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2008年5月の29件の記事

無条件降伏

 この1週間、新しい方の法座の問い合わせ、華光双書の申込み、さらには来館などが、毎日、1~2件程度だが続いている。今日も、ぼくが電話を受けたが、聖典講座の参加の問い合わせだった。ちょっと緊張気味の声の響きだったが、だいたい同じ経過で、お問い合わせくださっている。皆さん、真面目な印象を受ける人達ばかりで、後生の一大事を求めておられるようだ。せっかく華光の門を叩かれるのである。ご縁を大切にしていきたい。ただし、難しい問題もなくはないし、ほんとうに定着されるには、それなりの時間も必要だと思う。ただ、AやBより、華光にいった方が、早く信心決定できるだろう程度の方は、ちょっとご遠慮いただきたい。

 そういえば、昔、「そちらでは、どの位(期間のこと)で信心獲得できますか」というへんな電話の質問があった。あのね。「ここを自動車教習所かなんかと勘違いされていいませんか」と答えた。もしかして、第一段階、第二段階などの獲信マニュアルでもあるとお考えかなー。最近は減ったが、ときたま、へんな電話やあやしい人がくる。だいたいお話するとわかるので、お引き取りねがうことが多い。妙にずうずうしかったり、話があわないのだ。そんな後で、華光に関する怪文書がでたりしている。「ハハーン、あれだなー」と思ったことが、何度あったことか。

 そんな不純な輩は問題外としても、獲信というご褒美だけを求めても、方向違いもはなはだしい。要は、法を鏡として、ほんとうの自分自身と向きか合えるかどうかだ。それも、ご法を求めている、念仏を称えている自分自身をも問題にしていけるかどうかにある。もちろん、仏果(仏に成る)を求めることが、最高善である。だから、法に向かうことは善ではあるが、いかんせん、虚仮不実の自分自身の物柄は、虚仮不実のままなのだ。ところが、仏法が絡むとその自己を絶対化してしまいがちである。この私自身は、どう切り刻んでも真実のかけらはない。真実を求めるこころのかけらもない。仏様や念仏も、自分の都合で利用する心しかないということが、念仏によって知らされていくのである。だから、何かを取り込むために、信心獲得のために求めるのではない。むしろ、方向はまったく逆だ。信心など求める資格のない、ご法など語る資格のない自分と出会っていくしかないのである。そんな棒にも箸にもかからん、救う手がかりのない私のために、如来様のご苦労を聞かせていただくだけなのであるが、なかなか如来様のことは、見向きもしない。

 でも、せっかく「求」めることを教えていただき、求める身になったのである。その方向で、自力の行や善を強化するのではなく、「捨」てることを聞いていただきたい。確かに惜しい。でも、ちょっとやそっと小出しに手放すのではなく、すべてを投げ出すのである。

 如来様への無条件降伏である。

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明日は九州

 明日は、九州支部法座である。

 年間予定にはなかったが、初めて会場提供してくださる方があって、急に実現した。

 参加予定でなかった広島仏青研修会の講師を依頼されたり、平日の東京法座が入ったりで、今月は法座の予定が詰まっている。そこに、法蔵館と品切れとなった『念仏の雄叫び』の増補による出版計画もほぼ決まったが、作業は夏以降になりそう。その前に出版社から、仏の子供大会の法話集やぼく自身の法話集の話もあったが、なかなか難しく問題もあって、かなり詰めが必要だ。
 とりあえずは、7月1日発行の華光誌が先である。悟朗先生の「誓願不思議」の誌上法話の編集作業が難航。お聖教をお聖教で解説するというもので、次ぎ次ぎ話題が展開していく。テープ起しの文章を、定型の長さに刈り込んで、小見出しをつけて、まとめていく。もう2~3日かかりそうだ。また、早くから原稿依頼していた巻頭言の担当者から、今日になって原稿がかけないとの連絡がある。なかなか思いどおりに進んでいない。ただ、他の原稿は揃っているので、原稿不足の心配はない。

 ちょっとお味わいがあるが、項をあらためたい。

☆聖典講座 6月1日(日)1時30分~5時 華光会館↓ 

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/06/seiten2008-6.htm

☆九州支部法座 6月1日(日)1時~5時 会場等は以下から↓

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/06/kyusyu2008-6.htm

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貧乏性?

 貧乏性 
 「①貧乏でもないのに、ゆとりのある気分になれず、けちけちして暮らす(くよくよする)性質
 「②どうしても貧乏になる性質」(新明解国語辞典)

Img_2775  『牡牛座』が終了して、パンフレットを見たら1,200円もした。高い!珍しくパスした。
 ところが、その横に、厚さ4cmはあろう、400頁以上のA4版、「ソクーロフ」という研究書のような中型本があった。「20世紀末を生きる命のエレジー。『悲しみが大きいほど、感情は奥深く秘められている』。決定版、ソクーロフの本!」とオビにある。定価、8,400円也。それが、新品なのに、なんと1,000円!で売っている。なんでも、廃棄処分になる前だという。確かに、コアなファンしか買わない代物だ。ところが、いま見た『牡牛座』や最近のものは収録されず、初期の作品の批評(というより論文だなー)が収められている。
 迷った。「おい、ほんとうに必要か」。いや、かなりマニアックで必要はない。「でも、8,400円が1,000円なんだぜー」。「それに廃棄処分になると手に入らんしなー」……。これが、2,000円、いや1,500円でも、ぼくは一瞥もしなかっただろう。
逆に、500円だったら、迷わず購入していた。ただただ、8,400円(確かにそれだけのボリュウムもある、モノクロの写真の一枚一枚も美しい)が、限定で1,000円になっているという理由で、迷う。見本で内容を確認しながら、止めようの方向が、6対4から、8対2で強くなった時に、悲劇が起こる。横にいた人が、安くなった理由を聞いて、喜んで買っていた。残部がなくなってきた。すると、また心の中は逆転現象で、再び葛藤状態に。「おまえ、ほんとうに読むんか?」「いらんなー。でもー、8,400円が、たった1,000円なんて、惜しないかー。クーソう、美本が90%OFFかー」…。8,400円が1,000円になったために、見本を手に、逡巡、悶絶するのだった…。

 そして、とうとう。「エーイ」と、1,000円也を取り出し、泣く泣く購入するのでありました。
 まあ、ブログのネタになったことだし、元はとれたかなー。

 でも、これって、やっぱり貧乏性だよね?

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『牡牛座 ~レーニンの肖像~』

 『牡牛座 ~レーニンの肖像~』

Oushi  ロシアの映像作家、アレクサンドル=ソクローフの特集上映があった。独特の世界観、美意識をもった映像作家だ。彼の作品は、旧ソ連時代、すべて上映禁止の処分をうけていたという。昨年、昭和天皇を描いた『太陽』が日本でも上映されて話題となったこともあって、このところ特集が多い(ここでも取り上げたが、昨年の時は、『ファザーサン』など見た)。『太陽』の前に、『モレク神』でヒットラーを、ついでこの『牡牛座』では、最晩年のレーニンを取り上げているが、日本公開はまだだったようだ。

 あかからわず、彼自身の世界観、映像美が全体を支配しいる。利休鼠の雨が降るのは城ヶ島だが、映像は、緑の靄ったようなくすんだ映像。最期の方に、雷雲の合間から現れた真っ青な空が美しい。

 緑豊かな、郊外の豪華別荘。でも、どこか冷たげな大理石の豪邸。そこに、からだが不自由(暗殺未遂の後遺症で静養中)で、どこか回りの人達ともギクシャクしている彼がいる。側には、妻と姉という二人の年老いた女性。半身不随で、時に哀れ、時に暴君のように怒りっぽく、頑な老人が一人。「ああ、レーニンだー」。おかしな言い方だが…。当たり前のことだが、ぼくはレーニンに会ったことはなく、写真しかみたことはない。それでも、単に歴史上の実在する人物をそっくりに描くとか、物真似で似てるのでも、また役者が演技の巧みさとは別に、なにかその役者の存在そのものが、「ああ、レーニンだー」と思わされるものがあった。なんかすごいなー。その意味では、「ああ、スターリンだ」と思われる人も出て来る。ある種の身体言語ですよね。そんな意味での存在感がありあり。
 例によって、ストーリーは妙で、あまり進展がない分、途中で退屈しました。映像も、静かだったし。彼のいらだちとか、不自由さ、周りとのコミニケーション不全や孤独といった身体が発するままならぬ声が、どこかから聞こえて来る気がした。そして、ラスト。彼の表情がよかったなー。

 でも、ほんとうの瑣末な本題はこのあとにつづく

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共にこれ凡夫のみ

 日本仏教のお釈迦様である、聖徳太子様のさま。最近は、さまざまな評価がなされ、真偽に関しても、さまざまな学説が出されている。それはともかく、その後の日本仏教の精神の原型であることだけは確かで、親鸞さまにとっても、七高僧の教義とは違った方面で、太子の信仰の影響ははかりしれない。

 憲法十七条。そのなかの有名な第十条。

 「十にいはく、忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ただびと)のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独(ひと)り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。」 

 だいたいの意訳ですが、

 「心の中の憤りをなくし、憤りを表にもださぬのがよい。他人が自分と異なっているからといっても怒ってはならない。人それぞれに心(考え)があり、それぞれに我執があるのだ。相手が是と言っても、自分はよくないと思うし、自分が是だと思っても,相手にはよくないこともある。自分は絶対に聖人で、相手が絶対に愚者だというわけでもない。皆、共に凡人なのだ。そもそも,是非(これがよいとかよくない)などと、誰が定めうるのだろう。お互い、誰も賢くもあり、愚かでもある。それは耳輪(耳飾り)に端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見従って行動しなさい。」 

  日本仏教、いや日本人最高のスーパースターともいうべき、聖徳太子をして、「われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ただびと)のみと、言わしめているのである。なんという、自己内省と、そして他への慈しみの眼であろうか。それが、聖徳太子の聖徳太子であるゆえんだろう。

 ところが、低下の凡夫の私達は、うぬぼれ、我が身を買いかぶている。我に是があり、すぐ良しになり、他が愚かで、悪しにしていく。自分は善人であり、聖人であり、相手は極重悪人なのである。(法座の味わいとは真反対やね)。それで、すぐ他人のせいで傷ついたと罵り、相手や都合の悪い他を攻撃していくのである。

 そのためには、自分を正当化し、我が身を常に立派な大義名分で飾っていく。それのみならず、それが多くの人を惑わすことにでもなれば、目も当てられない。しかも、もしその根底に遺恨ともいうべき恨みや怒りを内在しているとしてなら、最期には、きっと、その恨みは我が身を突き刺す恐ろしい刃になって帰ってくるこも知らずにだ。

 実は「破邪顕正」の利剣は、他に向けるものではない。「邪」は、わが身以外にはなく、そして、「正」は南無阿弥陀仏以外にはないのである。つまり、迷いのわが心の捕らわれ、誤った見解、わが無明こそが、「邪」そのものである。そのわが自力のこころを破るための南無阿弥陀仏の利剣なのであるから、決して他を攻撃する剣ではない。

 むしろ、問うべきは、疑いの塊のわが身が、南無阿弥陀仏の正義の剣に貫かれ、一度、死んだことがあるのか、ないのかではないだろうか。
 これまでも、そしてこれからも、華光は、その一点を誤魔化さず、厳しく問う念仏者が集う場でありたいものだ。

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このごろの仕事

 華光誌の編集作業が始まった。ところが、華光誌以外の仕事も細々あって、本格的に作業にならず、焦り気味。永代経法座の決算、半期までの会計のこと、インド旅行の相談、壮年の集いの講師の件、法座案内をチェックし、6月の支部法座の相談(九州、支部長、広島仏青、東京、広島、そして東海と宿泊法座が続く)。そこへ、永代経法話テープの編集作業を新しい方にお願いすることになった。また永代経のDVDも、また同様。以前とは違う同人にお願いし、こちらは速攻で完成しつつあるが、詰めの部分でいろいろと不備もある。最初の変更なので、ぼくから説明や連絡が必要なこともあるのだ。巡回テープも、CDにしていく。まもなく、支部長研修会があるので、その打合せもある。週末は、急な来館者も多いし、定期的な個人カウンセリングも引受ている。まあ、けっこういろいろあります。我ながら、ご苦労さんです。

 ただ、それでも、昔と根本的に違うのは、ぼくが直接作業をすることが少なくなっていること。専属事務の方にも大いに助けられ、お二人には、ただ感謝、感謝やね。それに、華光同人の皆さんには、いろいろな特技や才能をもった方もあって、快くご協力くださるおかげで、大いに助けてもらってます。それでも、責任者として、最初の道を作り、目配せしたり、お願いする仕事もけっこうあるんです。
 そうそう、HPにも目を通す時間も増えたなー。特に、このところ、華光をめぐって、いろいろあるようですからねーw。たぶんそのおありなのか、ぼくのブログも、5月に入り、急にアクセス数が増加。もともと1日の平均は150前後で、1ケ月に1、2度、200アクセスを超える程度だったのが、この一週間は、250になり、300になり、350になり、400と右肩上がり。別に内容は同じだから、これはちょっと不気味かも…。もっとも、元の基礎数が少ないので、これでもたいしたことないけどね。それに、出てしまったものをあれこれ言っても仕方ないので、いまのところは、アクセスが増えて、等身大の華光やぼくのことを知ってもらえるだけでもいいかと、単純に喜んでおきましょうか!? 

  そして、もうひとつ。現代社会にあっては、念仏者といえども、社会とは無関係では生きていけなし、家族を泣かせてまで「後世者ぶる」わけにもいかない。これからは、プチフェミニスト(?)の姿も示さんとなー(新しい賢善精進派か?)。現実、連れ合いは、「奥さん」(奥にはおらんし)でも、「家内」(家にもおらい)でもなくて、女子大生として飛びまわっております。ぼくも、多少は、子供の世話やお手伝いしませんと、彼女には、今日珍しい暴君の誹りをうけておりますので…。これも、けっこう、時間がとられますねん。

 というわけで、今朝も、学校や保育園の前に、二人を上桂の歯医者(しばしここで登場する個性的な病院)まで連れて行きました。上の子は学校検診でひっかかり、下のことは、「虫歯が痛い」と夜に泣くので半ば強制的。痛くないのに、怖がって、少したいへん。二人をかなり遅れて園や学校に送っただけで、ちょっと疲労気味。

Img_2768  そう、出かける前に、植え込みに蝶が飛んでいるのを、下の子が発見。ぼくは、なかなか見つけられませんでした。せかせか急いでる大人の目には入らん世界があるんやね。でも、子供の目にはハッキリと写っている。そのことにちょっと感激し、思わず写真。こちらも、少しゆとりをもって、視野を広く動くことにしましょうか。華光誌も、法座も、懸念材料も、この世のことはなるようになるでしょう。

 

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飲み込むように聴く

 今日は、大阪支部法座。大阪といっても、会場は奈良の生駒市。これまで中心だった年配の会員さんが奈良在住の方が多く、ここなら、大阪市内や近鉄沿線の京都からも参加しやすいようだ。父がTさんの運転で日高支部に出かけたので、久しぶりに近鉄で。西大寺で乗り換えて、1時間ほどで到着した。

 大阪、奈良に加えて、和歌山や京都の方もお参り。久しぶりの顔、いつもなじみの顔に混じって、初めての学生さん風の男性がひとり。なんでも、小学生のころから、「死んだらどうなるのか」ということを疑問に感じていたけれど、そのことにしっかりと答えてくれる大人がなく、それが、大学に入学して、浄土真宗系のサークルに勧誘されて、「後生の一大事」を聞き、それから3年間、聞法(活動?)をされていたのだという。体調を崩して、活動ができなくなり、インターネットを通じて華光会のことを知って、HPの案内で、遠方から、この生駒の家庭法座に参加してくださったのだった。よくよくのご縁。「よくお出でくださいました」。

 ご法話を、真面目に聞いてくださる。そして、1年間の聞法のブランクをあったことを、涙ながらに悔いて話してくださる姿が、とても純粋で尊かった。少し「求める」方向の仏縁は作ってもらっておられるので、今度は、「捨てる」ところを聞いていくのだと、聞法の姿勢についてアドバイスする。(これまでは)「どう聞いたらいいのか。方法ばかり求めてきました」と、スッーと聞かれていきました。なかなか、初回からこうなるのはたいしたもんですね。

 だいたい、惜しいですよ。これまでの聞法歴や聴聞の歩みがあるもの。自慢したいヤツが、腹におります。それで、「まったく役に立たん」と教えられても、本心は、ちょっとは役に立つと思っているんじゃないかなー。100点は無理、80点も贅沢、まあ、60点もおこがましい。でも、20、30点、いや40、50点くらいはあると思っている。ちょっと軌道修正すればいいのだ程度に聞いているね、本心は! なかには、「いやいや30点も無理です。でも、10点ぐらいはあるでょう」、まあ、なんとみみっちい、中途半端に、自分を評価をしていくんでしょうか。これが、ダメなんやね。0点と聞くだけ捨てることをを聞くわけ。これまで、身を粉にして聞いてきたことも、何十年も頑張ってきたことも、まったく役に立たなかったと、すっぱり捨てる。ここやね。求めて、捨てたら、転ぜられていくんです。ところが、だいたい「求める」方向ばかりに力がはいっていく。聞き方が足らん! 不真面目で真剣さがたらん。正座して、勤行して、聴聞にはげみ、いのちがけで、もっと真剣に、もっともっともっとと…「求める」方向ばかりに力をいれて、自分の値打ちがお留守になっていくんです。ましてや、阿弥陀様のご本願、願力の働きが聞けるわけないですよ。

 つまり、皆さんの本心は、どこかで、どこかでですよ、苦労した方がホンモノ、そんな簡単にわかる信心ではないぞと、自己をかいかぶってるんじゃないですね。ほんとうのところどうですか?

 今回は、ある古参の華光同人が、「わしは、飲み込むように聞かせてもらったな。ここ(腹をさしながら)に入った。善知識がなんで、そんなこともわからずに、最初は人の話として聞いていたのに、それが、阿弥陀様の声に聞こえきた。(理屈や頭でなはく)こころで応えさせてもらったなー」との味わいが、なかなか深くてよかった。どうしたらなんかの余地がないなー。いいじゃないですかね、赤子のように、飲み込むように聞かせてもらったら…。

追記:「如来所以興出世、唯説弥陀本願海」のところを、「唯「聴」弥陀本願海」と、自分に引き寄せていただくというあたりを中心にご法話しました。(以前、少しだけ触れているので今回はパス。2007年2月22日の項目をご参照してください)↓

 http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/index.html

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 子供を保育園にお迎えに行き、入浴させ、寝かせるために絵本を読む。これがぼくの夕方以降の日課だ。

Img_2761 4歳のナナの成長が著しい。急に、彼女の表現の世界が広がっている。物真似ながら、数字や文字も書けるようになってきた。とくに、ちょっと前までなぐり書きだった絵が、急に形になってきた。そう、親のだれもが、「うちの子は天才じゃないか」と、錯覚するそんな時期なのかもしれない。
 これって親馬鹿だと思っていたけれど、そうじゃないよなー。みんな、ほんとうは「天才」なんだ。大人になったら、なんでもないことのように思うけれど、実はとてつもない才能をいただき、発揮できるようになる。ただ、成長につれて、回りも、本人も、それが当たり前になり、さらに過度に要求され、けなしたり、粗末にしてしまうのだろう。
 さて、絵本のあと、彼女と共同で絵(落書き)を、一筆ずつ交代で書いた。

 ふと、爪が伸びているのが目に入り、爪を切った。

 小さなかわいい手。

 でも、生まれてから、一回りも二回りも大きくなっている。

 この手は、これからなにをつかむのだろうか。

 そして、わが手も、しげしげと眺めてみた。

 みんな、裸で生まれてきた。しかし、その時、この両の手は、こぶしを握ったままだという。

 そして、この手で、いろいろなものをつかんでいく。財産も、地位も、感情や思想も、そして信仰さえも、けっして放すことはなく、貪欲に手に入れていくのだ。 
 しかし、この世でつかんだものは、年と共にだんだんと漏れだし、両の手からこぼれ落ちていくようになる。
 そして、最後。すべてを持たずに死んでいかねばならない。
 
そう、ただ、最期は、虚空を掴んで落ちていくだけなのだ。
 
最期まで、つかんだものを捨てることができず、そして、この両手を広げて合わせることがなかったならば……。

 罪人臨終に重病を得て
 神識(じんじき、意識のこと)昏狂し、心倒乱せり
 地獄芥々(かいかい、際立ち目立ち明らかになる)として、眼前に現ずるとき
 白き汗流れでて、手、空を握る」 (般舟讃)

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My Wifeの動画を追加じゃ

 ちょっと調べたら、まだ彼女の動画がありました。これけっこう面白いかも…。なかなかの熱演。タイトルは、「後生」ということでしょうか。英語のときは、広島弁じゃないのね。

Best of Kyoto: The Next Life ↓
http://jp.youtube.com/watch?v=h-38MSjeUKU&feature=user

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体感不安と平和度指数

 小学生の長女が、集団下校で帰って来た。

 今朝、南区内で、強盗殺人未遂が発生し、凶器をもったまま犯人が逃亡中。枚方でも連続して事件を起こしているが、今回は手口が残虐だ。現場は、名神の京都南ICにほど近く、ここから4㎞たらずの範囲。犯行時刻は、午前8時45分ごろ。人通りが少ない場所とはいえ、早朝でも深夜でもない、まだ通勤時間内のことである。今日は、昼間も、施錠することにした。http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20080521p102.htm
 真宗カウンセリング研究会の月例会でも、犯行現場を学区にもつ高校の先生や保護者から、この話題が出た。どうも、身近で凶悪な犯行が増えている気がする。
 

 ところで、犯行を伝える地元紙の横に、世界の平和度指数のランキングが発表されていた。前はローカルニュースだけれど、こちらは皆さんもご覧になられただろう。
 平和度指数は今年で2回目。対象国は140カ国。政治の安定性やテロの危険性、犯罪の発生率や武器取引、軍事費などの24項目の要素を、英経済誌エコノミストの調査部門とシンクタンクが連携して分析、数値化したものだ。

 1位がアイスランド。2位デンマーク、3位ノルウェー、4位ニュージーランド、そして5位が日本である。上位5位までは、昨年と、順位は変わったが顔ぶれは同じ。ただ人口や経済規模からみて、日本以外は小さな国々ばかりだ。せいぜい人口も500万人程度、アイスランドなどは、中都市(30万)ほどの国だ。そして上位には、北欧をはじめ欧州の国々が多い。なぜか島国や辺境地というのも、なにかあるのかなー。主要国では、中国が67位で、アメリカは97位。ふーん。軍事政権下のミャンマーが126位なのにロシアは131位。北朝鮮などと共に最下位グループで、最下位は2年連続のイラク。なるほどという感じか。

 もっとも、順位などあまり意味をもたないし、数値もどれだけ意味があるのか疑問だ。でも、1億人以上を抱える日本が上位にあるのは、かなり特異なことだといっていい。隣国との緊張状態があると評価されているそうだが、政情が安定し、重大犯罪が少なく、安全で平和な国だという。確かに、世界的にみて、大国である日本が、欧州でもないのに、平和で、安全で、言論の自由も、信教の自由も、政治的な自由もある、基本的人権が保証され、生命が尊重され、経済的にも豊かな国は、きわめて稀なのであろう。

 ところが、現実の生活実感ではどうだろうか。日本は安全な国という誇りも一面あるが、一方で体感的な不安度はどんどん増している。これまでの安心、安全神話がくずれ、平和の源泉だった九条の改正の流れも加速している。どこか自由な発言がしずらい空気も漂ってきた。経済格差の拡がりも実感されている。第一、こんな豊かで、平和な国に暮らしながら、みんな顔から笑顔が消えているのは、なぜなのか?

 身近でおこった凶悪事件はほんの小さな事件だろう。でも、些細な不安の積み重ねによって、真の平和とはほど遠い、殺伐とした空気に覆われて、生きづらさの実感として現れてきているのは、間違いない。
 お金があって、欲しいものが手に入って、みんなが平和で、そして長生き(世界一の長寿国だもな)、こんな幸せはないはずだったのにね。貧・病・争が解決されても、ほんとうに迷いの闇が破れて、後生の一大事が解決されないかぎりは、真のやすらぎなど、この人間界にはないのだ。

 もう、みんなお念仏を教えを聞くしかないのになー。
 でもね、安らぎや癒しには、お金も時間も惜しまないけれど、肝心のご聴聞にはどうですかね…。本末轉倒やね。

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Best of Kyotoの動画

  ゆうこが、元NOVAの英語講師と、こんなものを作っています。 
  ご覧いたいだ方もあるでしょうが、You Tubuで動画が見れます。
 もう「どうにも、止まらない」ですわー。

Yuko, a Pure Land Buddhist #1↓
http://jp.youtube.com/watch?v=UJ--Hi-3AuY&feature=related

Yuko, a Pure Land Buddhist #2↓
http://jp.youtube.com/watch?v=Vse1vcr1d84

 他にも、こんなの動画がありました。
http://jp.youtube.com/watch?v=wlO33K9Mn4g&feature=related

http://jp.youtube.com/watch?v=TpQ8RAU_7xk&feature=related

 もし、英語や彼女にご関心のあるは、ご覧ください。

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譲る心

 今夜は、わが家の女子大生は、新入生歓迎コンパでお留守。子供も寝かせた。彼女は、ちょっと遅いようだ。

 で、夕食。デザートは、子供にだけイチゴが残っていた。しかし、5粒しかない。子供は二人。割り算を習いだした上の子が、考えた結果は…。これは、まだ難しい。実物がないと出来ないが、ひとつ余る。二人で仲良くわけるには、かなり小粒。

 ぼく 「そうか。お父ちゃんが食べようか」
 二人(即座に)「いやや!」
 ぼく 「じゃ、ジャンケンするか」
 二人 「うん」
 カン 「やるで。ジャンケンや。最初はグー」

 ところが、下の子がなかなかジャンケンしない。
 カン 「はよう、ジャンケイしようや」
 ナナ 「やっぱり、いいわ。お姉ちゃん、食べて」
 ぼく 「ヘエー、えらいなー。ナナちゃん」
 ナナ 「だって、『ゆずる心』やもん!」

 回りの大人は大爆笑。4歳児に教えられるよなー。

 たかがイチゴ。なんていうのは、大人の分別。子供には、イチゴひとつでも、ケンカになるほどの一大事なのにね。その大人のぼくたちのほうが、「たかが○○」が譲れなくて、腹立てたり、すねたり、ケンカしたりと、かなり恥ずかしなー。

 今春から、東寺のほんとうの傘下になった保育園での、先生も含めた朝礼の影響だろう。だって、最近のナナは、その様子を物真似できる。

「ひとつ、保育者である前に一社会人として」。
「ひとつ、言われたことは即実行」。
 どうやら、園長の言葉に、先生方が復唱するらしい。完全に、門前の小僧になったようである。 
 「お父ちゃん、そくじっこうってなに? しゃかいじんって?」。こちらは、まったく意味がわからないようである。

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誕生日祝い

Img_2745  昨日は、1ケ月以上遅れての花祭り。お釈迦様のお誕生日をお祝いしました。

 で、今日は、ぼくの誕生日の祝い。夫婦でランチしました。3ケ月以上遅れている。遅いにもほどがあるぞー。連れ合いは、自分のことに興味がある、強い個性の持ち主。Img_2746 なかなか約束が実現せずにおりました。もう、4月の彼女の誕生日も、大学院合格祝いも、なんもかんもひっくるめてお祝いしましょう。
 京都のへそ、ど真ん中といわれる六角堂から100M足らず。いかにも京料理という雰囲気Img_2742のお店。坪庭なんかもあって、いかにも高級そうでしょうー。
 もっとも、お昼の膳なので、かなりリーズナブルなものだったけれど、雰囲気だけでも、堪能しました。

 御馳走さまでした。

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花祭り

Img_2696 1ケ月以上遅れての「花祭りお釈迦様おめでとう。

 このところ日曜礼拝は、子供たちの減少や、大人も顔ぶれが固定するなどちょっと停滞ぎみだけれど、今日は、総勢35名以上の参加で、なかなか賑やかだった。

 久しぶりに、日曜礼拝でご法話を担当した。

 何不自由もない幸せなお釈迦さまが、なぜ、城も、地位も、名誉も、お金も、家族も(みんなが欲しくて欲しくてたまらい幸せ)をすべて捨てて、出家されたのか。四門出遊の、生老病死の苦と現実を、具体的に考えてもらいました。とくに、「老い」のところです。みんな、人ごとでは、他人のことではわかっているつもりです。でも、三人称なんですね。もしくは、家族の老いなら二人称。でも、自分のこととなったらどうか。

 4歳から、5歳、6歳、7歳と…、幼児や小学校の子供たちは、1歳ずつに順番に並んでもらって、あとは10代前半、後半、20代、30代、40代、50代、60代、70代(残念ながら、いつも80代の常連さんが欠席)と、横一列に並んでもらいました。いーや、ビックリしましたね。とくに身長の大小があるはずなのに、みごとに右肩上がりで大きくなっていく。それが、40代をピークに、今度は、下り坂に転じていくんです。「無常だ」とか、「老いるぞ」と口先で話すより、少しはからだで味わってもらえたでしょうね。しかも、過去の過ぎさった時代は振り返り、思い出せるが、先の世界は、未知の領域。30代の人から、50、60、70、80代の世界は、からだも、こころも想像がつかないと味わいが出てきました。同時に、みんな生まれたての赤ちゃんの時も、2、3歳のもの心をつく前の世界もあったわけですから、いまやそのなれの果てが、お互いなのでしょう。そして、そこまで、諄々と安全に進める保証はどこにもない。どこで、この長寿山が途切れてしまうか分からない、無常の身なんです。

 それにしても、二女の保育園の4歳児が5名。かわいい。でも、お勤め(字が読めない)も法話も、なかなかジットしてられない。グズったり、歩きまわったり、仕方なんです。でもね。あれが、私の姿そのものじゃないですか。育てられて、教えられ、薫陶を受けたご恩で、黙ってご法話を聞くところまで育ててもらえた。しかし、実際は、ジッーと聞いてるフリはしていても、ほんとうに聞いているのか! カッコだけです。40代なっても、50代になっても、なーんにも、聞いてない、そして親に甘え、「わらかん、わからん」と駄々をこねている姿は、まるまる4歳児そのものです。むしろ上等だと思ってる分、質が悪いかもナー。そんな訳のわからんものに、目先の老いも、死ぬこともわからないものに、後生に一大事があることなど分かる智恵などないわけで、そんな無明そのものに向かって、「どうか聞いてくれ」と願い、頼んでくださっているわけですよ。人間どころか、一切の生きとし生きるすべてのいのちあるもの(衆生)を、必ず、仏にしてみせるという、とてつもない広大なお誓いを立ててくださったわけです。そんな弘いおこころが、限りある私に理解できるわけがない。だからこそ、こちらの迷いの気分や気持ちを追いかけるのではなく、その真Img_2720実を真実としてお教えいただいた、そのお心に耳を傾けていく。お聞かに預かるだけで、すべての用事が済むように仕掛けられている。だからお聞かせに預かるひとつなんです。聞くだけ。もう兜を脱いで聞かせてもらいましょう。

 大人の分級座談会の間、子供たちには、ケーキ作りや楽しいイヘントも盛り沢山。先生方ご苦労さまでした。
 

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「話すことは放すこと」もしくは「如是我聞」

 輪読法座。見慣れぬ学生さん風の男性が入ってこられた。若い男性だったので、てっきり、例によってあの関係の参詣者だと思ったら、見事に予想ははずれ。本願寺派のお寺のご子息、ある仏教学院の学生さんだった。いま、在学中の同人の方のお誘いで、2名参加してくださった。今回は、福井や神奈川からも参加された。2人の初参加者を含め、みな20代~30代前半の男性だ。

 輪読法座は、小見出し毎に、もしくはまとまった2、3つを、まず声を出して読み、わからないこと、疑問点を尋ね合い、次ぎに要点を押さえたり、感じたことや味わいを話し合ったりを中心にする。そして、そこから発展した話題に移っていく。

 今回は、ぼくと世話役の方、そして中心者の女性だけがやたら元気(元気すぎ!?)で、なかなかお若い方の声が聞けなかった。 
  もちろん、個人の資質もあろう。また座談会の形式に慣れていないこともあるだろう。だいたい、本願寺派の大半のお寺や、例の会にしても、自由な座談会形式というものは、極めて少ない。一方的にお説教聞くか、連研のようにテキストやテーマにそった学習会はある。でも、輪読法座や華光の座談会は、学習会とは違う。飾って、空気を読んだ優等生的な発言は、逆に浮いてしまう。
 
 それでも、空気を読み、いい意見や意味のあることを発言しようと力んでおられるようだ。発言がないと、「何かありませんか」とか、「どう感じた?」とか促しをうける。さらに発言がないと、質問する側も、なるべく具体的な点に絞って尋ねていくから、答える側は、「よい答えせねば」と焦って、ますます汲々と、トンチンカンな答えになることが多い。

 これはお若い方に顕著だけれども、たとえ、発言が出来る男性でも、会社や社会で活躍されてきた方で、今まで身につけてきた社会的会話とのギャップで、信仰座談会で苦戦される方も多い。なかには、腹を立ててお帰りになった方もあるが、だいたい社会的に地位の高い方が多いようだ。なかには、「テーマがないと議論できない」とか、「女性の方は、愚痴ばかり話しておられるが、どんな意味があるのか」など言われる方もあった。

 「話す」(発言する)ということに焦点があたっているのだが、もし思うが如く「話したい」のなら、肝心なのは、実はよく「聞く」ことなのである。そういうと、だいたい、「いや、私は聞くことは得意(もしくは好き)だが、発言しろといわれると、頭が真っ白になります。だから、聞くだけならいいが、発言せよといわれると困る」とおっしゃる。

 でも、その「聞く」こととは、「黙ってそこにいて、漠然と耳にはいてくる」ことではない。もっとアクティブに、「積極的に聞く」ことを言う。そして、実は、「聞く」ことが出来るようになると、「話す」ことも、必然的に出来るようになってくるのである。インプットされるばかりじゃ、容量オーバになるでしょう。入ったものがあるから、アウトプットできて、バランスがとれるわけ。それに、「話す」ことは、「放す」ことなんですからね。自分の思いや考えにこだわり、握っていると、なかなか「放す」ことは難しいですよ。第一、目一杯の入った容器には、もうこれ以上、新しい情報をいれる余地がなくなるから、実は「聞く」ことも出来ていないはずです。

 「聞く」こと、「話す」こと。誰も出来ていると(特に、聞く方は)思っている、コミニケーションの基本中の基本だけれども、実は、法座での「話したり、聞いたり」することは、ある種の技術(ただしマニュアル的ではなく)身につくワザ(技)、コツのようなものだと、ぼくは思っている。もちろん、ある程度の個人の資質の違いはある。経験の差も大きい。しかし、法座は、知識をたくさん得ている人だけが、意見や考えを議論し合うためのものではない。お互いが、いま、ここに、私になって、聞き合い、話し合っていく。いま、ここに、生きて届く、今現在説法に、耳を傾けていくわけでしょう。

 そのためには、座談に身を置き、実践し、その技を身につける以外に道はないんです。生きた教科書がたくさんあるもの。最初は、不自然で、自分ではないみたいだけれども、意識的に、先生や司会役のお同行さんの態度や姿勢を「まね」ていく。どうように、答えておられるか。どうように相手の声を聞いておられるか。自分の身に引き受けて、ひたすら学び、真似ていくんです。学ぶことは、真似ることなんですからね。それなら、少しでも、いいお手本を真似たほうがいいのに決まっています。そして、実際に、自分も実践してみればいいんです。そして、聞いたところを、聞いたまま、答えていけばいいんです。「私は、このように聞かせてもらいました」。あ、これって、如是我聞じゃないですかね。
 態度
(知識ではない)や姿勢が身につくまで、繰り返し、繰り返し実践して行きましょうや。

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名乗り

 大学院の同級生から、定期的に寺報が送られて来る。小さな宗派だが、ご尊父から、後生の一大事と、一念の信心のところで、活発に活動されている。

 そこに、掲示伝道の言葉があった。そこには、「浄土と地獄」だったが、ネットで調べてみると、人間界もあるようだ。出拠にあたっていない孫引きですが…。

「浄土は 言葉のいらぬ世界

 人間界は 言葉の必要な世界

 地獄は 言葉の通じぬ世界」 (曽我量深)

 ああ、そうだなー。言葉を超えた世界から、「南無阿弥陀仏」と名乗り、衆生の聞くことのできる言葉となり、しかも、言葉など通じぬ世界へと、飛び込んでくださった。 

 心暗く、愚かで、頑で、耳を塞ぎ、絶対に聞こうとしない私のために、「南無阿弥陀仏」と名乗ってくださった。

  だから、絶対に、絶対に通じるはずのないものが、通じた不思議が、ここにある。

  勿体ないです。南無阿弥陀仏

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布団

  今日も快晴 。京都は、葵祭りも終わった。
  天気はいいが、外出はせずに、支部長研修会の用意や法話テープ、DVDなどの
雑用をこなす。華光誌もほんの少し作業。6月は行事が多忙なので、集中(子供じゃないのに、いまだにこれが難しいな)していかんとなー。

Img_2632  外出できないでも、せめて布団なりとも干すことにした。昼過ぎ、布団を入れたついでに、30分ほど昼寝。これが…もうすこぶる気持ちよかったー 

  さて、週末の予定です。華光会館で、土曜、日曜日と法座

1)「輪読法座」 17日(土)昼1時30分~5時
   67-2号の誌上法話
を読みます。少人数ですので、参加しやすいかも↓。
    http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/05/rindoku2008-5.htm

2)「花祭り」(日曜礼拝、仏青合同) 昼1時30分~4時30分。1年1度、ぼくが法話します。大人の方も、仏青の方もどうぞ。座談会あります↓。
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/05/nitirai2008-5.htm

3)「高山支部法座」17日(土)夜7時~18日(日)夕5時↓
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/05/takayama2008-5.htm

また、4)「東海支部座談会」も、18日(日)昼1時30分~5時から、則武コミュニティセンターです。 
 沈む夕日も、すこぶるきれいな1日でしたネ。

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寺院布教

Img_2628   今日は、泉佐野のお寺への布教。 
 法座案内に間に合わなかったこともあるけれど、婦人会総会のためのご法座だったので、今回は、同人の方にお声をかけませんでした。

 近鉄、JR、大阪地下鉄、そして南海電車の特急と、4回も電車を乗り継いで、2時間弱。JRの京都⇔大阪間が、混んでいるのが難点。車中、岩波新書の「ルボ・貧困大国アメリカ」を読んで過ごす。建前はバラ色の自由化、民営化に隠され、ますます巧妙となる権力の魔の手。格差や差別が助長されて、未来なき社会の姿にゾッとさせられる。このまま日本も突っ走れば、明日のわが身やね。

Img_2626  泉佐野に降り立つ。ここからは、りんくうタウンや関西空港が近い。でも、駅前からお寺までの駅前商店街は、シャッター通りになっている。南海電鉄の駅もきれいになり、車のアクセスも整備されたけれど、そのことが、古くからの町に利益をもたらすことはない。ちょっと足を延ばせば、若者やファミリー向けの大型店やおしゃれなお店が進出している。古い商店街は閑古鳥が鳴くなー。  
 お寺の周辺は、古い歴史のある地区で、他のお寺も密集しImg_2627いる。歴史があるといえば聞こえがいいが、建て替えひとつもたんへん。生活道路も狭いし、下水道の整備もまだだ。周辺が栄えれば、逆に錆びれてくるところも出てくる。農業(泉州のたまねぎとかね)や漁業のような第一次産業も、後継者が不足。土地の高騰で農地を手放したり、関空の影響で漁業のあり方が変わったり、第一、今治と並んで有名だった、地場産業のタオルも安価な中国製に取って変わられた。有力な基盤産業がないかぎり、若者が流失し、高齢者を抱える地方の小都市は苦しくなるばかりだ。「
関空があるじゃないですか」というと、地元のおばちゃんたちの声でも、関空の功罪は、「罪」の方が多いようだった。自治体の(巨大)ハコもの行政による破綻も、身近な生活に影を落としている。

 実は、毎年、この時期にお招きいただくが、婦人会総会に参詣される方が、徐々に減っているように思ったからだ。新しい方が増えないのである。お寺としても、いろいろと熱心に活動されたり、呼びかけておられる。伝道の姿勢も、ここは一環している。春の永代経も、かならず華光のゆかりの先生。これまでも、故吾勝先生、故西光先生、そのあとは、孤杉先生か、松岡先生をお招きされている。婦人会の総会は、ぼくで、秋の報恩講は父が、毎年、お招きいただく。その姿勢で、ずっと布教をされているのだから、なかなか頭が下がる。しかし、熱心な活動をされていても、地元の地盤沈下だけはいたしかたない。高齢者だけのお家が増加していて、若い人達は、ここには住居場があるというだけで、生活の基盤は大阪などの都会にあり、または東京に移らる方も多く、いろいろと苦慮されているのだという。後継者の絶対的な不足。地方の伝統寺院共通の深刻な悩みだろう。

Img_2629 ご法話は、「正信偈」の「如来所以興出世、唯説弥陀本願海」のところをお取り次ぎ。ちょっと難しいと反応が鈍くなったので、軌道修正して、身近な世相や家族の話題を増えす。聞法の要は何か。結び目がない聞法は、流れるばかり。法を鏡にして照らされた私の聞く、その私にかけてくださった大慈悲のお心を聞く、それ「唯」ひとつ。前席が、「群生海」の迷いの実相、後席が、広大、深遠な「本願海」の尊さを、「唯」私ひとりのところで「聞く」、「如来の如実の言を信じる」=「聞く」のだ。その届いてきた心が「南無阿弥陀仏」の叫び。その念仏を喜び身にひとりひとりがなったのかどうかを、誤魔化さずに聞いてもらいたい。

 座談会がなく一方的になるので、質問を交え、時には歌を歌ってもらたりと、皆さんとかかわりながらの進行。ご聴聞に熱心な方が前列に座られて、反応は悪くなかったが、ほんとうのところは、どうたったのか。ちょっと、一言二言聞いた感想は、それなりに聞いてくださっていたので、声の聞こえた方はよかった。でも、なかなかなしっかりと談合(座談会)をするところまでは、現状では難しいなー。

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インドへ行こう!(2)

  今日は、トラベルサライさんとの相談。案内状の校正を見た。皆様のお手許には、7月1日の華光誌に同封する予定。早く休暇をとる都合もあって、日程を知りたい方もあるので、一足早く概要をお伝えします。

★第3回 華光会創立50周年記念
 
「インド・ネパール仏跡巡拝(六大聖地)と、 ヒマラヤ眺望の旅」

★日程:21年2月1日(日)~11日(水・祝)の11日間

★1日目=関西空港(11時10分初)-バンコク(泊)
  2日目=バンコク-ガヤ-ラージギル(旧王舎城)泊
  3日目=霊鷲山(ご来光)-ナーランダ大学跡、ラージギル参拝-ガヤ泊
  4日目=ブダガヤ(成道の地)参拝-ベナレス泊
  5日目=ベナレス(ガンジス川)見学-サルナート(初転法輪の地)-クシナガラ泊
  6日目=クシナガラ(涅槃の地)参拝-スラパスティ泊
  7日目=祇園精舎、舎衛城跡参拝-インド領のカピラ城跡-ルンビニ泊
  8日目=ルンビニ(誕生の地)参拝-空路(カトマンズへ)-カトマンズ泊
  9日目=カトマンズ(OPヒマラヤ遊覧)、カトマンズ見学  -カトマンズ泊
10日目=カトマンズからパンコク(機内泊)
11日目=関西空港着 (朝7時すぎ着)
   (太文字が、六大聖地です)

★費用:345,000円(別途、手数料、燃料費、空港使用税など、4万円ほど必要です)。また、ヒマラヤ遊覧は、OPで、$200。追加料金で一人部屋も可能。

Bud_image2_3  関空の集合時間は早いですが、インドの前にバンコクで1泊しますので、ここはゆったりしています。もしも、アメリカからの参加の方があれば、「現地、集合も可能です。航空料金は引きます」とのことでした。関西空港合流もできると思いますよ。

  旅程をよくみると、ムンバイ(旧ボンベイ)、ニューデリー、コルカタ(旧カルカッタ)のインド3大都市は避けていますね。パトナやラクノーなどの都市も外れています。大都市周辺はホテルも国内航空運賃も、日本以上に高騰しているのだと思います。

Bud_image6_2★定員:最低15名(以下の場合は中止)~25名まで。(華光同人とその家族の方を優先したいと思いますが、誌友の方も受け付けます)。ただし、これ以上になると、バスが2台になります。一体感も薄れるし、移動にも若干影響がでるので、定員は厳守します。
 いまのところ、予想以上の反響で、「行きたい」と表明された方だけでも、22、3名もおられます。でも、これはあくまで希望ですね。現実となると、休暇、お金、体調等で、またメンバーが変わると思います。だから、まだ焦る必要はありませんよ。7月に案内状が届いて時点でしか、受け付けませんので、ご安心ください。よくご案内をお読みいただいて上で、お申し込みくださってけっこうです。おBud_image4_2申し込み後に、次ぎの段取りのご案内があり ます。なお、11月の華光大会の休憩時間に、「參加者説明会」を開く予定です。このあたりが、最終の〆切日ですが、もう少し早めに定員に達すると思っています。
 
 ご案内をご覧いただいた上で、お問合せやご質問をどうぞ

(上から、ブッダガヤ、サルーナト、クシナガラ)

 トラベルサライさんのHPで、仏跡やインド事情の情報がでています。ご参考までに。

  旅行社のHP(大阪)  http://www.saray.co.jp/

 インド政府観光局HP http://www.indiatourism.jp/

  ネパール大使館HP http://www.nepal.co.jp/embassy/

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『つぐない』

 『つぐない』 これはおススメですね。

Tsugunai_01  文芸作品の映画化で、身分の違いを超えた恋愛が、戦争に依って引き裂かれる女性向きメロドラマだと思っていた。ちょっと、宣伝コピーが臭かったので、見るのをためらったけれど、予告編をみるかぎり、どうもそれだけではないような気配もある。「つぐない」のタイトルも気になる。結局、この気配を信じて、見てよかった一本だ。
 ラスト、どんでん返しがある。この仕掛けはなかなか見事だ。いわば映画そのものが、箱の中に、実はもうひとつ箱が入っている、入れ子状の構造になっていたのだ。しかも、冒頭からのシーンを思い出すと、そのことを示す、いくつかの伏線が用意されていることに気づく。タイプライターの「バチバチ」という音がいかにも効果的で、物語の重要な伏線になっていたのが、見終わると分かる。なかなかうまい。そして、同じシーンを、異なった視点から見せることで、物事に深みが出て来る。下手をすると、これは見るものを煩わしくさせかねないれど、本作に限ってはここがポイントになる。音楽や擬音の効果もそうだが、丁寧で、うつくしい映像や、引き上げる港の戦場のシーンも壮大だった。

 ネタバレしない程度の物語はこうである。
 1930年代、第二次大戦前のイギリスの上流家庭の屋敷が、最初の舞台にある。
 主な登場人物は3名。お屋敷の令嬢にして、才色兼備のセシリア(キーラ・ナイトレイ)、小説家志望のませた13歳の妹、ブライオニー。使用人の息子ながら、その理知さが評価されて、彼女と同じ名門大学出身で、さらに医学をめざすロビー(ジェームズ・マカヴォイ)。当初は、身分の違いなどで反発していた二人が、本心に気づき結ばれていく。そのとき、あるスキャンダルな事件がきっかけにして、ブライオニーのウソが、取り返しの付かない事態へと転がっていく…。
 映画はこの3人のそれぞれの視点を通して、時には過去に遡り、または、同じ出来事を異なる視点から見せながら、ラストへつながっていくのだ。

 屈折した心情による誤解からのウソ(その時の彼女には、それが真実だったのかもしれない)が、事の重大さがわからぬほどの幼児性から出たものでも、他の人生を大きく狂わせ、悲劇へと導くことになってしまう。一方で、そのことで人生の利得を得る人も誕生した。どうすればその過ちをつぐなうことができるのか。
 実は、そんなことは不可のである。過去はかえることはできない。だから、その重荷をただひとりで背負って生きる人生もある。映画では直接触れらず、想像するしかない、彼女の青年期以降の人生のありよう、罪の意識と苦しみこそが、この映画の重さなのだう。
 でも、ここのところの解釈や評価はさまざまだなー。これじゃ、結局のところ、自分のなぐさめにしかならないんじゃないかなー。一端犯した罪は、どうころんでも、取り返しがつかず、引受ける以外にないということだなー。

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贅沢

Img_2619   広島支部法座。H家。きれいに庭を整えておられている。ハチスの花はこれからだが、ひとつひとつは小さく慎ましやなマーガレットが、きれいに咲いていた。

 4月に続いて、「総序」のご文を味わう。永代経からの方は、3週続けてのご法縁ということになる。汲めども尽きないお味わいをいただく。それも、現代語訳も参照するが、あくまで親鸞様のお言葉を直接いただきたかった。確かに、慣れない方には難解で、外国語を聞くようだと言われた。でも、勉強や覚えるためではない。このご文を通じて、親鸞様の熱く、深いおこころに少しでも触れられたらと思うのだ。もう挟む言葉ないですね。ひとつとして無駄な単語がない。しかも、単なる美辞麗句で、対句や韻を踏んでおられるのでもない。言葉のひとつひとつに意味がある。動詞の「度する」「破する」「除く」「獲る」「得る」「帰する」…なんと体験的な、力強い言葉なのでしょう。「ああ」とか、「哉」という、叫びにしてもそうですね。ぼくらが味わえるのは、ほんの氷山の一角やね。なぜ「強縁」「宿縁」の「縁」なのでしょう? 「超世稀有」とは、何が世に超えていのかなー? どうして「たまたま」なんの?とか、喜ぶのはなぜ「遠く宿縁」なの? 「いま」遇って「すでに」得ているの?など、さまざまなことを、皆さんと味わいながら読ませていただきました。こんな時間を共有できるのは、ほんとにう贅沢な極みだと思いました。 
 親鸞さまのお喜びは、そのまま「本典」選述のお心につながるわけですが、一重に、如来のご恩徳の深きことを喜び、その仏徳を嘆ずる以外にないわけですね。実は、私達のご法座も、仏徳讃嘆するために開かれるんです。仏恩の深いことを喜び、共に念仏させていただく。それには、この私が如来のご恩徳を喜ぶ身にさせてもらわねばならない。だから共に信未信の沙汰をしていく。あくまで、仏様のご恩徳の深きことをお聞かせに預かるのが第一なんですね。そこを喜ぶ身にさせていただいたなら、これほど勿体ないことはないじゃないですか!

Img_2625 座談会が終わって、最終の列車まで、ご馳走を囲って、ワイワイやりました。同人の庭で栽培された、大根、にんじん、レタス、山菜などを材料に、心尽くしのお料理でした。自然や自家栽培のものを、手作りのお料理で食べる。これも、いまや最高の贅沢になりましたね。おいしかったー。ご馳走さまでした。

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酔うより覚める

 ミーティングをすませて、みなみ会館へ。朝イチで、一本。『≒草間彌生 わたし大好き』  いや、これはすごいわ。留まることのなく、汲めども尽きぬクリエイティブな創造と、圧倒的なパァフォーマンス、その存在感。「天才は見飽きない」のキャッチコピーどおりだった。また詳しくね。

Kidspool   昼からは、子供たちを、近所の公共プールに連れて行った。歩いて10分弱の距離のところに2カ所、西に行けば京都市の、東に行けば京都府の、同じような運動施設がある。女の子ばかり4名。みな、息継ぎが出来なくて、顔をつけたままのバタアシで進んでいく。子供用はいいのだが、水深110㎝の普通プールは、まだ足が付かないようだ。小4になるまでは、保護者同伴。とにかく楽しそうにはしゃいでいた。ぼくも、ジャグジーやサウナもあったので、気分転換になった。いまの、仕事が一段落したら、週1回、1時間ほどの水泳教室に通ってもいいなーと思った。泳ぐのは好きだが、習ったことのない自己流なので、ちょっと楽しいかもしれない。

 帰ってきて、カウンセリング面談を一件。ゆったりした気分で聞かせてもらった。

 明日は、会館では、「聖典講座」。ぼくは、広島支部法座。いまは、広島法座の準備をしている。永代経法座を挟んで、連続になる。「総序」の後半を部分を予定している。大きな法座のあとは、いろいろと話題が豊富だし、気分も高揚しているので、お伝えしたいことが多い。つまり、法悦に浸っているのはぼくの方で、いまなら、少しは篤い話もできるでしょう。
 もし、商売として考えるなら、人は酔わせたほうがいい。聞き手も、酔いたい方のほうが多い。だって、いい気持ちだもの。でも、こうなると、宗教家も、詐欺師も紙一重のところにある。ほんらい、仏教の究極は、個の目覚めにあるわけでしょう。酔うこととは正反対で、覚めるわけ。自己に目覚める、法に目覚める。覚めた話を聞かせていただくのだからね。酔わすのではなく、目覚めさせる。ここは聞き手も、お伝え側も、忘れてはならない一点だ。

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課題

  伝道研のつづきです。
 顔ぶれが顔ぶれなので、安心してぼく自身を開いて、個人の抱える課題-対人的なところで起こる、ぼくの抱えている葛藤や心理的な問題や、いま、気がかりなことを聞いてもらった。どうしても、上からの攻撃に防衛的になる自分がいるし、いろいろと傷ついたり、凹んだりしやすい。

 そんな自己の課題を話しながら、少しだけ肯定的に感じたことは、そんな自分を抱えながらも、以前に比べると、自己一致の状態に立ち戻れることが、多少は増えた気がするのだ。凹みながらも、その自己を歪めたり、否定したり、もしくは目を背けることなく、口に出せるようになったのである。

 たまたま、昨夜も、そのつづきで、心理カウンセラーのM先生と、お話をする機会もあって、90分近くいろいろとお聞きいただいた。

 なかなか、自分の中に起こっている感情に、気づくことは難しい。「どうして?」と思われるかもしれない。でも、自分を知ることは、感情レベルでも、難しいのである。なぜなら、うわべの喜怒哀楽に覆われてしまって(それが自分の真の感情だと信じ込む。当然、そんな感情を抱かせた相手が悪いと非難しがちだ)、その奥に流れている自己自身に目を向け、その声を聞くことは、なかなか難しいのである。つまり、「カーァー」と腹が立つ、その奥になにか、微妙な心の動きがあることが多いが、その「カーァー」に100%覆われてしまうと、その微妙ないのちの動きに気づくことが、難しくなるのだ。

 たとえば、嫉妬というやっかいな感情がある。なにも男女間の恋愛のことではない。ネガティブな、自分でもいやな感じは、誰もが外に出したいし、そうでなければ目を覆いたい。それで、なかなか自分の中にある嫉妬の感覚を、正確に掴むことは、稀なのである。その難しさは、たとえば、からだが感じている「嫉妬」という感じを、言葉にすることが出来るかを考えてみれば、よくわかるだろう。
 それで、自分の真の感情に気づけずに、気づきのレベルか、表現のレベルかで、歪んだ形で口や態度に現れてくる。極端に防衛的だったり、(愛する)相手を攻撃したり、(愛するがゆえに)避けたりするようになるのである

 カウンセリングやご示談で、ぼくが聞いたり、問題にしているのは、その奥に流れている、微妙ないのちの流れの方である。

 確かに、いまの日本の社会全体が、強迫神経症的な、完璧主義の傾向が強い。そこに、猛烈なスピードで効率主義、成果主義が幅を効かせている。しかも、自己責任で、ひとりひとりが孤立しがちで、かつ常に緊張を強いられるストレス社会でもある。管理や環視が強化され、ますます非人間的な状況が強まる中で、自己のネガティブな感情を持てあまし、他者や弱者、敗者に対しては、攻撃的で、排他的で、まったく不寛容な時代なのである。それ故に、誰もが、戦々恐々として、傷つきやすく、心を閉ざし、うつ状態から閉じ籠もり状態の傾向が強いのではないか。当然、やさしさに異常に飢えた時代でもあるが、そのベクトルがなかなか他者に向かないのが現状であろう。

 そんな社会に生きているひとりひとりも、個人の資質に加えて、社会状況の敏感をもろに受け取っている。特に、充分な自我が確立していない、子供や若者への影響は、大きい。それが、いまや働き盛り、分別盛りの壮年層や初老へも、波及しているといっていい。

 誰もが、しんどいのである。

 そんな悲しみや苦しみを、ひとりひとりがわが胸だけに収めながら、今日も、さまざまな過労に耐え、かろうじて生きているという状況なのかもしれない。

 殊ここに至っては、個人の心理だけに還元し解決する問題でないことは、明確ではある。もろちん、さまざま大きな課題が横たわって、簡単ではない。

 個人的な極論をいえば、自利利他円満した弥陀の本願だけが、唯一の光明になりえると思うのだが(理由は、また機会をみて書きます)、その前に、まずは、正確に自分に起こっている感情の流れに気づくことも、大切なのである。ロジャーズのいう、自己一致の態度である。これが、なかなか難しい。だから、ぼくも、日夜、日常生活での実践を通じて、精進していくしかないのである。

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一宗の繁昌

 昨夜は、伝道研究会。永代経法座の直後ということで、出席率が悪い。最初は、3名。テキストには入らず、出版のことやインド旅行(日程やコースが決定。15日に旅行社と合って詰める)の説明と、永代経の分かち合いを行ううちに、4名に増えた。

 改めて3日間の法座の余韻を味わっていく。どの先生のご法話も尊かったし、また司会役の同行さんや若手の先生方も力をつけておられる。途中、法水を浴びまくって放心状態だったTさんに、その時の心境を尋ねたら、「わたし、いま死んでもいいと思うほど、ご法のひたれて幸せだったわー」と、あいかわらず強烈な味わいを述べてくださる。そうなのか! ぼくなんか、まだ娑婆のいのちが惜しいけどなー。こんなところで死ぬのはもったないものなー。まだまだ味わっていくぞー。

 特に、今回はある方のご縁をきっかけに、新顔のお参りが多く、頼もしかった。今後の展望なども話し合った。もちろん、新しいご縁はうれしい限りだが、しっかりと、ひとりひとりへの対応が出来ていたか、お伝えしていたかを確かめあった。

 ひとりでも多くの方にお参りしてもらいたい。この弥陀の本願をお伝えしたいの願いだけである。しかし、もし組織が大きくなり過ぎて、ぼくや父が、同人のお名前もわからなくなったり、気軽にお声をかけられなくなったり、参詣の方のご心境がわからなくなったら、それはもう華光の集いではないだろう。一人でも多くということは、物質的な人数の多少だけてはないのである。

 蓮如上人はおっしゃる。「一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威(い)のおほきなることにてはなく候(そうろ)ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候(そうろ)ふ…」と。目先の人数の多少でもない。たとえ多かろうが、少なかろうが、信心の沙汰がないのなら、もうそれは法座ではないのだ。誰も、ご法を喜ばず、仏徳讃嘆しないのなら、何万人集まろうとも、なんの意味もない。そして、それには、いま、わたしの目の前にいる人-たとえそれが初参加の方であろうと、何十年の方であろうと、また別の会の方だろうが、他宗派の方だろうが関係なく-いま、ここでご縁を結んでくだる、その方お一人に、阿弥陀様のおこころをお伝えしていくだけである。それは、単に一方通行で伝えるのではなく、それを相手の方が、受け取り領解くださるところまで、ひたすらおつきあいをさせていただく、ただそれだけが大切なのである。

 そこに心を寄せる時に、ぼくのなかには、まったく曇りがなくなる。微塵の雲りもないのである。まったく不思議なことだ。凡夫の浅ましい身で、いろいろな心理的な葛藤も抱える身なのに、そのまま喜ばせていただいた阿弥陀様の尊いお心をお伝えするだけなのである。親鸞聖人の遺弟の念力により、法の威力によって、お念仏は弘まるのだ。

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出版

  今日は、永代経でS先生からご紹介いただき、京都で仏教書や人文書を手がけておられる出版社の方とお会いした。華光会の活動や、これまでの出版のお話をする。浄土真宗だけの専門店ではない。それでも、かなり浄土真宗の内情にお詳しい。実践的に聞法もされているようだ。東西本願寺系統は巨大教団で、資金も潤沢。それに、宗派の出版社だけではなく、その系統の大きな版元もある。しかし、真宗各派や浄土宗各派には、そんなものを持ちない小さなところも多い。そんな隙間を縫うような仕事を古くからされているようだ。大きな網から漏れる部分を、丁寧にすくいあげ、良心的な仕事をされていることは、お話を窺ってわかってきた。

 これからの出版計画にある、子供大会の法話集、ついでに凡子マンガやアニメ、ぼくの法話集などもご覧いただいた。なるほど、専門の方の目を通して立ち上がる問題点も教えていただく。その点、素人の作ったものである。勉強になる。そして、著者(作家)だけで、本はできない。いかに、編集者の黒子の力が大きいかがわかる。たんに、形態として華光会での内部の自主出版にするしないのは、資金や販路の問題だけではない。他者の目、プロの確かな目が必要なのだ。 
 子供大会の法話集は無理だが、ぼくの法話集には関心をもってもえらた。セレクトしたものだけでなく、これまでの誌上法話もすべてもって帰られた。

 お話を窺ううちに、なにが問題点なのか、自分が今後をなにをしてていきたいのかが、立ち上がってきた気がする。これは単なる出版の問題に留まらない。これからの華光会の方向性、もっというと、自分自身の生き方の方向性をも、ある種、示唆しているように思えた。すべてが、同じ方向でつながり、リンクしているのである。
 実現するには、もう少し時間はかかるだろが、なにかが動きだして、その流れに自分も乗っていけるような予感がある。

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キャッチボール

 永代経の間に出たゴミだし。ネットを出すが少し遅くて、ちょっとカラスにやられちゃいました。そうじが面臭い。それにしても、3日間、人間が過ごすということは、たくさんのゴミを出すことにほかならんね。残るのは、法悦だけじゃないぞ。この悪臭を放つゴミだって、しっかりだしております。

 GW中の永代経法座を無事に終われたのも、縁の下で我慢してくれていた方のおかげですからね。でも、なかなか仏法という錦の御旗を振り回してしまうと、当たり前の感覚がマヒしてしまうおそろしさがある。擔板漢(たんばんかん)-大きな板を担っているので、片方の景色しか見えていないのに、それがすべてと思ってしまう-。片方でも、見えているだけにおそろしいね。かっといって、家族や仕事だけに熱中して、聞法が3の次ぎになっていいのかというと、それもまた違うものなー。要は、イチバン身近な家族との信頼関係やコミニケーションって大事ってことだね。関係が近いだけに、案外、疎かになりがちだし、同時にイチバン厄介な落とし穴。

Img_2598   というわけで、今日は、子供と少し外で遊ぶ。まあ、疲れているので、遠出はせずに、超近場。やはりGWがお仕事の友達のうちの子供さんを連れて、近所の公園へ。永代経中にもそうだけれど、一足早く真夏日を迎えて、日差しがまぶしい。暑さのせいか、いまが盛のツツジや藤が終わっていたが、新緑はやたらにまぶしかった。

Img_2609 子供と思いきり遊んで、連れ合いとキャッチボール。そうそう「夫婦の会話は、こころのキャッチボール」やもんね。それしても、彼女には、ブログを始めて、法話中でも、汲めどもつきぬほどの奥のふかーいネタを提供くださり、ほんと感謝です。

 帰り、近くの京銘菓のお店で、おもちつきの客寄せイベントがあったので覗いてきました。わが家では、こんなこと珍らしいけれどね。結局、1円も使わないでけっこう楽しめました。 

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功徳のうしほに一味なり

  永代経法要法座、終わりました。このところの華光大会や永代経法座に比べると、お参りがかなり少なめでした。たぶん、当番の支部の方の宿泊が少なかったのと、急なキャンセルが多かったのもあるでしょう。でも、その少数精鋭での当番支部の方々と、他の地域の助っ人の皆さんも、献身的にお世話くださいました。ありがとうございました。

 初めて九州のT先生のもご法話をいただき、聞かせていただきました。ご自分の信仰体験に留まらず、教義的な押さえもしながら、お取り次ぎくださいました。その中でも、2点。実生活で、親に反抗しながら、実はうまく愛情を表現できず、もしくはその距離が保てずに、傷ついけあいい、いがみ合って、憎悪の最悪の悲劇をもたらしていく。でも、それは今生の親子関係だけではなく、実は阿弥陀様との関係そのものでもある。しかもです。その王舎城の悲劇は、たんに、アジャセと私が同じというレベルという味わいを踏み出して、時空を遡り、まさにその悲劇の引き金を引いているのは、いまのこの私に他ならないという深い味わいを聞かせてもらいしました。そして、最後に、悟朗先生に随順し、そのみ教えを「聞く」ことに徹しておられるM先生を、お手本にされていこうという謙虚な姿勢にも、深く感銘を受けました。そのときです。ぼくの中で、急に、M先生のお姿が釈尊に付き従う阿難尊者そのものに、はっきり見えてきました。まさに、ここも時空をこえていた。そのお姿の尊さに涙せずにはおられませんでした。まさに、阿難尊者は、「如是我聞」の御方にほかなりません。

 最終日の朝には、総序の文から、大経の心の「海」(光)と、観経の心の「逆謗闡提」、そして小経の心の「転・成」の言葉をキーワードに、かなり熱く味わわせていただきました。いくら数字を並べても、×ゼロは、ゼロなんですね。前の数字をいくら大きくしても、いくら位をあげても、ゼロはゼロなんです。でも、仏法をきけば、ゼロでなくなると思うんですね。おそろしい。ゼロをそのままゼロとお聞かせ預かるだけなのに、立派な数字を並べることに腐心しているわけですね、自力ともしらずに。でも、そんな私に南無してくださっているんです。その南無のこころのお働きで、同一鹹味、不宿屍骸の本願海の広大無辺の働きに帰られていただく。誰が? 凡夫の悪業をもったこの私のままでです。勿体ないですねー。グズグズしておれん。少しは、皆さんにも、その熱が伝わっていくのが感じられました。

 すべてが終了し、最後に支部長さんにごあいさつをいただきました。いえ、あいさつではなく、光明に照らされた自己内省からの尊い尊いご法話でした。私がご法話を聞かせていただく、法水を浴びせていただくための、さまざまな犠牲(今回の当番ひとつにしてそうです。お世話役の方はそのためにご法話も聞けず、座談も上の空。懇志会では、飲み屋のきているように、準備ができているのは当たり前という態度)の上でしか聞けない私の愚かさをお伝えいただきました。 
 そして、いつもそう聞かせていただいていますが、その中に、「私が親を選んでこの世に出てきた」という言葉がありました。自分の中に、ズーンと入ってきて、ハッとしましたね。それは、T先生のご法話にも通じました。どこかで、責任転嫁しているんですね、親に。でも、実は、自分が選んでいるです、すべてを。そう聞かせいただくと、なにか落ちるものがありました。

 でも、いまは、疲れていて、ちょっと放心というか、ブルーな気分もありますね。攻撃には弱い、傷つきやすい自分がいますね。ここらあたりは微妙な、繊細な心なので、今夜はこのヘンにしておきますが、まあ、せいぜい、自分を責めたり、自己攻撃しないで、じっくり(自分で)自分を聞いていってあげたいですね。

 いまは、「不足は、不信心なり」。華光では聞くことが珍しい、清澤満之師のお言葉を、さまざまに味わっております。

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永代経法座前日

 永代経法要法座の前日。

 法話の用意をしている。ぼくは、初日と、3日目に2座あるので、だいたいのテーマだけが出来ている。初日は、総序の前半で、特に「海」というところに焦点をあてようと思っている。3日目は、自分自身がお念仏にあった信仰体験の実地のところで、少し話していこうと思っている。いまから、もう少し検討していこう。

 夕方。子ども大会からのご縁で、仏青のメンバー同士の結婚が決まり、報告にみえられた。「おめでとう!」 よく考えると、お二人とも、祖母世代からの華光会とのご縁のある方である。まったく不思議な縁だなー。

 そのおり、「いま、サウンド・プラネットで、先生の法話流れてますよ。華光会館でのライブなので、お念仏や(Tさんの)笑い声など入っていて、けっこうおもしろい」とのこと。そうなんだ。ちょっと調べてみたら、確かに再放送されているようだ。前回は、東京公演会のものだが、今回は、華光大会の、ぼくと、父の法話が流れている。それが、また再放送されているようだ。華光大会なので、同人の声も収まっているという。それより、華光同人とはいえ、実際に聞いている人があって、びっくりしたなー。ぼくのテーマは、「本願を信じ念仏申さば仏に成る」という、歎異抄12章の一部のこころをいただいている。このチャンネルは有料だが、華光会では、法話テープやDVDも販売中!

 東京公演会の時と同じものだが、下記に紹介されている。↓
 
http://music.usen.com/modules/J/content0102.html

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家庭訪問

 家庭訪問があった。

 連れ合いが、掃除機をかけている!

 ぼくが参戦すると、一気に居間を片づけた。

 夕食に降りてきた父と母が言った。
 「あれ、今日は足の踏み場があるなー」。

 永代経を前に、一瞬、きれいになる。でも、瞬く間に散らかった。襖を閉めて対応した部屋は明日の仕事だ。

 先生は、やはり、「油断をしたら、ひとり二人の力で、一気に流れていくからたいへんだ」と言っておられた。でも、言葉とは反対に、どこか余裕というか、自信ありげにも見えた。児童のことを、よく見ておられるのがわかる。「ひとり、ひとりはいい子なんですがね。それに、それぞれに家庭や環境の事情がありますから」と、ポツリ。みんな、小さなこころに、いろいろなことを背負わねばならない、辛さがある。こんな豊かな国なのに、なんでこんなに悲しいのだろう。これも、誰もが通う義務教育の公立校ならではだろう。世の中同様、いろいろな親がおり、いろいろな子供がいる。当然、学校の中でも、いろいろある。でも、ぼくは、その方がいいと思っている。その意味で、高校生までは、出来れば普通の公立に行かせたいとは思っている。

 授業のこと、教室や学校の中での姿。地域での子どもたちの関係。そして、家庭のこと。いろいろとお話をさせてもらってよかった。授業や学級経営だけでなく、実にさまざまなところに目配せする必要があるんだ。ほんとうに、いまの小学校の先生って、たいへんだよなー。

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