて、「冥加金」という言葉が残っているので、なんとなく聞き覚えもある奇特な方もあろが、お寺への喜捨(←これもすごい言葉やね)するお金のことだ。もともと、「冥」の字は、たとえば、「冥福を祈る」や「冥土」、ほのかに光る「冥王星」などと熟語するから、普通は、「めい」読み、どこかあの世を連想させる。実は「くらい」とか「遠くかすか」という意味があって、はっきりと知られないが、でも確かにあるだろうものを指している。そして、「冥加」と熟字すると、知らず知らずに与えられている神仏のご加護、もしくは さまざまなおかげのことをさしているのだ。その目には見えないが、確かにある仏さまのおかげを粗末にすることが、「冥加に悪い」ということになる。
ちなみに、i華光双書に、増井悟朗著『冥加について』という、小冊子法話集を版下から作った。400円で、初心者にもわかる内容だが、そのわりに、もっと売れてもいいんだけどなー。残っていても、冥加に悪い?http://homepage3.nifty.com/keko-kai/books/myouga.htm
だから、いまは死語になっていても、この大量生産、大量消費、そして大量廃棄が限界に達し、利潤や効率のみを追求するだけでは、もはや明日がないいまこそ、改めて心すべきキーワードではないだろうか。
そういえば、昔、「限りある資源を大切に」というキャッチーコピーがあった。へそ曲がりのぼくは、「限りがない(もしくは限りがないかようにおもえる)ものは、大切にしなくていいのか」と反発してしまう。限りがあろうが、なかろうが、また、いのちがあろうが、無生物に見えるモノであろうと、そのひとつひとつが、限りないさまざまなご因縁で結びつき、私を生かしてくださっている、尊いいのちなのである。そして、それはほかならぬ、仏さまのいのちをいただいているのだ。
効率や、利潤、利益(役立つ、役立たん)のみを追いかけないで、そのいのちそのものに心を寄せていきたいものですね。そうすると、無駄なものなんて、何一つなんじゃないかなー。人間のみ、ひいては私個人のいのちだけを、無批判で大切にする風潮ではなくて、ほんとうの意味で、すべての生きとし生けるもの、その生けるもの活かそうとする働きすべてを拝んでいく姿勢こそが、尊いんじゃないかなー。
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