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花祭り

Img_2696 1ケ月以上遅れての「花祭りお釈迦様おめでとう。

 このところ日曜礼拝は、子供たちの減少や、大人も顔ぶれが固定するなどちょっと停滞ぎみだけれど、今日は、総勢35名以上の参加で、なかなか賑やかだった。

 久しぶりに、日曜礼拝でご法話を担当した。

 何不自由もない幸せなお釈迦さまが、なぜ、城も、地位も、名誉も、お金も、家族も(みんなが欲しくて欲しくてたまらい幸せ)をすべて捨てて、出家されたのか。四門出遊の、生老病死の苦と現実を、具体的に考えてもらいました。とくに、「老い」のところです。みんな、人ごとでは、他人のことではわかっているつもりです。でも、三人称なんですね。もしくは、家族の老いなら二人称。でも、自分のこととなったらどうか。

 4歳から、5歳、6歳、7歳と…、幼児や小学校の子供たちは、1歳ずつに順番に並んでもらって、あとは10代前半、後半、20代、30代、40代、50代、60代、70代(残念ながら、いつも80代の常連さんが欠席)と、横一列に並んでもらいました。いーや、ビックリしましたね。とくに身長の大小があるはずなのに、みごとに右肩上がりで大きくなっていく。それが、40代をピークに、今度は、下り坂に転じていくんです。「無常だ」とか、「老いるぞ」と口先で話すより、少しはからだで味わってもらえたでしょうね。しかも、過去の過ぎさった時代は振り返り、思い出せるが、先の世界は、未知の領域。30代の人から、50、60、70、80代の世界は、からだも、こころも想像がつかないと味わいが出てきました。同時に、みんな生まれたての赤ちゃんの時も、2、3歳のもの心をつく前の世界もあったわけですから、いまやそのなれの果てが、お互いなのでしょう。そして、そこまで、諄々と安全に進める保証はどこにもない。どこで、この長寿山が途切れてしまうか分からない、無常の身なんです。

 それにしても、二女の保育園の4歳児が5名。かわいい。でも、お勤め(字が読めない)も法話も、なかなかジットしてられない。グズったり、歩きまわったり、仕方なんです。でもね。あれが、私の姿そのものじゃないですか。育てられて、教えられ、薫陶を受けたご恩で、黙ってご法話を聞くところまで育ててもらえた。しかし、実際は、ジッーと聞いてるフリはしていても、ほんとうに聞いているのか! カッコだけです。40代なっても、50代になっても、なーんにも、聞いてない、そして親に甘え、「わらかん、わからん」と駄々をこねている姿は、まるまる4歳児そのものです。むしろ上等だと思ってる分、質が悪いかもナー。そんな訳のわからんものに、目先の老いも、死ぬこともわからないものに、後生に一大事があることなど分かる智恵などないわけで、そんな無明そのものに向かって、「どうか聞いてくれ」と願い、頼んでくださっているわけですよ。人間どころか、一切の生きとし生きるすべてのいのちあるもの(衆生)を、必ず、仏にしてみせるという、とてつもない広大なお誓いを立ててくださったわけです。そんな弘いおこころが、限りある私に理解できるわけがない。だからこそ、こちらの迷いの気分や気持ちを追いかけるのではなく、その真Img_2720実を真実としてお教えいただいた、そのお心に耳を傾けていく。お聞かに預かるだけで、すべての用事が済むように仕掛けられている。だからお聞かせに預かるひとつなんです。聞くだけ。もう兜を脱いで聞かせてもらいましょう。

 大人の分級座談会の間、子供たちには、ケーキ作りや楽しいイヘントも盛り沢山。先生方ご苦労さまでした。
 

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法味・随想」カテゴリの記事

コメント

おはようございます。永代経以降のかりもん師ブログに凄いパワーを感じています。そして、色々学ばせていただいたり、私自身の不甲斐なさを知らされたり等々、いつもながら、ありがとうございます。昨日は旦那寺で「降誕会」をお勤めさせていただきました。華光同人の方も多数お参りして戴き、こどもと一緒に「十二礼(らいはいのうた)」をお勤め、お焼香をし、ご法話を聞き、「恩徳讃」をうたいました。子供たちとは、かりもん師の日高支部花まつりの時のゲームを真似て遊び、昼食(そうめん…世話役男の手作りとおにぎり)を戴きました。今回は、学校行事(4年生以上)もあり3年生以下のお子たちと少な目ではありました。しかし、学ぶこと多くありがたいひと時でした。ご住職の法話も子供の視点を大事に、ゆっくりやさしくことばを選びお話しされました。これは大人の方にとてもうよく伝わったご法話と思います。(座談がないのが残念)。幸い子供たちとはお食事をしながら、確認できたたので
良かったと思います。このお寺でのお育てが家庭でないのが少し残念です。生きたご法はやはり家庭での親(私)の姿から伝わっていくんだんなっと反省させられました。南無阿弥陀仏。今週は支部法座(G師)です。弟家族が来てくれそう。楽しみです。

投稿: 稜 | 2008年5月19日 (月) 10:12

 稜さん、コメント、ブチ久しぶりの登場ですね。待ってました。
 永代経、ほんとうにお世話になりました。最後のごあいさつ、とても有り難かったです。
 そうですか。お寺での「降誕会」。ご苦労さまでした。いろいろと気苦労もあろうかと思いますが、地域のお寺さんでも、子供会活動が行なわれていくことが、とてもうれしいですね。これからは、ますます小さな宗派根性なんか、意味なくなると思いますよ。これまでの関係を脱して、新しい時代の息吹が感じられます。
 今週末は、お世話になりますが、よろしくお願いします。

投稿: かりもん | 2008年5月19日 (月) 20:47

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» 生老病死 [真宗 と カウンセリング ]
今日は日曜礼拝で「はなまつり」でした。 結構子どもも集まって、お祝いムードも盛り上がります。 そんななか、ご法話ではただのお祝いに収まらず、お釈迦様を通じて教えられる仏法を、子ども向けの配慮はあるとはいえしっかり聞かせていただきました。 今年は「生老病死」について。 お釈迦様の四門出遊を通じて、ただの王子から真剣に苦を見つめて仏道に歩まれるんですが、無常という事を「当たり前のように年をとって、それでもまだ先があると思っている」姿を通じて聞かせていただきました。 その後の座談会、今回はお参りも多... [続きを読む]

受信: 2008年5月19日 (月) 23:42

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