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「話すことは放すこと」もしくは「如是我聞」

 輪読法座。見慣れぬ学生さん風の男性が入ってこられた。若い男性だったので、てっきり、例によってあの関係の参詣者だと思ったら、見事に予想ははずれ。本願寺派のお寺のご子息、ある仏教学院の学生さんだった。いま、在学中の同人の方のお誘いで、2名参加してくださった。今回は、福井や神奈川からも参加された。2人の初参加者を含め、みな20代~30代前半の男性だ。

 輪読法座は、小見出し毎に、もしくはまとまった2、3つを、まず声を出して読み、わからないこと、疑問点を尋ね合い、次ぎに要点を押さえたり、感じたことや味わいを話し合ったりを中心にする。そして、そこから発展した話題に移っていく。

 今回は、ぼくと世話役の方、そして中心者の女性だけがやたら元気(元気すぎ!?)で、なかなかお若い方の声が聞けなかった。 
  もちろん、個人の資質もあろう。また座談会の形式に慣れていないこともあるだろう。だいたい、本願寺派の大半のお寺や、例の会にしても、自由な座談会形式というものは、極めて少ない。一方的にお説教聞くか、連研のようにテキストやテーマにそった学習会はある。でも、輪読法座や華光の座談会は、学習会とは違う。飾って、空気を読んだ優等生的な発言は、逆に浮いてしまう。
 
 それでも、空気を読み、いい意見や意味のあることを発言しようと力んでおられるようだ。発言がないと、「何かありませんか」とか、「どう感じた?」とか促しをうける。さらに発言がないと、質問する側も、なるべく具体的な点に絞って尋ねていくから、答える側は、「よい答えせねば」と焦って、ますます汲々と、トンチンカンな答えになることが多い。

 これはお若い方に顕著だけれども、たとえ、発言が出来る男性でも、会社や社会で活躍されてきた方で、今まで身につけてきた社会的会話とのギャップで、信仰座談会で苦戦される方も多い。なかには、腹を立ててお帰りになった方もあるが、だいたい社会的に地位の高い方が多いようだ。なかには、「テーマがないと議論できない」とか、「女性の方は、愚痴ばかり話しておられるが、どんな意味があるのか」など言われる方もあった。

 「話す」(発言する)ということに焦点があたっているのだが、もし思うが如く「話したい」のなら、肝心なのは、実はよく「聞く」ことなのである。そういうと、だいたい、「いや、私は聞くことは得意(もしくは好き)だが、発言しろといわれると、頭が真っ白になります。だから、聞くだけならいいが、発言せよといわれると困る」とおっしゃる。

 でも、その「聞く」こととは、「黙ってそこにいて、漠然と耳にはいてくる」ことではない。もっとアクティブに、「積極的に聞く」ことを言う。そして、実は、「聞く」ことが出来るようになると、「話す」ことも、必然的に出来るようになってくるのである。インプットされるばかりじゃ、容量オーバになるでしょう。入ったものがあるから、アウトプットできて、バランスがとれるわけ。それに、「話す」ことは、「放す」ことなんですからね。自分の思いや考えにこだわり、握っていると、なかなか「放す」ことは難しいですよ。第一、目一杯の入った容器には、もうこれ以上、新しい情報をいれる余地がなくなるから、実は「聞く」ことも出来ていないはずです。

 「聞く」こと、「話す」こと。誰も出来ていると(特に、聞く方は)思っている、コミニケーションの基本中の基本だけれども、実は、法座での「話したり、聞いたり」することは、ある種の技術(ただしマニュアル的ではなく)身につくワザ(技)、コツのようなものだと、ぼくは思っている。もちろん、ある程度の個人の資質の違いはある。経験の差も大きい。しかし、法座は、知識をたくさん得ている人だけが、意見や考えを議論し合うためのものではない。お互いが、いま、ここに、私になって、聞き合い、話し合っていく。いま、ここに、生きて届く、今現在説法に、耳を傾けていくわけでしょう。

 そのためには、座談に身を置き、実践し、その技を身につける以外に道はないんです。生きた教科書がたくさんあるもの。最初は、不自然で、自分ではないみたいだけれども、意識的に、先生や司会役のお同行さんの態度や姿勢を「まね」ていく。どうように、答えておられるか。どうように相手の声を聞いておられるか。自分の身に引き受けて、ひたすら学び、真似ていくんです。学ぶことは、真似ることなんですからね。それなら、少しでも、いいお手本を真似たほうがいいのに決まっています。そして、実際に、自分も実践してみればいいんです。そして、聞いたところを、聞いたまま、答えていけばいいんです。「私は、このように聞かせてもらいました」。あ、これって、如是我聞じゃないですかね。
 態度
(知識ではない)や姿勢が身につくまで、繰り返し、繰り返し実践して行きましょうや。

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コメント

永代経法要の初日にお邪魔した、「例の会」の者です。
覚えておられますでしょうか?
その節は大変失礼致しました。
「例の会」の者にとって、耳の痛いお言葉ですね。
確かに、例の会の先生のご説法は一方通行ですね。
朝10時から夕方4時まで、ご説法されます。
昔は、挙手しての質問ができました。
それが、紙に書いての質問に変わり、それも無くなりました。
今でも、紙に書いて質問できますが、1日に1~2問、時間をかけて詳しく答えて下さるので、沢山の人の質問には答えて頂けません。
その質問にも、検閲があります。
人数が増大しているので、仕方がないのかもしれませんが。
例の会でも、最近は「信心の沙汰をせよ」と、やかましく言います。
各支部毎に、20~40人位で、沙汰をします。
細かく分かれて、10人位でしょうか。
沙汰と言っても、聴聞の復習か、講師の一方的な話になってしまいます。
「物を言え」「寒なれば寒、熱なれば熱」とは言われていますが、「前向きな発言をせよ、後向きな発言はするな」と言われますので、皆さん優等生発言をします。
我がここをみれば、真実の心など、微塵の欠片もないので、まさに「心口各異、言念無実」です。
自分の心に従えば、愚痴となり、後向き発言と言われ、ともすれば批判となってしまいます。
その為に優等生発言をする人が多いのです。
真実の言葉で自分を縛っていく事も、大切な事です。
しかし、人間の心は続きませんので、いつか破綻します。
真面目な人間は、途中で倒れてしまいます。
残る人は、本当に真面目な人間か、私みたいな不真面目な人間だけです。
小グループに分かれて沙汰をする時、立場上私が中心となって話を進める時もあります。
例の会では御聖教のご文を大切にするので、いつの間にか教学勉強会になりがちです。
もっと、自分の言葉で話あえたら、と思います。
私は例の会の教えに間違いはない、と思っています。
たとえ何千人にご説法されても、1対1と思って聞く様にしています。(これも優等生発言でしょうが)
今度お邪魔する時は、前もってご連絡します。
もし、歓迎して頂けるなら、またその内にお邪魔するかもしれません。

投稿: 淀川コナン | 2008年5月23日 (金) 22:31

よくいらっしゃいました。
そうですか。例の会の、例の方ですね。よく覚えています。
頑張っておられるようですね。不真面目というのは謙遜でしょう。
真剣に後生の一大事を求めておられる方とお見かけしました。もうつきつめていくと、そこしかないですからね。どうぞ、またご縁がありましたら、ご法座にお参りくださるとうれしいです。
 そう、結局、いま、ここの私に届いている、南無阿弥陀仏を「聞く」のか、「聞かないのか」。それだけやものね。常に、いま、ここ。そこに私が立ち返ったとき、肩書も、立場も、所属も関係ないものね。

投稿: かりもん | 2008年5月23日 (金) 22:58

ずーっと、座談で何を言葉に出してよいか混乱していました。
「そのまま聞くんだ」と言われたら、「そうですか」と「そのまま聞く」ように成ろうとし、
「自分のところで」と言われたら、「自分の気持ちばかり」に目を向けて、そのたびに、「違う」と言われるけれども、
どう、違うのか、何が違うのかわからなくて、ただただ、「違うと言われないようにしよう」ということばかりに注意して、
とにかく「口に出すのがよい」ということで、やたらめったら「口に出す」ことをやっていました。
他の方が、「どう、言われているのか。何を言われているのか。」聞いてなかったです。
聞かせていただいて、「いいお手本を真似る」ことを、
やらせていただこうと思わせていただいています。

投稿: Tねこ | 2008年5月29日 (木) 08:11

Tねこさん。ようこそ。
 そうですね。難しいところですね。
 Tねこさんの苦渋、いつも見せてもらっていますよ。

>どう、違うのか、何が違うのかわからなくて、ただた
>だ、「違うと言われないようにしよう」ということば
>かりに注意して…

 確かに、そんなところにだけ力が入っていると、どうしても、取り繕っていきますからね。なんか、周りの空気ばかり読んで、解答や正解ばかり話していると、法座では簡単に見透かされますからね。ますます言い繕い、ドつぼにはまるパターンが多いですね。

 聞法のセンスというと、かなり語弊がありますが、聴くことは、ちょっとしたコツというか、身体で身につくワザみたいものがあるような気がします。
 とかく、聴くという営みほど、深く、不思議なものはないですね。いくら数をこなしてみても、取り繕ったり、回りに合わるだけなら、意味はないです。

 こちらも、負けないように、ゆったりとおつきあいさせていただけるようになりたいと思います。頑張ります。

投稿: かりもん | 2008年5月30日 (金) 00:37

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