元徳寺での法座~私の後生の一大事~
さて、今回は、子供大会からの二十歳の求道中の女性と、初めての二人連れの主婦の方が積極的に質問されて、法座をリードされた。この姿勢はいい。わからないことをどんどん尋ねていく。普通は、「そんなことも知らんのか」と思われるんじゃないかと恐れて、分からなくても、分かった顔をして座っておられる。でも、恥かくのを恐れては意味ない。いいカッコしているうちは、獲信とか後生の一大事なんていっても、口先だけやね。その点は、初心の方が早い場合もある。その内、質問も外側から、だんだん自分の内へ。さらにその内も1段、2段、3段と掘り下げていくと、自己を内省できるようになっていかれるでしょう。まだ、真剣にメモや録音をされる段階だけれども、ほんとうに自分のことになってきたら、メモなんてとってられない。「帰って確認しよう。また見よう」というのは、一見、熱心な姿に見えて、無常や後生の一大事が口先だけの自分を知らせてもらえるいいご縁。
いたいだ御礼のメールからも、深く感銘を受けて、仏法が自分の問題として聞くように、方向転換されておられるようでした。よくぞ、「求める」ことを教えてもらわれたけれど、今度は「捨てる」ことを聞く。きれいごと、有り難いところ、勇ましいところではなく、自分の虚仮不実の姿を聞かせてもらいましょうや。
さて、今回は、輪読法座で、本文に、『「仏教をめざすもの」は何ですか?』との質問があるので、皆さんにお尋ねした。
すると「転迷開悟」とか、「仏に成る」とか、「目覚める」とか、「後生の一大事」の解決とかの回答が出された。ある方が、「この主語は何ですか。仏教一般なのか、私がなのかで変わってくる気がする」と仰った。実は、そこが一番大切なポイントなんですね。でも、主語のよって答えが変わるのではなく、仏教の主語は、いつも「私」なんです。だから、「「転迷開悟」や「仏に成る」だけでは、答えは不十分(テストなら点数がもらえるけどね)。ぼくは、仏教のめざすものは、「私が仏に成る」「私が目覚めをする」という、「私」が抜けたら意味がないし、そう聞かない限り、聞法にならないと言いたい。いま、ここにいる私が、またしても迷いを繰り返すのか、「仏に成る」のかの一大事がかかっている。ここでしか聴聞はない。それが、いま、ここで、南無阿弥陀仏という姿で、この凡夫の私の上に実現していくのが浄土真宗なんです。ここが尊い。同時にここを軽く聞いていては、枝葉に触れるばかりで、肝心の仏教の核心には触れていかない。
要は、私の後生の一大事じゃないですか。落ちていくのは、ほかならんこの私以外にないです。人のために聞くのでも、「○○がどうの」、「誰々に××といわれのた」の、「先生は、私のことを分かってくれない」などと、とかく凡夫の聞法は責任転嫁で賑やかですなー。でも、誰が聞くんですか。私の後生の一大事が解決に、他の人は用事のないわな。親のためでも、先生のためでも、地位や肩書で聞くのでもない。生まれたきたままの裸のこの私にしか、南無阿弥陀仏は届いてこないんです。そして、それだけの仕組みがハッキリできている。
すると、ある方が、「聞いた時はハッとするけれど、すぐに忘れていく。こんな私でも、ほんとに聞けるんですか」と仰った。ぼくは、キッパリ「聞けます!」とお答えしました。なぜなら、私が聞く前に、すでに、如来が私のことを聞いてくださっているからです。自分の方に値打ちや働きがあるのなら、能力に優劣が生まれるでしょう。受かる人も落ちる人もある。でも、浄土真宗は、他力廻向の教え。如来様の方に、凡夫を救うという仕掛けが出来上がっている。それを南無阿弥陀仏として廻向してくださる。「どうか聞いてくれ」と頼んでくださる、南無の心です。そのお救いの仕組みがある。そのおこころをお聞かせに預かる。私をお目当てにした、私ひとりを、必ず、救ってみせるという大悲の願いがあるので、こんな凡夫にでも、「聞ける」んです。じゃ、なぜ分からないのか。私自身が耳を塞いでいるだけ。つまらん計らいばかりで、そのお心を聞いていないからなんですね。「南無阿弥陀仏はミチミチていますよ」と申し上げました。
さらに、別の方が、「でも、私には南無阿弥陀仏が見えません。どこにミチミチしているんですか。法蔵菩薩のお話を聞くんのでか」という意味の質問をされた。
「まあ、この腐った凡夫の目で見えてどうするのかね。目つぶれますわ。でも、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」この仏様の名乗りが聞こえるでしょう。これが証拠。響流十方として、「お前を救うぞ」の声が、十方のありとあらえるところに轟きわたり、この本堂にもミチミチていますよ」と。
最近、その南無阿弥陀仏に会われた方が、「ほんとうにミチミチているんです。この畳みも、柱も南無阿弥陀仏さま。ほんとうなんですよ。不思議やなー」と、しみじみと仰ってくださった。そのお言葉が、尊かったことか。南無阿弥陀仏。
「無漸無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ」
「南無阿弥陀仏」ひとつで、満ち足りる世界が、ここにある。
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