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2008年6月の25件の記事

元徳寺での法座~私の後生の一大事~

 さて、今回は、子供大会からの二十歳の求道中の女性と、初めての二人連れの主婦の方が積極的に質問されて、法座をリードされた。この姿勢はいい。わからないことをどんどん尋ねていく。普通は、「そんなことも知らんのか」と思われるんじゃないかと恐れて、分からなくても、分かった顔をして座っておられる。でも、恥かくのを恐れては意味ない。いいカッコしているうちは、獲信とか後生の一大事なんていっても、口先だけやね。その点は、初心の方が早い場合もある。その内、質問も外側から、だんだん自分の内へ。さらにその内も1段、2段、3段と掘り下げていくと、自己を内省できるようになっていかれるでしょう。まだ、真剣にメモや録音をされる段階だけれども、ほんとうに自分のことになってきたら、メモなんてとってられない。「帰って確認しよう。また見よう」というのは、一見、熱心な姿に見えて、無常や後生の一大事が口先だけの自分を知らせてもらえるいいご縁。
 いたいだ御礼のメールからも、深く感銘を受けて、仏法が自分の問題として聞くように、方向転換されておられるようでした。よくぞ、「求める」ことを教えてもらわれたけれど、今度は「捨てる」ことを聞く。きれいごと、有り難いところ、勇ましいところではなく、自分の虚仮不実の姿を聞かせてもらいましょうや。 

 さて、今回は、輪読法座で、本文に、『「仏教をめざすもの」は何ですか?』との質問があるので、皆さんにお尋ねした。
 すると「転迷開悟」とか、「仏に成る」とか、「目覚める」とか、「後生の一大事」の解決とかの回答が出された。ある方が、「この主語は何ですか。仏教一般なのか、私がなのかで変わってくる気がする」と仰った。実は、そこが一番大切なポイントなんですね。でも、主語のよって答えが変わるのではなく、仏教の主語は、いつも「私」なんです。だから、「「転迷開悟」や「仏に成る」だけでは、答えは不十分(テストなら点数がもらえるけどね)。ぼくは、仏教のめざすものは、「が仏に成る」「が目覚めをする」という、「」が抜けたら意味がないし、そう聞かない限り、聞法にならないと言いたい。いま、ここにいる私が、またしても迷いを繰り返すのか、「仏に成る」のかの一大事がかかっている。ここでしか聴聞はない。それが、いま、ここで、南無阿弥陀仏という姿で、この凡夫の私の上に実現していくのが浄土真宗なんです。ここが尊い。同時にここを軽く聞いていては、枝葉に触れるばかりで、肝心の仏教の核心には触れていかない。
 要は、の後生の一大事じゃないですか。落ちていくのは、ほかならんこの私以外にないです。人のために聞くのでも、「○○がどうの」、「誰々に××といわれのた」の、「先生は、私のことを分かってくれない」などと、とかく凡夫の聞法は責任転嫁で賑やかですなー。でも、誰が聞くんですか。私の後生の一大事が解決に、他の人は用事のないわな。親のためでも、先生のためでも、地位や肩書で聞くのでもない。生まれたきたままの裸のこの私にしか、南無阿弥陀仏は届いてこないんです。そして、それだけの仕組みがハッキリできている。

 すると、ある方が、「聞いた時はハッとするけれど、すぐに忘れていく。こんな私でも、ほんとに聞けるんですか」と仰った。ぼくは、キッパリ「聞けます!」とお答えしました。なぜなら、私が聞く前に、すでに、如来が私のことを聞いてくださっているからです。自分の方に値打ちや働きがあるのなら、能力に優劣が生まれるでしょう。受かる人も落ちる人もある。でも、浄土真宗は、他力廻向の教え。如来様の方に、凡夫を救うという仕掛けが出来上がっている。それを南無阿弥陀仏として廻向してくださる。「どうか聞いてくれ」と頼んでくださる、南無の心です。そのお救いの仕組みがある。そのおこころをお聞かせに預かる。私をお目当てにした、私ひとりを、必ず、救ってみせるという大悲の願いがあるので、こんな凡夫にでも、「聞ける」んです。じゃ、なぜ分からないのか。私自身が耳を塞いでいるだけ。つまらん計らいばかりで、そのお心を聞いていないからなんですね。「南無阿弥陀仏はミチミチていますよ」と申し上げました。

 さらに、別の方が、「でも、私には南無阿弥陀仏が見えません。どこにミチミチしているんですか。法蔵菩薩のお話を聞くんのでか」という意味の質問をされた。
 「まあ、この腐った凡夫の目で見えてどうするのかね。目つぶれますわ。でも、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」この仏様の名乗りが聞こえるでしょう。これが証拠。響流十方として、「お前を救うぞ」の声が、十方のありとあらえるところに轟きわたり、この本堂にもミチミチていますよ」と。
 最近、その南無阿弥陀仏に会われた方が、「ほんとうにミチミチているんです。この畳みも、柱も南無阿弥陀仏さま。ほんとうなんですよ。不思議やなー」と、しみじみと仰ってくださった。そのお言葉が、尊かったことか。南無阿弥陀仏。

「無漸無愧のこの身にて
 まことのこころはなけれども
 弥陀の回向の御名なれば
 功徳は十方にみちたまふ」

 「南無阿弥陀仏」ひとつで、満ち足りる世界が、ここにある。

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元徳寺での法座

  6月は、東海支部で、蒲郡の「元徳寺」法座。年に1度のご縁である。

 法座は、日曜日の朝10時~17時の1日だけ。でも、毎年、前泊か、後泊をして、夜は懇Img_2834_2 親会で、M家の皆さんに歓待してもらいます。特に、蓮華さんの手料理がおいしい! ここは、温暖な気候でみかんの産地。また、竹島という観光地に近く、海に近いので、お魚もおいしい。例年、決まったゲストもあって、お土産の高山ラーメンもいただきました。蓮華さん、接待に、料理にと大忙しで、ほんとお疲れさまでした。二夜にわたりご馳走になりました。

 ご法座も、なかなか尊かったです。参加は25名ほど。中日新聞の宗教欄の案内をご覧になった方、ネットから初めてお参りされた主婦の方、他にも何年かぶりにお見かけする人もあり、しばらく海外赴任で日本を離れる人のご挨拶もある。それにはるばる水戸から二泊する奴もおれば、神奈川から日帰りの方もあるという具合で、とにかくいろいろな方がおいでくださった。
 冒頭、華光とのご縁をそれぞれ一言ずつ。いや、それもまた人それぞれ。面白い。ただし、半数は某会からの参加者でしたが、それでも、華光に辿り着く道は違う。NHKのTVから、法蔵館から本から、宝島の書籍のから、ネットにしても、2ちゃん、反サイトに、華光会 に直接にと…華光会を知られたのかは、ひとそれぞれ違ったからまた面白い。また人に よって違う。ひとりとして、同じご縁の方はない。2、3名をのぞき、と、わりとご縁の新しい 方が大方でしたが、皆さんお一人おひとりが、尊いご因縁に導かれて、ここに座っておらImg_2828_2れる。みんな、大きな願いがかかる御方なんですね。ご法座の内容は長くなるので、項を改めて、ここは元徳寺のご紹介です。

 ↑かろうじてている小さな本堂。でも、いまは、生きたお念仏の集いがあります。Img_2832

 仏壇は立派です。華光会館の道場も手がけた、華光同人の名匠によって蘇りました。→

Img_2831 ←唐獅子牡丹ですね。悟朗先生の誌上法話参照のこと。(65-4号・仏教と真宗) 

 

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週末の法座は?

 昨日、輪読法座の前に、お昼を食べ出ようと思っていたら、事務のTさんが、おびえた声で、「玄関のところに、へんな人がブツブツ言いながら座ってます」との報告。何年かに一度は、「お金かして」とか「働かせて」とか、「ご飯食べさせて」、たまには「泊らせて」などという浮浪者や不審者の訪問を受けることがある。なかには、詐欺まがいの話もある。小銭ですむならいいが、最近の世相からみて、かなり物騒な気分になる。とりあえず、戸締りだけしてかまわずにいたら、そのうち居なくなった。
 でも、外に出てその原因が分かった。家の前の道路の出入り口も、柄のついた車止めをもった警察が警戒している。阪神高速の出口から油の小路通は、京都駅まで、数M置きに警官が配置されている。サミット外相会議の警備のため、京都駅のホームレスが追い出されて、ここまで流れてきたのだ。なんでも、大勢の警官のために、お弁当屋さんが大忙しだと、いつも仕入れているお店の主人が行っていた。
 それが、八条口のお店で食事をすませてて出てきたら、もう誰もいなかった。小一時間のことだ。アッと言う間に通りすぎたらしい。交通規制を受けなっただけでも、幸いでした。まあ、特にオチのない話でした。

 で、週末の予定です。

1) 東海支部法座(蒲郡元徳寺) 6月29日(日)朝10時~夕方5時
 毎年、恒例の年に一度の蒲郡法座です。初めての方も2名が参加される予定です。いつもは、月曜日にカウンセリングの集いをもつこともありますが、今年は特になし。その代わり、朝からあるので、土曜日の夜からお邪魔して、前夜祭とまいりましょう。酒の肴には、事欠かない顔ぶりで、いまから楽しみ。
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/06/toukai2008-6.htm

2) 日曜礼拝 (華光会館) 6月29日(日)昼1時30分~4時30分
 今回は、MANU.さんがご法話の担当。大人の座談会には、悟朗先生も出席されると思います。
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/06/nitirai2008-6.htm

 今月は、宿泊行事が続いたので、明日、半日は、子供のサービス。蒲郡に出発する前まで子供を遊びに連れて行く予定ですが、天気はどうかな?

 

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法話を深める掲示板

 今日は、輪読法座。平日にも関わらず12名が参加。
 ネットをご覧になった、初参加の方も加わってくださる。なんでも、華光会HPの『五重の義と信心往生』
を読まれて、これまで浄土真宗の法座にはお参りされたことがないのに、華光会においでくださったそうだ。ほんとなら、遠く宿縁を喜べだね。よくお参りくださいました。
 しかもこの御方が、ご本山の浄土真宗聖典を、頭から100回も読破するという、かなりの強者。毎日、50頁を読まれているそうな。すごいね。だから、何か質問されても、初めから、ご自分のお答えもっておられるご様子。それで、ぼくとしては、お考えやお気持ちをお聞きしないと分からんので、発言の分からなかった不審点を質問し、少しでも理解しようとしたのだけれど、そのことで、皆さんとのソリもあって、いつもの雰囲気とは違った、波瀾含みの展開になりましたね。
 そして、どことなく、まだ奥に隠れているもの(もしくは隠しているも)があるようにも感じました。なんやろうね、この違和感は…。ぼくの思い過ごしかもしれないけれど、そのあたりを、またお会いする機会がありましたら、聖教の言葉で防衛せずに、生の声をもう少しお聞きしたいものです。確かに、座談に慣れてないと、同行のやりとりを正確に聞くことも、かなり難しいでしょうね。どうしても、パッと言葉だけに反応してしまう。とりえあず、最後までしっかり聞いてもらえたら、もっと分かり合えるものがあったかもしれませんね。

 さて、いまは、ネットでの誌上法話を味わうページのお知らせです。

 実は、MANU.さん主宰で、「法話を深める掲示板」がスタートしてます。
  http://keko-houwa.11.bbs.fc2.com/

 これは、華光会のHPに連載されている、華光誌の誌上法話を共に輪読し、味わい、深めていこうというもの。ぼくが主宰して、「輪読法座」は華光会館の集い。それに対して、これは、いわばネット版「輪読法座」にあたるんじゃないかなー。他にも、広島でも、Tねこさんを中心にした個人的な集いがあったり、大阪でも、『念仏の雄叫び』を、大阪凡夫さんたち同行だけで読み進む自主的な集まりがあるけれど、みんな地域もバラバラだし、なかなか出席が難しい人もおられる。それで、華光同人や誌友などにかかわらず、誰もが参加しやすいものとして、より深くご法話を味わうというところから始まったようだ。

 いまは、まだ開始したばかりなので、もしかすると、皆さん、様子見という感じで、眺めているのか、あまり他の方の動きがない。最初は、ちょっと勇気がいるのかもしれないが、関心のある方は、ぜひ、積極的に発信、参加してみられてはどうでしょうかね。ひとりで黙読するより、数段、疑問点や味わいが深まる気がします。

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憂うつな時代

 朝、子供を保育園に送った足で、「子供大会」の案内状を印刷所に渡し、児童手当の現況届を提出してきた。これで一息つけるよね。

 その後、久しぶりに、大型書店に足を延ばした。出張法座が続いたので、手元の新刊が底をついたので、新書を買い込むことにした。
   人文系のところ。いやー、なんか閉塞状態の世相を反映して、くらーい、よく似た題のものばかり。「うつ」、「傷つきやすい」、「悩み××」、「引きこもり」、「キレやすい」、または「貧困」、「格差」、「下層」、「○○難民」に「プア○○」と、とかく沈むようなタイトルだ。あとは、「クレーマー」とか、「モンスター」とか、または、「ケイタイ」や「ネット」なんかがキーワードのものが多いかも。バァブリーな時代は、遠い昔という感じだね。それに、新書の数ばかり増えているけれども、平積みされているのは、似たりよったりのお方ばかりで、結局、どれも同じように思える。にも関わらず、ぼく自身も、そんな傾向の本を選んでしまう。

 で、結局、お買い上げしましたのは、
 ▷『学校のモンスター』(中公新書)
 ▷『不機嫌な職場』(講談社現代新書)
 ▷『続ける力』(幻冬舎新書)
 ▷姜尚中著 『悩む力』(集英社新書)
 ▷香山リカ著『キレる大人はなぜ増える』(朝日新書)
 ▷上野千鶴子と、辻井喬(堤清二)の対談で『ポスト消費社会の行方』(文春新書)
 上野が聞き役となり、元セゾングループの堤に切り込んでいるようだけれど、これはちょっと面白そうだ。
 唯一、毛色が違うもので、▷小泉純一郎著『音楽遍歴』(日経プレミアシリーズ)。
 さらっと読んだだけでも、なぜ、この人が高い支持率を保ち続けいたのかが、なんとなく窺えそう。政治ではない、好きな趣味の世界のことだが、逆に本質が現れるかもしれんなー。
 あと、ハードカバーで、
 ▷鷲田清一著『「聴く」ことの力』(阪急コミュニケーションズ)と、
 ▷森 達也著『ドキャメンタリーは嘘をつく』(草思社←倒産して、再建中なのね)

ということで、新書が7冊、ハードカバーが2冊。みんな違う出版社だけれと、どことなく、よく似た匂いのものを選んでしまう自分がありますね。いやはや、なんともね。

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冥加

 昨日と今日の2日間で、華光誌の同封する、8月の仏の子供大会の案内状と、9月の聞法旅行の案内状の版下を作成した。詳細は、7月1日に発送する華光誌をご覧くださり、ひとりでも多くご参加いただきたい。また折りを見て、ここでも告知しますが、仏の子供大会は、華光会館が会場。聞法旅行は、山陰の妙好人(源左、善太郎、才市同行と、法然上人の誕生寺)を巡る。

 ところで、昔は、子供大会と、聞法旅行は、共に8月の行事だった。昔の華光会館はクーラーがなかったので、ほかの行事はお休み。そのかわり、外に出て、子供も、大人も、聞法したのだ。それが、新会館になって、冷暖房が完備して、夏の行事も差し障らなくなったが、地方法座以外は、基本的にお休みである。同じ月に、ふたつの大きな行事は大変だったので、聞法旅行も9月の連休になった。

 それが、今年は華光会館で子供大会を開く。9年ぶりである。これも、冷房があればこそ。聞法という観点かられみれば、華光会館ほどけっこうな場所はない。道場、分級の部屋、時間を気にすることも、周りの目を気にすることもなく、専念できるのである。ただし、先生以外に、お手伝いの方にご苦労をおかけせねばならないが…。

 で、華光会館の冷房のことで思い出した事件がある。ある時、悟朗先生が、道場の付けっぱなしのクーラーを消そうとしたら、横から、「先生、お金をだしますよ、ケチケチしないで…」と、おっしゃった方があった。その後、先生がとても悲しい顔をされたのを覚えている。(もちろん、あの先生のことだ。しばらく法話にネタにされるのであった…)。これは、もうお金どうこうの問題じゃないんだよね。「冥加に悪いことをするな」というわけだ。

 しかし、この「冥加」(みょうが)という言葉自体、いまでは完全に”死語の世界”だ。かろうじて、「冥加金」という言葉が残っているので、なんとなく聞き覚えもある奇特な方もあろが、お寺への喜捨(←これもすごい言葉やね)するお金のことだ。もともと、「冥」の字は、たとえば、「冥福を祈る」や「冥土」、ほのかに光る「冥王星」などと熟語するから、普通は、「めい」読み、どこかあの世を連想させる。実は「くらい」とか「遠くかすか」という意味があって、はっきりと知られないが、でも確かにあるだろうものを指している。そして、「冥加」と熟字すると、知らず知らずに与えられている神仏のご加護、もしくは さまざまなおかげのことをさしているのだ。その目には見えないが、確かにある仏さまのおかげを粗Myouga_2末にすることが、「冥加に悪い」ということになる。
  ちなみに、i華光双書に、増井悟朗著『冥加について』という、小冊子法話集を版下から作った。400円で、初心者にもわかる内容だが、そのわりに、もっと売れてもいいんだけどなー。残っていても、冥加に悪い?http://homepage3.nifty.com/keko-kai/books/myouga.htm

 だから、いまは死語になっていても、この大量生産、大量消費、そして大量廃棄が限界に達し、利潤や効率のみを追求するだけでは、もはや明日がないいまこそ、改めて心すべきキーワードではないだろうか。
 そういえば、昔、「限りある資源を大切に」というキャッチーコピーがあった。へそ曲がりのぼくは、「限りがない(もしくは限りがないかようにおもえる)ものは、大切にしなくていいのか」と反発してしまう。限りがあろうが、なかろうが、また、いのちがあろうが、無生物に見えるモノであろうと、そのひとつひとつが、限りないさまざまなご因縁で結びつき、私を生かしてくださっている、尊いいのちなのである。そして、それはほかならぬ、仏さまのいのちをいただいているのだ。

 効率や、利潤、利益(役立つ、役立たん)のみを追いかけないで、そのいのちそのものに心を寄せていきたいものですね。そうすると、無駄なものなんて、何一つなんじゃないかなー。人間のみ、ひいては私個人のいのちだけを、無批判で大切にする風潮ではなくて、ほんとうの意味で、すべての生きとし生けるもの、その生けるもの活かそうとする働きすべてを拝んでいく姿勢こそが、尊いんじゃないかなー。

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6月26日は輪読法座

 6月の輪読法座の案内です。
 今月は、土曜日、日曜日と、宿泊法座が続くので、平日開催となりました。

日時:6月26日(木)昼1時30分~5時
会場:華光会館
会費:無料(おさい銭は回します)
内容:華光誌(67-2号)「生死を超える教え」の輪読。
 今回が2回目です。前半の今日の世相の導入部が終わって、内容に入ります。仏教入門的な要素があるので、初めてでも、少し関心をお持ちの方にはいいと思います。ひとりで、一読するのとは、まったく違って、さまざまな気づきがあります。今回で、ぼくは、5回目となりますが、その度に違った反応が聞けて、正直、飽きないから不思議です。同じ法話を何度かすると、けっこう飽きてくることがあるのに、なぜなんでしょうかね。ひとつは、皆さんの反応がそれぞれ違って、同じように進行しないからだと思いますね。楽しみにしています。

 ところで、当日は、京都でサミットの外相会議があるので、乗用車の方は、少し余裕を持ってお出かけください(とくに市内からの方ね)。交通規制の案内が来てました。ちなみに、3年前に、ブッシュ大統領が上洛した折には、華光会館の前の道まで、警備の車両が出ていたけれど、なんと鹿児島ナンバーの装甲車だったので、びっくりでしたけどね。遠路はるばるたいへんですなー。

 http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/06/rindoku2008-6.htm

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大悲のおこころ

 広島支部法座。新人はなかったけれど、じっくり法話を聞いていただき、そしてまた皆さんのお味わいを聞きあう、ご縁となりました。法話は、ブログにエントリーした内容を中心にしたもの。

 ひとつは、秋葉原の無差別殺人事件について、ブレーンストーミングの手法を使いながら、1)感じたことや思っていること、2)被害者の家族の立場なら、3)容疑者のケイタイサイトの主な書き込みを読んで、の3つの立場を替えて、話し合ってもらいました。視点が変わる、立ち位置が変わると、考えや感情も変わってくるから、なんとも不思議。そして、個人の中でも、さらにさまざまな人達のなかにも、多様な立場な視点があることが、理屈抜きに体感できるんですね。そんな中で、ぼく自身が、一番感心したことは、容疑者と同世代、もしくと同じ年の仏青の皆さんのお考えや気持ちと、その親世代、または祖父母世代では、かなり隔たりがあったこと。こんなにも世代間の格差が如実に現れると、正直、びっくりしました。たとえば、大人の世代は、ゲームやケイタイ、ネットの影響を指摘する。もしくは、被害者にせよ、加害者にせよ、その親や家族のことに重ねて考えている。そして、容疑者のそこまでの心情、悲しみや孤独などは理解しようとするけれど、悲惨な事件を起こしたことに関しては、まったく理解不能。一方、若い人達は、世間や大人世代への反発した態度に共感の声があがる。当然、ゲームもケイタイの悪影響などは微塵(話題にも)出ない。事件に対しても、容疑心情に共感する声も出来てきました。ただし、共通することは、みなご聴聞されているので、「あるべき業縁ももよおせば、いかなるふるまひもすべ」き身だというところ。それを、わが身にとっていること味わいに、世代がないこともまた驚きでした。 
 まとめとして、四十八願の第一願、第二願のお心をいただき、黄金の牙(タネ本は、六本の牙)のを持った象王の話から、如来様の大悲のおこころについて、短めにご法話をしました。
 http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_a880.html

 もうひとつは、聖徳太子の憲法十七条の十条のご文、「共にただ凡夫のみ」をいただきました。これは、次号の華光誌「聖教のこころ」でも取り上げています。サラッと聞いたら「なるほど」と簡単にわかってしまうけれど、日頃聞いていることと少し異なる気がする。どう位置づけていけばいいのかという、鋭い質問も出ました。確かに、前の部分だけなら、「怒りを収めろ」という風に読めますからね。でも、単なる勧善懲悪で味わっては面白くない。やはり、南無阿弥陀仏に会った身ならばこそです。抗しきれない愼恚に気づく煩悩具足の凡夫だからこそ、その愼恚のこころだけの虜になって終わるんじゃなくて、その煩悩の身をご法に返し、我が身を内省させてもらう。お念仏に帰ってこそ、初めて、「共に凡夫だった」と味わえるんじゃないでしょうかね。そのあたりを皆さんと考えてみました。
 http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_3d93.html

 さらに、「へその緒」というもの。こちらは、「巻頭言」にまとめました。これは、羽栗先生の「心身の革命」の親のご恩徳に教えられたもので、「幸福とは親二人を思うこと」という、まったくぼくには、目からうろこの内容に触れています。だって、幼い子供のことを想像したら、幸福感に浸れるけれど、親のことを考えてもね…。まったく間逆の自己がいます。それと、『子宮のなかのエイリアン』という書物で読んだ、母の胎内から始まっている親子の葛藤についても触れて、ご恩徳の塊である自己は、罪業の塊であることを聞いてもらいました。
 http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_2efb.html

  「生死を超える教え」の輪読法座を含めて、阿弥陀さまの大悲のおこころ、慈愛の深さ、大きさに触れさせていただき、そのおこころを共に聞きあう、尊いご縁でした。
 ありがとうございました。

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紫陽花

Img_2808 雨。梅雨空になってきました。
 駐車場の周りにある小さな土 の部分Img_2806、紫陽花がきれい。ぼくの好きな花です。雨に濡れて、 なかなか風情あります。

 これから、広島。今週は、広島⇦⇨東京の往復切符で、京都は途中下車という感じ。でも、同じ広島でも、先週は仏青だったので、顔ぶれは変わりまImg_2794すが、ただ会場は同じ、神田山荘。原爆被爆者の療養研究センターという顔がある。温泉があって、Img_2789気持ちいいです。

 では…。

 

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東京支部法座

  平日の東京法座。前夜は、勤め帰りに法座に顔を出してくださる男性が多かった。職場の雰囲気と、法座の空気はかなり違うでしょうね。サービス業(坊さんもね)の方は平日の方がお参りしやすいでしょうが、大方の勤め人は、週末の方がいいようですね。亭主や子供が留守の、平日の昼がよいという主婦の方もあるけれど、今回はそんな方は少なかったです。初日の夜だけとか、2日目だけの方もあって、のべで23、4名というところですか。それでも、ネットでお参りくださった、初対面の男性は、龍大の信楽ゼミの後輩と判明。それだけでも親近感が増しましたね。これからもよろしく。

 内容には詳しくは触れる時間がないけれど、一言だけ。輪読法座で、皆さんの反対というか、正解や念仏者づらする優等生発言に、強く反発される同人の方。よく尋ねていくと、面白い意見なのに、短い一言で、しかも直情的すぎで、攻撃的な批判めいた言葉の雰囲気だけしか伝わらず、ちょっと残念。それで、彼の奥にある気持ちや思いが、少し出るように促していくと、ほんとうに言いたいところ、伝えたいところがだんだんと明らかになってきたけれど、もう少し、丁寧なコミニケーションや「私しメッセージ」なんかが身につけば、きっとみんなで問題点を共有できて、局面も変わったんじゃないだろうか。場を動かす可能性のある味わいの予感はしたけれど、うまく伝えられないのは惜しいなー。今後の課題やね。

Img_2805  そうそう、会場の会館に好意で預かったもらっている荷物(3箱)のうち、お名号や仏具関係の箱が、なぜか行方不明。初日は、急遽、紙に「南無阿弥陀仏」と書いて勤行。でも、2日目朝みたら、しっかり戻っていました。なんでも、部屋の修理関係で、移動していたのを忘れられていたとか…。よかったです。
 でも、まあ、絵像だろうが、木像だろうが、お名号だろうが、所詮、火をつければ燃え、紛失してしまう代物。私に願いをかけてくださっている生きた南無阿弥陀仏に、この私が会わせてもらわないと、なんとも寂しすぎるわね。せっかく、ここまで来たんですから…。

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閉塞感

  役所の保険年金課から書類が届く。国保の保険料の納入額の通知だ。おそる、おそる封を切る。

 「エェー。なんかの間違いじゃないの!!!」

 そういえば、去年も唸ってしまったが、今年も、何度も、通知表を見直すはめに…。この年収でこの金額か?ほんとうに? 数年前の2、5倍だ。一気に上った年を覚えいているが、それまで、毎年、家族で沖縄にノンビリ旅行にも行っていたが、その旅行代金分以上に、負担額が増加した。つまりは、昨年同様、今年も、沖縄旅行は見送りになりそうだナ(まあ、これはインド旅行が控えてもいるからだが…)。年収が変わらんのに、市民税の負担も増したし、どうなってんのかね?

 内訳をみると、医療分が、約7割弱だが、悪評の後期高齢者支援分として約20%、そして、ぼくの介護分で約15%が加算されている。明細や計算や、取り立てだけはしっかりしているのだが、この内容の実体まではよく理解できない。ほんとうに大丈夫なのか。ほんとうに無駄はないのか。これだけ政治が混乱し、年金を始め社会保障のさまざまな綻びが露呈し、不正やムダ、役人の無能ぶりばかりが目立つ中での、負担の増加や不公平感に、将来の不安は増すばかりだ。

 物価も高騰しとるし、庶民レベルでは、納税や社会保障の負担や痛みが増すばかり。このままだと、消費意欲も、労働意欲も減退の一途じゃかいのかなー。たとえ、負担が大きくとも、痛みがあろうとも、それに見合うだけの公平な社会や、高齢者も安心できる社会が実現出来るのなら、誰も文句はないでしょう。それが、みんな、展望のない将来に、とても不安を感じている。過労死寸前で黙々と働いていた中高年男性の自殺者も増加するばかりだ。
 なんか愚痴ぽくなって、ほんま、ぽーぽぽぽぽぽってな感じやね。

 でも、これだけ多くの人の不満や怒りが高まりながら、力を合わせて社会を変革しようという社会運動や政治運動に向く気配はなく、絶望感や無力感、時に自己や他者への残虐な攻撃性などにエネルギーが転嫁されているのが、いまの日本の最大の悲劇かもしれないなー 
 まずは、念仏者が力を合わせて働きかけることから、始めますか?

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明日は東京、続いて広島法座

 事務所のスタッフの頑張りがありまして、華光誌が完成しました。今夜、データの送信が終わって、明朝、表紙の色を決めます。ただし、今回は、インド仏跡の他に、8月の子供大会と、9月の聞法旅行の案内を同封予定だけれど、旅行社が作ってくれたインド以外は、まだ出来てません。まあ明日の東京と、明後日の広島法座が終わってからですね。予定を決める時は、この日程でOKだったのが、不思議やね。

 さて、平日ですが、明日は東京支部法座。夜からです。東京は、壮年層の男性が圧倒的に多い。平日なので、お仕事があったりして出席状況が不明。また初めての方がおられるのでしょうかね。少なくとも、1座は、67-3号の輪読法座をする予定。もう1座は、この前の広島仏青で行なった秋葉原事件についてのブレーンストーミング風(バズセッション)法座。これがかなり盛り上がった。今回は、地元ということもあるし、仏青の同世代の皆さんとは違った声がいただけることでしょう。明日は、いまのところ、聖教のこころに書いた「共に凡夫のみ」か、巻頭言の「へその緒」か、どちからのご法話にしようか、顔ぶれ次第で、永代経でお話した、「海」の話をもう一度味わってもいいなと思っています。まあ、こんな感じです。

 1)東京支部法座 6月18日(水)夜7時 19日(木)朝9時~夕方5時 会場=全林野会館
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/06/tokyo2008-6.htm

 2)広島支部法座 6月21日(土)昼1時~22日(日)夕5時 会場= 神田山荘
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/06/hirosima2008-6.htm

 なお、3)京都支部法座が、6月22日(日)昼1時30分~5時、華光会館であります。増井悟朗先生の法話会。
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/06/kyoto2008-6.htm

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父の日

 広島の仏青から帰宅すると、愛娘、二人が、「お父ちゃん、おかえり!」と、飛びついてきて、お出迎え。もうしばらくの楽しみでしょうね。今、せいぜい喜んでおきましょう。

 「お父ちゃんにプレゼントがあるねん」と、うれしそうに差し出してくれたのは…、絵のプレゼントですか。 
Img_2802  4歳の下の子は、「お父ちゃん、いつもお仕事ありがとう」の暖かいお言葉を添えて、くだものの絵らしい。なかなか大胆なタッチですね。

 小三の上の子は、コラージュじゃないですかー。なんでも、完成マジかなものを、ナナに邪魔されて、真ん中あたりが思い通りならなかったらしい。それで、大泣きして、もう一つを作ったそうなー。Img_2803親がいうのもなんですが、なんか、すごくセンスよくないかー。 このあたりは、ゆうこ譲りなのかなー。
 「おつかれですので、カフェへどうぞ」。そうですか。 Img_2802_1
 このカフェでゆっくり癒されました。

 今夜は、ちょっとゆるめのなごむ話題で…。

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輝く財宝

  広島の仏青研修会終わりました。
 全体会、少ない時間ですが、一言ずつの最後の分かち合いを聞かせていただいていて、その成長ぶりに、胸が熱くなってきました。
 みんな、結構なところ、有り難いところだけでなく、かなりしんどいところを持ちながらも、聴聞してくれる姿が尊いです。そして、なかには、またしんどいもの、モヤモヤしたものを抱えながら、帰っていく。法座が終わってホッとしたことを、誤魔化すことなく表明してくれる。その姿勢が、無償に尊かった。どうか、わからないなりに、安易に仕上がってしまったり、分かったふりをしたり、有り難いところだけをつかまないで、そこを引き破り、引き破りして聞かせてもらおうね。
 いつも言うことですが、吹けば飛ぶような華光の集いですが、こんな宝を育てているんですね。ひとりひとりは、いし・かわら・つぶてでも、お育てのおかげ、ご法のおかげで、黄金に光り輝くんですね。

 ぼくのグループでも、少し厳しく関わった人がいましたね。せっかく、喜びかけてたのにね。でも、やっとこれで、友同行になれた気がしますね。ここが分かち合えないと、やっぱり、ウソの付き合いです。だって、いくら人に理解してもらっても、また、みんなにほめてもらっても(ぼくはそんなことだけがうれしいんですがね)、もし自分のほんとうの如来様に出会えていないのなら、こんな虚しいことはないですからね。そこを誤魔化しそうになったり、挫折したり、すねたり、スカたんに力が入ったりするところを、励まし、励まし、あいそをつかすことなくかかわり、おだてられ、厳しくご指摘いただき、やっとやっと聞く身になり、そしてこの度、ご因縁が整って広島くんだりまで押し出されてきたわけです。もう、この念仏の場に座らせてもらっているだけでも、文句なく尊いお互いじゃないですか。
 文句ばっり言ってますが…。自分のことしか考えてませんが…。見事に、自分勝手なんですが…。そこに大きな願いがかかっている。もう如来様の広大なお心に脱帽するばかりです。

 よくここまでみんな育ててもらったなーと、長いおつきあいの皆さんも、そのときばかりは、ほんと輝いて見えておりました。

 また、午後からだけでしたが、広島DPAのお世話人のお坊さんが、顔を出してくださいました。若い20代、30代の皆さんが、しかもほとんどが在家の方が、自分たちだけで、信心のいちばん大切な核心をどう受け取っているのかを、真剣に、マジで話し合っている姿に、深く感銘を受けてもらったようです。こんな集まりは稀だってね。これからが楽しみですね。ぼくも、自慢の華光の財産を姿を見てもらえて、ちょっと鼻タカダカだなー。

 いまの広島には、仏青世代(20代、30代)の方はお一人だけだし、もう少し広島DPAの若手僧侶の方との交流がうまくいければ…なんって贅沢は思いました。それでも、精一杯「広島では若手」の皆さんが出席くださり、彼女たも、華光仏青の若いエキスに触れて、大きな刺激をもらわれたことでしょう。仏青の人達も、広島の方のおもてなしを喜んでおられました。 
Img_2798
こんなおかしで歓迎しImg_2799 てもらいました。この健康志向のおやつをご覧あれ

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痛ましい事件

  先日の日曜日、秋葉原で悲しむべき戦慄の事件が起きた。 皆さん、どれだけ報道をご覧になられただろうか。そして、どんなことを感じられ、お考えになられただろうか。

 ぼくは、先日の土曜日から、まったくTVを付けていない。それは、たまたまた忙しかったこともあるが、映画館通いを始めてから、テレビを見る癖がなくなったからだ。もともと、典型的なテレビっ子だった。子供が生まれたある日、帰宅してみると、妻が、食堂からTVを動かしていた時には、勝手な行動に腹立てたものだ。それが、いま考えると、不思議にも慣れて来る。妻は、TVなしの生活を理想にしているので、無用の産物だ。ただし、子供は、アニメを1日に1時間(つまり2番組)程度は、見ているが、それ以外のお笑いも、歌番組、ドラマも知らない。

 今回に限っては、ネットでも、このニュース映像は見ていない。ただし、新聞だけはわりと丹念に読んだ。別に、TVやネットが信じられず、新聞がいいというのではない。どうも、これまで、センセンショナルな凶悪事件が起こった場合、短期間に、繰り返し繰り返し、刺激的な映像が映し出される。刺激的で、恐怖や悲しみの現場の映像を見続けることが、現実を直視することとは、まったく関係ないんじゃないか。むしろ、抑止力にならずに、類似事件を再発させる刺激になったり、またはどこかで画一的な方向性へ、意識、無意識の両面から操作され、誰かさんに都合のよい考えが刷り込まれていくために、何か巧みな世論操作に利用されているんじゃないかなーという恐れを、若干抱いているのだ。

 本筋でないようだけれども、案外、たいせつなこともかれないな。

 今回の事件の特徴として、
 秋葉原という現代日本の若者文化を象徴する場所で起きたこと。 
 加害者が、派遣に甘んじててきた「負け組」(←いやな言葉だね)の若者だったこと。 
 そして、携帯から犯行予告ならぬ、犯行前中継がリアルに行なわれていること。
などが上られている。それで、いまの日本社会の若者文化やネット社会、そして格差問題と結びつけて、あれこれ語られているようだ。

 もちろん、個人の資質の問題もあろうが、個人の心理、内面の問題に矮小化するつもりもないが、かといって、あまりに短絡的に、現状の社会状況に結びつけて語るのもどうかとも思わなくはない。

 被害にあわれたの無念さ。その家族、親戚、友人の悲しみ、悲嘆。やりきれなさはどこに行くのだろう。同時に、加害者の、親御さんが泣き崩れて謝罪されている記事が出ていた。どうもその親世代に共感する年齢になったようで、どちらをみても、展望のない、やりきれなさだけが募る。

 阿弥陀様が、法蔵菩薩の時、四十八の願いを立てられた。一切の生きとし生きるものを救いたい、真の安楽の国、わが浄土に生まれさせてやりたいという大きな願いを誓ってくださっている。その第1願が、無三悪趣の願は、
「たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」。
 第2願は、不更悪趣の願は、
「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、寿終りてののちに、また三悪道に更らば、正覚を取らじ」。

 究極の浄土を誓うのに、まずは、衆生の、三悪道という究極の極悪の世界に、それに対する恐れ、不安、その苦しみをを取り除くことからを始まっている、その慈悲心のおこころの深さを味わうばかりだ。それほど、この世界は、痛ましく、苦しみや悩みに満ちているのだ。

 たまたま、今日は、仏青の法話があるが、25、6歳の同世代の皆さんが対象となる。どう味わい、考えておられるのかを、お聞きしながら、共に考えてみたい。車組は、8時すぎに一足早く出発。ぼくもこれから出ます。

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今週末の予定

 華光誌は、今日は、「巻頭言」と、「聖教のこころ」の原稿書きでした。

 せっかく、毎日、ブログを書いているのだから、なにかあるだろうと探してみると、結構いろいろ書いていて、迷うほど材料はある。すぐに、聖教のこころは、憲法十七条の「共に凡夫のみ」を、巻頭言は「へその緒」に決定。でもね、逆に早いようで、ここからが大変だったかも。ブログは長さの制約がないので、ダラダラしている。華光誌は、長さの制約がある。巻頭言はだいだい1000文字ほど。聖教のこころは、長いご文を引用すると、味わいの部分が、200字程度しか書けない。かなり刈り込み、削る作業となりました。そのうち、書きたいことが変わってきて、なんか妙に時間がかかっちゃいました。でも、さっき出来上がって、ムラ君のところへ。これで、週末の法座にも余裕が持てます。往復の車中で、本文の校正に目を通して、17日(火)には、渡せるメドが立ちました

 今週末の法座予定です。

共に、6月14日(土)、15日(日)の2日間です。華光会館での法座はありません。

1)ぼくは、仏青の集まりで、広島へ。
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/06/busseisyoka2008-6.htm

2)父は、例年、福井の家庭法座でしたが、今年は、金沢で、北陸支部法座が開かれます。新潟も含んで、新しい動きが起こっています。京都からも、何名か参加されるようですね。
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/06/hokuriku2008-6.htm

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華光誌の編集作業中

  宿泊の法座のあとは、とにかく疲れる。
 まず無事に終わったことで、ホッとする。当然、肉体的な疲労もあるが、これは、懇親会で遅くまで話しているのが原因だろう。「0時30分終了」の善知識の厳命を聞かないのだがら、当然の報いといえば当然だ。

 でも、それだけではない。支部法座の場合、法話の教案作りだけだが、会館の行事は準備もある。法座の前から、法話準備以外に、運営面の資料作りなど、あれこれと頭も使う。そして、終了したらしたで、あれこれ刺激を受け、興奮したり、落ち込んだりと、とかく精神作用がとにかく賑やかになるのだ。大きな皆様のエネルギーをいただくと同時に、強い放電もするので、疲労もある。ご法のあまりの広大さに、篤く法悦に浸ることもあれば、自己の愚かさに打ちのめされて落ち込むときも多い。だから、法座が終わった夜の睡眠は浅くなり、落ち着くまでは2、3日かかる。

 支部長研修会が終わった日も、疲れているせいで、ブログやネットでダラダラと遅くなってしまった。そのせいもあって、いまは体調がいまいち。鼻やせきが続き、ちょっと風邪気味である。

 それでも、すぐに華光誌の作業を急いでいる。先週の金曜までに誌上法話は終了したが、体験記や随想の記事の編集がまだだった。月、火、水の3日間は、電話相談を1、2件受けた以外は、華光誌三昧だ。法座の予定と横睨みで、焦り気味。頑張った甲斐があって、今夜中に、本文がすべてムラ君の手元に渡った。これで、あとは、「聖教のこころ」と、穴があいた「巻頭言」が残っているが、いまは構想段階。あれこれ迷う段階を過ぎたら、一気に書き上げられる。それが済めば、表紙関係と、校正作業である。広島仏青(14、15)、東京(18、19)、広島大会(21、22)と、地方の宿泊法座が続くので、なんとか、18日の東京法座の午前中までには仕上げるメドを立てたい。

 さて、もう一息です。 

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真剣勝負

 今回の支部長研修会の場で、先生から、ご法を伝える時、「こちらが刀を抜いたら、向こうさまにも刀を抜いてもらわねばならない」というお話が出て、自分なりに味わった。

 確かに、華光の法座は、真剣勝負の場だ。

 特に、自力他力の廃立(はいりゅう)の水際(みずぎわ)は、いくら知識があっても、頭で考えても、この身で飛び込まないかぎり、通ることの出来ない関門である。

 説く方も、聞く方も、真剣に向き合う。その厳しく問うことが、華光の強みである。

 そして、聞き手は、しばしば真剣の刃を抜きたがる。ほんとうは、名人ほど、滅多には抜かないのかもしれないが…。時に、ハチャメチャに振り回す場合もあるかもしれない。

 しかし、自分が刀を抜いた以上、相手の方にも、刀を抜いてもらわねばならない。ところが、しばし相手が刀を抜いたら、戸惑ったり、腹を立てたり、ご法の名でその刀を取り上げてしまいがちだ。

 斬るか、斬られるか。そこのところでしかご法は伝わらないのなら、こちらが刀を抜い以上、向こうさまにも刀を抜いてもらう。そして、斬っていただくのだ。

 「あ!」 一本とられた思いがした。

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凄い話

 組織という観点からみると、華光の集いは、少し世間とは異なる気がする。たとえば、世間の支部長のイメージには、ある種の幹部的な特権や、権威的な態度がつきまとうだろう。でも、華光の場合、むしろ逆である。各支部の自主性を尊重しているので、まず誰が支部長になるかも、各支部でご相談して決められている。その支部長の役割は、もちろんリーダーシップも大事だが、皆さんの声を聞き、皆さんのまとめ役に徹するなど、いわば縁の下の力的な仕事が多い。もちろん、自信教人信であるから、「自信」のところが、第一であるのは言うまでもないのだが、能力や資質以上に、御同行、御同朋と、「共に聞かせてもらっていこう」と姿勢こそが、尊いのだ。

 だから、今回の集いにしても、各支部の実状を丁寧に聞き会い、法座活動や支部活動を実践しているからこそ起こってきた、皆さんの悩みや苦悩を共に分かち合った。人間が、生身の凡夫が、ご法のことを真剣に願っているからこそ起こっている葛藤があるのだ。熱心な人であればあるほど、純粋性や法の厳しさを伝えずにおれない。そこで、ぶつかり合うことも多々ある。そんな尊い悩みも、それぞれの人間性や凡夫としての欠点が裏に隠れているから、当然、いろいろな行き違いや誤解、時には深く傷つき、ご法の場から離れて行く人たちも出て来る。しかし、それもまた、実はご法を聞く、尊い機縁であり、そんな現場での生の声に触れ、傷ついたり、悩んだり、時に憤慨したり、また落ち込み、かまく行かない力不足を歎いたりを繰り返しながら、ほんとうの自分の姿に気づかせてもらい、またご法に帰らせていただくかけがえのない貴重な機会なのである。そんな葛藤する皆さんの姿が、無条件に尊かった。

 皆さんのお声を聞かせていただくうちに、まるまるぼく自身が抱えている問題にほかならないなーと思えたきた。もし、時間が許せば、ぼくの悩みを聞いてもらいたいほどだ。もちろん、他人の問題だから、少し冷静に聞かせてもらえるし、いい解決策もいろいろと浮かんで来る。しかし、即効性のある解決策を提示するより、共に考え、悩みやつらさを共有しあえるところに、つらさやまどろこしさもあるけれども、そのプロセスを大切に進行できたことも、また尊かった。

 それにしても、皆さん、いかに自分たちのご法を聞く場を大切にしようと、真面目に考えてくださっていた。繰り返しになるが、ほんとうにその姿が尊かった。ご縁の出来た人を尊重し、末永くその法友と共に、真実を求めて行きたいとの姿勢が、有り難い。もっとも、おかしなぐらい、組織を大きくしようとか、新しい方を積極的に勧誘しようとかいう、意識は皆無である。だから、研修会といっても、集金や人集めのノルマも、勧誘のためのノウハウも、何一つない。そこは潔いほど見事である。あまりの潔さに、少しはなんとかならんかと思うほどだが、それだけご、大きな野心をもたず、ご法一筋で歩んできてくださったのが、華光の集いなのである。

 それでも、旧態依然として、古いものだけにしがみつく気はない。時代としての刻々とした変化や、社会に開かれた集いであるためには、変わっていくこと畏れず、その努力も惜しまないのだ。

 それは、何かを握ったり、すわりこんだり、固着するのではなく、常に、破りながら、お聞かせに預かっていく。常に、葛藤しながらも前に歩ませてもらう、聞法の態度にも通じていく。

 もし、そのことで、内外からの、華光やぼくに対するご批判や中傷があったとしても、不思議なことに、ぼくの中には、これまでも、そしてこれからもその歩みにおいては、ご法に対して恥じたり、やましいことは何ひとつない。そう言い切れるものがある。

 そんなことを自信をもって言い切れる身になったことが、自分でも不思議だ。心配性で、貧乏性で、傷つき易く、なかなか難しい人格の持ち主でしょう。欲も、怒りも、満ち満ちている。仏法なんか、大嫌いな典型的な泥凡夫(そう言い切れる自信もマンマンにある)。虚仮不実の身が、このご法に対してこれほど自信があるのは、どこから起こってくるのだろうか。これまで歩んできたことも、これからめざしていくことも、ただ仏法広まれの願い、ただ一つである。そのために、自分も、またお同行も、大切にしていきたい、ただそれだけである。その一点においては、間違いなく立たせてもらい、そう歩んできていると言い切れるだけの力をいただいているのだ。これは、あまりに凄すぎないか。

 あいかわらず、些細なことに悩み、ウジウジ凹み、怒り、しんどくなる。つまらんことで有頂天になり、目先のことに一喜一憂するのが、ぼくの大切な日課だ。いや、それしかないといい切ってもいい身の上に、凄いことが実現している。

 これゃー、どうやら、ドエライすぎるものをお聞かせに預かったようです。

 皆さんの力をいただいて、こんなところに立たせてもらっている自分をを、改めて聞かせていただきました。

 南無阿弥陀仏

 南無阿弥陀仏 

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心配性(?)

  原因は思い当たるのだが、数週間前からブログのアクセス数が増えている。でも、ここ数日はいつもどおりに落ち着いてきて、実はひと安心(?)していた。それが、伝道研究会が終わり、ブログをチェックして、ちょっと驚いた。1日だけで、2000近いアクセスがあって、いつもの10倍近い数だ。

  一つはこれ。NHKの番組で、少しだけ「国嶋療法」を実践していた100歳の方(http://www.nhk.or.jp/100banzai/file/2008/0315/index.html)のご縁を通じて、国嶋療法の情報を提供させてもらった。その再放送があったようで、その線で検索された方があったようだ。(このHpには国嶋療法の文字ないが)、その経緯は以下にある。↓
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_67cc_1.html

 でも、その数は少数。大半は、東京で、かなり大量にご覧いただいた方があったようだ。まあ、楽天的にとらえて、御礼申し上げておきましょう。「ようこそ」。
 でも、原因がややこしいので、「大丈夫かな」と、考えなくもないんですがね。
 要は、貧乏性で、心配性で、根っからの小心者ということでね。

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改めて、広島「真宗カウンセリングWS」

「第1回・真宗カウンセリング・ワークショップ」ご案内 

◎参加費と、申込み方法が決まりましたので、参加要項をご案内いたします。

【参加要項】 

(日時)7月13日(日)14時~7月15日(火)16時
(2泊3日)

場所)『神田山荘』 (広島市東区牛田新町)

(世話人)松岡宗淳(龍谷大学相談室カンウセラー)
 増井 信(真宗カウンセリング研究会事務局長)

(費用)参加費18,000円(研修費、会場費など)
必要な方は、
宿泊費(3820円)、朝食(800円)、夕食(2200円)(昼食は各自)の各2回分をお申し込みください。

(定員)15名(ただし7名に達しない場合は中止)

(申込先)広島真宗カウンセリング学習会窓口 岩崎様

上記「広島真宗カウンセリング学習会」クリックし
2008年7月真宗カウンセリングワークショップのご案内  見る・印刷する(PDF436KB」から、案内書が入手できます。

◎華光会館にも、案内書(申込書)がありますので、必要な方はお申し出ください。

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『タクシデルミア~ある剥製師の遺言』

「なぜ、人は夢をみるのだろう?
 なぜ、人は食べ続けるのだろう?
 なぜ、人は永遠の命を求めるのだろう?
 ……人間の欲望は、この世でもっともおそろしい」

という意味深のチラシに惹かれて、みなみ会館へ。日付が跨がるレイトーショー。ハンガリーの猟奇的映画だ。刺激的な映像が続いたわりに、不思議と不快感は少ない。良質のしっかりした映像なので、グロテスクさが際立つより、アートとしての美しさを感じる映像も少なくなかった。摩訶不思議な時間がすぎて、出口に向かうと、どこかで見覚えのある人がいる。あれ、もしや禅僧のゼンゼン君じゃないですか。やっぱり、この手を映画をしっかりチェックしておるなー。

 映画の題名は『タクシデルミア~ある剥製師の遺言~』。ハンガリーの三代にわたる大河ドラマ。ここでも取り上げた『太陽の雫』という映画があった。帝国時代、ヒットラー政権下、そして共産主義政権下と、現代…時代の激流に翻弄されたユダヤ系ハンガリー人の4代の男たちを取り上げ壮大な大河ドラマだった。それが正統な流れの物語としたら、こちらは完全にアウトサイダーの壮大さがある。 

というわけで、この先、映画の性格上、一部の方には、性的表現や肉感あらわな不快な表現も含まれます。興味のある方だけお読みください。●▲■◆

Taxi  まず、商業映画でも、芸術的であれば、ここまでの表現が許されるのだなーとも感心した。男性器が何度が丸出しされる。4文字隠語(もちろん、ハンガリー語なので分からない)を連発する男。食べては吐き、食べては激しく吐きまくる映像。さらには、剥製づくりのための内蔵の解体など…。国際的に高い評価を受け(カンヌ国際映画祭正式出品、2007年アカデミー賞外国語映画部門ハンガリー代表)、サンダンス=NHK国際映像作家賞を受賞しながら、残念ながらNHKではいまだに(たぶんこれからも)放映されていない。こう書くと、なにかグロテスクな悪趣味映画みたいに思われるけれど、まっとうな映像と脚本で、命の負の一面に鋭く切り込みを入れて、ある種、衆生の生の根源を浮かび上がらせる、一筋縄ではない映画なのだ。

20071221  1)戦時下。祖父の話。奴隷のように上官の家族にこき使われる男。ブタ小屋で畜生のような生活をしている。ローソク火のフェチ。娘たちをのぞき、空想の童話の世界で、マスターベーションに明け暮れている。男性器が火を噴き、さらに発射したものが天高く星になっていく。そして、最後は、ブタのような(ブタの解体、丸焼きとリンクする映像)上官の女房に誘惑され、彼女が妊娠して不倫がばれ、上官に頭をぶち抜かれて死んでいく。なんとも、不条理なシーンが続く。でも、どこか憎めないキャラでもある。

 2)共産党政権下。父の話。不倫の子は、なぜかブタとして生まれ(ブタのシッポがついてた)、やがて大食いという驚異の才能で頭角をあらわす。社会主義国では、フードファイターが、国家をあげて養成されていた。かなりシュールな設定で、ユーモアに溢れていて、ヘンなのだ。でも笑うより、共産主義化体制への強烈なアイロニーに見えて、真面目に受け止めてしまう。それほど、命懸けの苛酷な訓練、国の威信をかけての戦いが続く。まもなく、国際オリンピック委員会でも正式競技に採用されようかという話題で、彼は世界一をめざしている。ここでは、食べるという行為と共に、激しく嘔吐する行為が、あわせ鏡のように描かれている。食べては吐き、吐いては食べるの繰り返しだ。このシーンも大迫力で、生々しい。しかし、巨漢の男は、ユーモアにあわれたキャラでもある。
 そして、巨漢の女性チャンプとの熱愛の末、結婚するが、二人には似ても似つかぬ息子が誕生する。

 3)現代のハンガリー。息子の話。それまでは、苛酷なのに、ユーモアがある映画のトーンが、さらに暗く、猟奇的なものに代わる。祖父や父に比べて、剥製師の息子がなんとも薄気味悪いのだ。そして、化け物のように太った父と、独自の技術でつくった剥製に囲まれた空間が舞台になる。

 この3世代の男たちは、みな悲劇的な死を迎えるが、性(空想)、食、そして永遠の命という、人間の根源的な欲望を極めている。それは、性器(性欲)、食と嘔吐(食欲)、そして内蔵(肉体)もそうだが、平時は表面的に隠されていながらも、実は、人間のすべてに内在している生の本質(物質的だ)を抽出し、デフォルメしながら、芸術的な表現で描かれているんじゃないかとも思った。同時に、各時代へのアイロニーもあるのかもしれない。

 ラスト。父と、悲劇的な別れをした息子は、父の剥製を造ると共に、誰も想像だにしない究極の剥製(永遠の生を得るため現代のミイラ)を生み出すのだった。
 それを見届けたのは、秘密裏に胎児の剥製を依頼した医者だった。
 誕生から死まで、男三代の怪奇譚は終わった。

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真宗カウンセリング・ワークショップのご案内

「第1回・真宗カウンセリング・ワークショップ」ご案内 

<真宗カウンセリング研究会
  広島真宗カウンセリング学習会共催>

(ご案内)真宗カウンセリングの創始者、西光義敞師は「真宗カウンセリングは、人間が真に人間になる道である。南無阿弥陀仏の法を中心として、あくまで『いま・ここ』の交流関係を重んじる援助的人間関係である。
 その関係においては、真宗者であるカウンセラーと、非真宗者であるクライエントの場合は、外見上は、一般のカウンセリングとほとんど変わらない。
 クライエントが真宗者である場合は、共に真宗の教法を聞くという関係となる。また前者から後者へと進行していく関係もある」と述べられる。 
 真宗カウンセリングワークショップは、真宗とカウンセリングに深く学んでいる世話人と参加者との、あるいは、参加者同士の「いま・ここ」の交流関係を通して、共に「真の人間になる道」を歩んでいくことを、めざしています。
 具体的には、それぞれの人生を引っさげて「いま・ここ」に湧き出るそれぞれの思いを、気持ちを、出し合い、聞き合い、理解し合って、心のふれあいを行っていきます。
 関心を持たれる方ならどなたでも参加していただけますが、現在、精神医療的援助や心理療法、カウンセリングを受けている方は、担当の医師やカウンセラーの承諾を得た上でお申し込みください。

【参加要項】 

(日時)7月13日(日)14時~7月15日(火)16時
(2泊3日)

場所)『神田山荘』 (広島市東区牛田新町)

(世話人)松岡宗淳(龍谷大学相談室カンウセラー)
 増井 信(真宗カウンセリング研究会事務局長)

(費用)2泊6食の宿泊費と会場費が、2万円程度。それに、参加費が加わりますが、詳細は分かり次第、ご連絡いたします。

(定員)15名(ただし7名に達しない場合は中止)

(申込先)広島真宗カウンセリング学習会窓口 岩崎様

◎華光会の法座ではありませんが、華光の皆さんも、ぜひ、ご参加ください。ただ、ご案内が遅れております。日時や内容を確認のうえ、予定を入れておいてください。料金などの詳細は、またお知らせできると思います。例年、この時期に、講演会と体験学習会が、広島で開催されてきました。門徒さんとの新しい関係、これからの新たな伝道布教を模索する浄土真宗のお寺さんに、真宗カウンセリングを知っていただく絶好の機会でした。それが、これまでの広く、浅くから、少人数でも、深く真宗カウンセリングの真髄に、体験的に触れていただきたいとの思いで、今回の集いが企画されました。その意味では、正直、華光同人だけが集うのならあまり面白くないですね。また、広島の僧侶の方だけでも、やはり同様。広島お寺さん、華光同人、在家でもカウンセリングや真宗に関心のある方、いろいろな立場から、真宗に関心があったり、またはカウンセリングに関心があったりするさまざまな人達が、出会う場を提供したいと願っております。

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『かつて、ノルマンディーで』

  『かつて、ノルマンディーで』(原題の直訳なら 『ノルマンディへの帰還』)。フランスのRetourennormandie_01 ドキュメンター映像作家、ニコラ・フィリリベールの作品。この人の作品を劇場で、最初に見たのは『ぼくの好きな先生』だった。フランスの田舎町で、学年を縦割りに、幼稚園の年長から小学校の高学年までが同じ教室で、ひとりの先生が担当する、そのクラスの日常を、丁寧にカメラが追いかける。ラストのシーン、ほんの瞬間だか、とても暖かいものが胸に去来したことを覚えている。

  最近、「○○の品格」などという使われ方をよくみる聞くけれど、このドキュメンタリーは、なかなか品格の高い一本だと思った。けっして、特別なことはおこらないけれど、重層的な、多彩な視点に支えらた、静かな、後味のいい余韻が残った。ただ、抑揚の少ない静かな映画が苦手な人には、お勧めできないかも…。

 ノルマンディーと聞くと、すぐ「上陸作戦」と反射的に言ってしまう。少し考えると、世界遺産のモン・サン・ミッシェルも、ノルマンディー地方だなーとなる。死ぬまでには、ここも行ってみたいところの一つだ。美しい海岸線と、田園風景というイメージがあるが、そのノルマンディーの片田舎が、映画の舞台。静かな豊かな田園風景が広がります。

 冒頭、豚のお産のシーンから始まる。母ブタの産道から子ブタが産まれて出る。ところが、産まれてきたものの、生死ギリギリの命もあり、人間が(かなり乱暴に)ショックを与えたり、心臓あたりをマッサージする。なんか、ドキドキしましたね。まだ、タイトルも出て来ていない。

 お話は、今から30年前。この監督が、助監督時代に、この田舎村で地元農民を使って映画を撮影している。その時の出演者たちに再会するというもの。そう聞くと、30年ぶりの回顧的な映画かというと、ことはそんな単純ではない。

 まず、1835年、ノルマンディ地方の小さな農村で、農家の長男が、母と弟妹を惨殺するという猟奇的な事件が起きた。犯人の青年は、無学でながら、犯行の一部始終を美しい(実物がでる)手記が残している。精神鑑定にかけられ(きわめて初期の鑑定の一例だろう)、結果は無罪、有罪、極刑と見事に割れたが、結局、死刑(すぐに恩赦で終審刑)になる。その後、刑務所内で自殺するというのである。

 それから130年以上たった1973年、哲学者ミシェル・フーコーは事件を「狂気と理性」という本にまとめ、これを原作にして、フランスの映画監督ルネ・アリオ(彼の師匠ね)が、『私ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』という映画を造ることになる。(フーコー自身も出演シーンがあったそうだ。でも、世界中で、この監督も、この映画もまったく忘れられている。日本では公開されていない)。 
 しかも、事件が起きたノルマンディ地方で、出演者のほとんどが地元の農民を使って映画を作ったのだ。その助監督として、現地で出演者を集めなどに奔走したのが、若き日のニコラ・フィリベールだった、というのである。

 そして、フィリベール監督が、30年ぶりに撮影現場を訪ねて、当時撮影に協力した人々と再会するシーンと、30年前の映画の断片が交錯して引用される。撮影が行われた当時の状況と、今が静かに対比されていくのだ。

  片田舎の人達には、映画に出演した経験は、単なる思い出以上に大きい。残酷な暗い映画だが、そのメイキングは実に暖かく、微笑ましい。ただ、30年の歳月は、特に残酷な一面も残している。みな、さまざまな人生を歩んでいる。微笑ましくユーモアたっぷりの幸せそうな家族もある(このシーンは実に楽しい)。一方で、その後、娘が精神を病む、献身的に介護するも、疲れ果てた様子の夫婦もいる。映画に出たとを誇りに生きている人もいる。映画の世界に飛び込み、人生が変わったものもいる。また、自ら、病に倒れて不自由な生活を送る人もある。さまざまな人の歩みがあるが、大小その痕跡は違えども、この村の人々に、なんらかの影響を及ぼしているのである。

 と同時に、30年間、変わらない日々の生活が営々としてつづいていく。日は昇り、水は流れ、豚は子を生し、果実は実り、豊かな恵みが与えて続けている。豚を屠畜するシーンがある。庭先で、嫌がるブタ(あきらかに察して、荷台からおりない)引き釣りおろし、ハンマーで脳天を一撃する。痙攣し、泣き叫ぶ喉元をナイフで切り、放血をする。痙攣し続ける。そして、内臓を裁いていくる。たぶん、30年前と変わらない風景であろう。

 ところが、30年の歳月は周りの状況を、大きく変えつつつある。農村地帯に、核廃棄施設の建設計画がおこり、反対運動がつづいている。商業的なファンドに買収されて、良心的な映画を作りの環境も厳しくなっている。

 過去と現在、30年前と160年前とが、さまざまなシーンで交錯していく。主役を降ろされた男には会うことが出来たのに、肝心の殺人鬼を演じた主役の消息が分からない。さまざまな噂があるが…。彼は、その後、どのよう人生を歩み、いまはどうしているのか? 最後に、彼が意外な格好で登場する。そして、30年前ではなく、160年前の彼が演じた殺人鬼に対する思いを語るシーンがよかった。この人生、人間の力で、単純に白か、黒だけで量ることなんか、ほんとは出来ないのだなー。このノルマンディーの自然がそうであるように、もっと彩色豊かで美しい世界なのではないだろうかなー。

 そして最後に登場するのが、この映画に出演するもカットされた、フィリベール監督自身の実父の映像……。しかし、父の声は流れてこない。ここにも、隠されたテーマがある。

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これが噂(?)の会計体操

 いま、九州法座から帰って来ました。

 新しい方はなかったけれど、新しい会場で開かせてもらいました。今年度から華光の会計・税務業務をお願いしている山﨑さんの事務所でのご法座でした。昨年まで、税務のお仕事をお願いしていた先生も、事務所でご法座を開いてくださっていました。奇しくもという感じですね。ほんとうに有り難いことです。

 そのあと、「あり多」で、皆さんと会食をしてきましたが、その折、「ゆうこさんの映像も紹介されたのだから、会計体操も紹介しませんか」とお勧めがありました。ご本人も快くご了解があったので、皆さんにご紹介しましょう。ご夫婦で作詩作曲されて、振り付けも高名なプロの方にお願いされているそうです。奥様のってられますね。何でも、近々全国ネットでも放映されるそうです。

 http://www.yamasaki-cpa.com/taisou/index.html

 こちらは、会計体操新バージョンで、その名も「ラップ会計体操」♪。
旧バージョンの「会計体操」も、youtubeにありました。前後にもいろいろあるようですね。

  http://jp.youtube.com/watch?v=B8ApJ5krf_U

  なんでも、人生や仕事、家庭にはストレスを感じないそうですが、ご法座にお参りすることだけは、憂鬱で、ストレスを感じておられるようですね。仏法も、こんな感じで、聞法できる日がやってくるといいのにね。

  華光も、法座の前にリラックスがいいかもね。身体が緊張していては、ほんとうは、聞いたり、話したりがうまく出来ないんですがね。そこが案外盲点になっている。聞法体操を考えないといけないかもなー。

  「♪堕ちる、堕ちる、真っ逆様。 因果の道理で真っ逆様」
 
おっと、これじゃ、余計硬くなって逆効果か。

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