一宗の繁昌
昨夜は、伝道研究会。永代経法座の直後ということで、出席率が悪い。最初は、3名。テキストには入らず、出版のことやインド旅行(日程やコースが決定。15日に旅行社と合って詰める)の説明と、永代経の分かち合いを行ううちに、4名に増えた。
改めて3日間の法座の余韻を味わっていく。どの先生のご法話も尊かったし、また司会役の同行さんや若手の先生方も力をつけておられる。途中、法水を浴びまくって放心状態だったTさんに、その時の心境を尋ねたら、「わたし、いま死んでもいいと思うほど、ご法のひたれて幸せだったわー」と、あいかわらず強烈な味わいを述べてくださる。そうなのか! ぼくなんか、まだ娑婆のいのちが惜しいけどなー。こんなところで死ぬのはもったないものなー。まだまだ味わっていくぞー。
特に、今回はある方のご縁をきっかけに、新顔のお参りが多く、頼もしかった。今後の展望なども話し合った。もちろん、新しいご縁はうれしい限りだが、しっかりと、ひとりひとりへの対応が出来ていたか、お伝えしていたかを確かめあった。
ひとりでも多くの方にお参りしてもらいたい。この弥陀の本願をお伝えしたいの願いだけである。しかし、もし組織が大きくなり過ぎて、ぼくや父が、同人のお名前もわからなくなったり、気軽にお声をかけられなくなったり、参詣の方のご心境がわからなくなったら、それはもう華光の集いではないだろう。一人でも多くということは、物質的な人数の多少だけてはないのである。
蓮如上人はおっしゃる。「一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威(い)のおほきなることにてはなく候(そうろ)ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候(そうろ)ふ…」と。目先の人数の多少でもない。たとえ多かろうが、少なかろうが、信心の沙汰がないのなら、もうそれは法座ではないのだ。誰も、ご法を喜ばず、仏徳讃嘆しないのなら、何万人集まろうとも、なんの意味もない。そして、それには、いま、わたしの目の前にいる人-たとえそれが初参加の方であろうと、何十年の方であろうと、また別の会の方だろうが、他宗派の方だろうが関係なく-いま、ここでご縁を結んでくだる、その方お一人に、阿弥陀様のおこころをお伝えしていくだけである。それは、単に一方通行で伝えるのではなく、それを相手の方が、受け取り領解くださるところまで、ひたすらおつきあいをさせていただく、ただそれだけが大切なのである。
そこに心を寄せる時に、ぼくのなかには、まったく曇りがなくなる。微塵の雲りもないのである。まったく不思議なことだ。凡夫の浅ましい身で、いろいろな心理的な葛藤も抱える身なのに、そのまま喜ばせていただいた阿弥陀様の尊いお心をお伝えするだけなのである。親鸞聖人の遺弟の念力により、法の威力によって、お念仏は弘まるのだ。
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