功徳のうしほに一味なり
永代経法要法座、終わりました。このところの華光大会や永代経法座に比べると、お参りがかなり少なめでした。たぶん、当番の支部の方の宿泊が少なかったのと、急なキャンセルが多かったのもあるでしょう。でも、その少数精鋭での当番支部の方々と、他の地域の助っ人の皆さんも、献身的にお世話くださいました。ありがとうございました。
初めて九州のT先生のもご法話をいただき、聞かせていただきました。ご自分の信仰体験に留まらず、教義的な押さえもしながら、お取り次ぎくださいました。その中でも、2点。実生活で、親に反抗しながら、実はうまく愛情を表現できず、もしくはその距離が保てずに、傷ついけあいい、いがみ合って、憎悪の最悪の悲劇をもたらしていく。でも、それは今生の親子関係だけではなく、実は阿弥陀様との関係そのものでもある。しかもです。その王舎城の悲劇は、たんに、アジャセと私が同じというレベルという味わいを踏み出して、時空を遡り、まさにその悲劇の引き金を引いているのは、いまのこの私に他ならないという深い味わいを聞かせてもらいしました。そして、最後に、悟朗先生に随順し、そのみ教えを「聞く」ことに徹しておられるM先生を、お手本にされていこうという謙虚な姿勢にも、深く感銘を受けました。そのときです。ぼくの中で、急に、M先生のお姿が釈尊に付き従う阿難尊者そのものに、はっきり見えてきました。まさに、ここも時空をこえていた。そのお姿の尊さに涙せずにはおられませんでした。まさに、阿難尊者は、「如是我聞」の御方にほかなりません。
最終日の朝には、総序の文から、大経の心の「海」(光)と、観経の心の「逆謗闡提」、そして小経の心の「転・成」の言葉をキーワードに、かなり熱く味わわせていただきました。いくら数字を並べても、×ゼロは、ゼロなんですね。前の数字をいくら大きくしても、いくら位をあげても、ゼロはゼロなんです。でも、仏法をきけば、ゼロでなくなると思うんですね。おそろしい。ゼロをそのままゼロとお聞かせ預かるだけなのに、立派な数字を並べることに腐心しているわけですね、自力ともしらずに。でも、そんな私に南無してくださっているんです。その南無のこころのお働きで、同一鹹味、不宿屍骸の本願海の広大無辺の働きに帰られていただく。誰が? 凡夫の悪業をもったこの私のままでです。勿体ないですねー。グズグズしておれん。少しは、皆さんにも、その熱が伝わっていくのが感じられました。
すべてが終了し、最後に支部長さんにごあいさつをいただきました。いえ、あいさつではなく、光明に照らされた自己内省からの尊い尊いご法話でした。私がご法話を聞かせていただく、法水を浴びせていただくための、さまざまな犠牲(今回の当番ひとつにしてそうです。お世話役の方はそのためにご法話も聞けず、座談も上の空。懇志会では、飲み屋のきているように、準備ができているのは当たり前という態度)の上でしか聞けない私の愚かさをお伝えいただきました。
そして、いつもそう聞かせていただいていますが、その中に、「私が親を選んでこの世に出てきた」という言葉がありました。自分の中に、ズーンと入ってきて、ハッとしましたね。それは、T先生のご法話にも通じました。どこかで、責任転嫁しているんですね、親に。でも、実は、自分が選んでいるです、すべてを。そう聞かせいただくと、なにか落ちるものがありました。
でも、いまは、疲れていて、ちょっと放心というか、ブルーな気分もありますね。攻撃には弱い、傷つきやすい自分がいますね。ここらあたりは微妙な、繊細な心なので、今夜はこのヘンにしておきますが、まあ、せいぜい、自分を責めたり、自己攻撃しないで、じっくり(自分で)自分を聞いていってあげたいですね。
いまは、「不足は、不信心なり」。華光では聞くことが珍しい、清澤満之師のお言葉を、さまざまに味わっております。
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コメント
本当に本当にありがとうございました。
自分の口から出てきて下さる「なんまんだぶつ」の呼び声に泣かずにはおれませんでした。
沢山の人に支えられ、自分が生かされ、聞かせてもらってるんだと身をもって実感しています。
本当にもったいない事です。
いつも愚痴ばかり言ってごめんなさい。
無理せず、私らしく、私の出来る事を私のペースでやっていきます。
支部の活動も張り切って頑張っていくからねー。
投稿: 蓮華 | 2008年5月 6日 (火) 16:30
だって一味なんだものね。
投稿: かりもん | 2008年5月 6日 (火) 17:23