共にこれ凡夫のみ
日本仏教のお釈迦様である、聖徳太子様のさま。最近は、さまざまな評価がなされ、真偽に関しても、さまざまな学説が出されている。それはともかく、その後の日本仏教の精神の原型であることだけは確かで、親鸞さまにとっても、七高僧の教義とは違った方面で、太子の信仰の影響ははかりしれない。
憲法十七条。そのなかの有名な第十条。
「十にいはく、忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ただびと)のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独(ひと)り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。」
だいたいの意訳ですが、
「心の中の憤りをなくし、憤りを表にもださぬのがよい。他人が自分と異なっているからといっても怒ってはならない。人それぞれに心(考え)があり、それぞれに我執があるのだ。相手が是と言っても、自分はよくないと思うし、自分が是だと思っても,相手にはよくないこともある。自分は絶対に聖人で、相手が絶対に愚者だというわけでもない。皆、共に凡人なのだ。そもそも,是非(これがよいとかよくない)などと、誰が定めうるのだろう。お互い、誰も賢くもあり、愚かでもある。それは耳輪(耳飾り)に端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見従って行動しなさい。」
日本仏教、いや日本人最高のスーパースターともいうべき、聖徳太子をして、「われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ただびと)のみ」と、言わしめているのである。なんという、自己内省と、そして他への慈しみの眼であろうか。それが、聖徳太子の聖徳太子であるゆえんだろう。
ところが、低下の凡夫の私達は、うぬぼれ、我が身を買いかぶている。我に是があり、すぐ良しになり、他が愚かで、悪しにしていく。自分は善人であり、聖人であり、相手は極重悪人なのである。(法座の味わいとは真反対やね)。それで、すぐ他人のせいで傷ついたと罵り、相手や都合の悪い他を攻撃していくのである。
そのためには、自分を正当化し、我が身を常に立派な大義名分で飾っていく。それのみならず、それが多くの人を惑わすことにでもなれば、目も当てられない。しかも、もしその根底に遺恨ともいうべき恨みや怒りを内在しているとしてなら、最期には、きっと、その恨みは我が身を突き刺す恐ろしい刃になって帰ってくるこも知らずにだ。
実は「破邪顕正」の利剣は、他に向けるものではない。「邪」は、わが身以外にはなく、そして、「正」は南無阿弥陀仏以外にはないのである。つまり、迷いのわが心の捕らわれ、誤った見解、わが無明こそが、「邪」そのものである。そのわが自力のこころを破るための南無阿弥陀仏の利剣なのであるから、決して他を攻撃する剣ではない。
むしろ、問うべきは、疑いの塊のわが身が、南無阿弥陀仏の正義の剣に貫かれ、一度、死んだことがあるのか、ないのかではないだろうか。
これまでも、そしてこれからも、華光は、その一点を誤魔化さず、厳しく問う念仏者が集う場でありたいものだ。
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コメント
南無阿弥陀仏
尊いお導きを戴きありがとうございます。
私は、「凡夫」と云うことばを聖徳太子が日本ではじめてお示しになったことを、雑学として知ってはいました。しかし、かりもん師を通じてその出処、お謂れを教えていただきました。ありがとうございます。
また、それをさらに深く、やさしく、「凡夫」は、「わたし」そのものであり、「わたし一人」を目当てにしての弥陀佛のお働きであることのお味わいをいただきました。特に、かりもん師の御ことば「迷いのわが心の捕らわれ、誤った見解、わが無明こそが、「邪」そのものである。」は、親鸞聖人が「わたし」を「疑網の纏縛(ていばく)」(疑いの網にまとわりつかれ、しばられた姿)と示されたことと同じとお味わいを戴きました。そして、この「疑網の纏縛(ていばく)」は、弥陀佛のお力でブチ切られることをあきらかにして戴いてることの尊さに触れ、ただ、ただ南無阿弥陀仏です。
かりもん師の御ことば「むしろ、問うべきは、疑いの塊のわが身が、南無阿弥陀仏の正義の剣に貫かれ、一度、死んだことがあるのか、ないのかではないだろうか。
これまでも、そしてこれからも、華光は、その一点を誤魔化さず、厳しく問う念仏者が集う場でありたいものだ。」を、煩悩成就のわたし、愚かで、無知なわたしですが、しっかりお味わいさせていただきます。本当にありがとうございます。 南無阿弥陀仏。
投稿: 稜 | 2008年5月28日 (水) 11:21
稜さん>
いつもありがとうございます。
「われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ただびと)のみ」のところを、引用したかったのですが、あらためて前後を読んでみて、いろいろと感じるとろありました。これゃ「怒りのこころを収める」といった単なる道徳や修養の話じゃなんなーと思った次第です。
いま、ネットなんかで、華光をとりまくあれやこれをみていて、なんかこの文を引きたくなったのは事実ですね。
投稿: かりもん | 2008年5月28日 (水) 23:58