贅沢
広島支部法座。H家。きれいに庭を整えておられている。ハチスの花はこれからだが、ひとつひとつは小さく慎ましやなマーガレットが、きれいに咲いていた。
4月に続いて、「総序」のご文を味わう。永代経からの方は、3週続けてのご法縁ということになる。汲めども尽きないお味わいをいただく。それも、現代語訳も参照するが、あくまで親鸞様のお言葉を直接いただきたかった。確かに、慣れない方には難解で、外国語を聞くようだと言われた。でも、勉強や覚えるためではない。このご文を通じて、親鸞様の熱く、深いおこころに少しでも触れられたらと思うのだ。もう挟む言葉ないですね。ひとつとして無駄な単語がない。しかも、単なる美辞麗句で、対句や韻を踏んでおられるのでもない。言葉のひとつひとつに意味がある。動詞の「度する」「破する」「除く」「獲る」「得る」「帰する」…なんと体験的な、力強い言葉なのでしょう。「ああ」とか、「哉」という、叫びにしてもそうですね。ぼくらが味わえるのは、ほんの氷山の一角やね。なぜ「強縁」「宿縁」の「縁」なのでしょう? 「超世稀有」とは、何が世に超えていのかなー? どうして「たまたま」なんの?とか、喜ぶのはなぜ「遠く宿縁」なの? 「いま」遇って「すでに」得ているの?など、さまざまなことを、皆さんと味わいながら読ませていただきました。こんな時間を共有できるのは、ほんとにう贅沢な極みだと思いました。
親鸞さまのお喜びは、そのまま「本典」選述のお心につながるわけですが、一重に、如来のご恩徳の深きことを喜び、その仏徳を嘆ずる以外にないわけですね。実は、私達のご法座も、仏徳讃嘆するために開かれるんです。仏恩の深いことを喜び、共に念仏させていただく。それには、この私が如来のご恩徳を喜ぶ身にさせてもらわねばならない。だから共に信未信の沙汰をしていく。あくまで、仏様のご恩徳の深きことをお聞かせに預かるのが第一なんですね。そこを喜ぶ身にさせていただいたなら、これほど勿体ないことはないじゃないですか!
座談会が終わって、最終の列車まで、ご馳走を囲って、ワイワイやりました。同人の庭で栽培された、大根、にんじん、レタス、山菜などを材料に、心尽くしのお料理でした。自然や自家栽培のものを、手作りのお料理で食べる。これも、いまや最高の贅沢になりましたね。おいしかったー。ご馳走さまでした。
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コメント
先生、ありがとうございました。聞き方の間違いを指摘されて、その聞き方が私のありのままだっただけに、傷ついて、
その痛みに囚われています。
また、こうやって、私は、大事なお心を覆蔽してきたのだろうとも感じています。(ほんとうに私は、仏敵ですね)
今は、痛みのほうが強くて、その心に耳を傾けているところです。聞き方をガラッと変えることはできませんが、先生の言われた、「そういう聞き方をしながらも、自分のところに引き寄せてみるということ」なら、できそうな、やってみようと思っています。今日は、輪読会です。みなさんと「仏徳讃嘆」させていただきます。
投稿: Tねこ | 2008年5月13日 (火) 08:25
Tネコさん、さっそくありがとう。
広島では、お世話になりました。
そうだね。いまは、痛みのほうが強いのでしょうね。でも、痛みが分かるのは、悪いことじゃないからね。実は、私を守ってくれている防波堤ですから。
これからもますますよろしく!
投稿: かりもん | 2008年5月13日 (火) 15:22