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課題

  伝道研のつづきです。
 顔ぶれが顔ぶれなので、安心してぼく自身を開いて、個人の抱える課題-対人的なところで起こる、ぼくの抱えている葛藤や心理的な問題や、いま、気がかりなことを聞いてもらった。どうしても、上からの攻撃に防衛的になる自分がいるし、いろいろと傷ついたり、凹んだりしやすい。

 そんな自己の課題を話しながら、少しだけ肯定的に感じたことは、そんな自分を抱えながらも、以前に比べると、自己一致の状態に立ち戻れることが、多少は増えた気がするのだ。凹みながらも、その自己を歪めたり、否定したり、もしくは目を背けることなく、口に出せるようになったのである。

 たまたま、昨夜も、そのつづきで、心理カウンセラーのM先生と、お話をする機会もあって、90分近くいろいろとお聞きいただいた。

 なかなか、自分の中に起こっている感情に、気づくことは難しい。「どうして?」と思われるかもしれない。でも、自分を知ることは、感情レベルでも、難しいのである。なぜなら、うわべの喜怒哀楽に覆われてしまって(それが自分の真の感情だと信じ込む。当然、そんな感情を抱かせた相手が悪いと非難しがちだ)、その奥に流れている自己自身に目を向け、その声を聞くことは、なかなか難しいのである。つまり、「カーァー」と腹が立つ、その奥になにか、微妙な心の動きがあることが多いが、その「カーァー」に100%覆われてしまうと、その微妙ないのちの動きに気づくことが、難しくなるのだ。

 たとえば、嫉妬というやっかいな感情がある。なにも男女間の恋愛のことではない。ネガティブな、自分でもいやな感じは、誰もが外に出したいし、そうでなければ目を覆いたい。それで、なかなか自分の中にある嫉妬の感覚を、正確に掴むことは、稀なのである。その難しさは、たとえば、からだが感じている「嫉妬」という感じを、言葉にすることが出来るかを考えてみれば、よくわかるだろう。
 それで、自分の真の感情に気づけずに、気づきのレベルか、表現のレベルかで、歪んだ形で口や態度に現れてくる。極端に防衛的だったり、(愛する)相手を攻撃したり、(愛するがゆえに)避けたりするようになるのである

 カウンセリングやご示談で、ぼくが聞いたり、問題にしているのは、その奥に流れている、微妙ないのちの流れの方である。

 確かに、いまの日本の社会全体が、強迫神経症的な、完璧主義の傾向が強い。そこに、猛烈なスピードで効率主義、成果主義が幅を効かせている。しかも、自己責任で、ひとりひとりが孤立しがちで、かつ常に緊張を強いられるストレス社会でもある。管理や環視が強化され、ますます非人間的な状況が強まる中で、自己のネガティブな感情を持てあまし、他者や弱者、敗者に対しては、攻撃的で、排他的で、まったく不寛容な時代なのである。それ故に、誰もが、戦々恐々として、傷つきやすく、心を閉ざし、うつ状態から閉じ籠もり状態の傾向が強いのではないか。当然、やさしさに異常に飢えた時代でもあるが、そのベクトルがなかなか他者に向かないのが現状であろう。

 そんな社会に生きているひとりひとりも、個人の資質に加えて、社会状況の敏感をもろに受け取っている。特に、充分な自我が確立していない、子供や若者への影響は、大きい。それが、いまや働き盛り、分別盛りの壮年層や初老へも、波及しているといっていい。

 誰もが、しんどいのである。

 そんな悲しみや苦しみを、ひとりひとりがわが胸だけに収めながら、今日も、さまざまな過労に耐え、かろうじて生きているという状況なのかもしれない。

 殊ここに至っては、個人の心理だけに還元し解決する問題でないことは、明確ではある。もろちん、さまざま大きな課題が横たわって、簡単ではない。

 個人的な極論をいえば、自利利他円満した弥陀の本願だけが、唯一の光明になりえると思うのだが(理由は、また機会をみて書きます)、その前に、まずは、正確に自分に起こっている感情の流れに気づくことも、大切なのである。ロジャーズのいう、自己一致の態度である。これが、なかなか難しい。だから、ぼくも、日夜、日常生活での実践を通じて、精進していくしかないのである。

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