手
子供を保育園にお迎えに行き、入浴させ、寝かせるために絵本を読む。これがぼくの夕方以降の日課だ。
4歳のナナの成長が著しい。急に、彼女の表現の世界が広がっている。物真似ながら、数字や文字も書けるようになってきた。とくに、ちょっと前までなぐり書きだった絵が、急に形になってきた。そう、親のだれもが、「うちの子は天才じゃないか」と、錯覚するそんな時期なのかもしれない。
これって親馬鹿だと思っていたけれど、そうじゃないよなー。みんな、ほんとうは「天才」なんだ。大人になったら、なんでもないことのように思うけれど、実はとてつもない才能をいただき、発揮できるようになる。ただ、成長につれて、回りも、本人も、それが当たり前になり、さらに過度に要求され、けなしたり、粗末にしてしまうのだろう。
さて、絵本のあと、彼女と共同で絵(落書き)を、一筆ずつ交代で書いた。
ふと、爪が伸びているのが目に入り、爪を切った。
小さなかわいい手。
でも、生まれてから、一回りも二回りも大きくなっている。
この手は、これからなにをつかむのだろうか。
そして、わが手も、しげしげと眺めてみた。
みんな、裸で生まれてきた。しかし、その時、この両の手は、こぶしを握ったままだという。
そして、この手で、いろいろなものをつかんでいく。財産も、地位も、感情や思想も、そして信仰さえも、けっして放すことはなく、貪欲に手に入れていくのだ。
しかし、この世でつかんだものは、年と共にだんだんと漏れだし、両の手からこぼれ落ちていくようになる。
そして、最後。すべてを持たずに死んでいかねばならない。
そう、ただ、最期は、虚空を掴んで落ちていくだけなのだ。
最期まで、つかんだものを捨てることができず、そして、この両手を広げて合わせることがなかったならば……。
「罪人臨終に重病を得て
神識(じんじき、意識のこと)昏狂し、心倒乱せり
地獄芥々(かいかい、際立ち目立ち明らかになる)として、眼前に現ずるとき
白き汗流れでて、手、空を握る」 (般舟讃)
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コメント
何でも出来て「あたりまえ」、在って「あたりまえ」と思ってしまう思い上がり。
すべてすべていただきもので出来たこの身、与えられ、教えられ、許されて、生かされてるんだなぁ~と思わされます。
教えられて、こうして先生の書いたことにも「もうなずける身」にさせてもらったんですよね。
本当にもったいないことです。
投稿: 蓮華 | 2008年5月25日 (日) 16:32
蓮華さん>
。 子供ネタに必ず、コメントくださって、うれしいです。
ようこそ
ほんとにそうですね。いろいろなものをいただき、お育てに預かったのにね。「当たり前」にして、「有り難い」とは思えないほど、大きくしてもらった。「子供の聖典」の内省の三角の図です。底へ、底へと掘り下げていくと、私を一番上に押しあげるための、さまざまなご恩と、その一番の最底辺で、私の地獄に落ちてくださっいる仏様に出会っていくわけですね。
投稿: かりもん | 2008年5月25日 (日) 22:55