無条件降伏
この1週間、新しい方の法座の問い合わせ、華光双書の申込み、さらには来館などが、毎日、1~2件程度だが続いている。今日も、ぼくが電話を受けたが、聖典講座の参加の問い合わせだった。ちょっと緊張気味の声の響きだったが、だいたい同じ経過で、お問い合わせくださっている。皆さん、真面目な印象を受ける人達ばかりで、後生の一大事を求めておられるようだ。せっかく華光の門を叩かれるのである。ご縁を大切にしていきたい。ただし、難しい問題もなくはないし、ほんとうに定着されるには、それなりの時間も必要だと思う。ただ、AやBより、華光にいった方が、早く信心決定できるだろう程度の方は、ちょっとご遠慮いただきたい。
そういえば、昔、「そちらでは、どの位(期間のこと)で信心獲得できますか」というへんな電話の質問があった。あのね。「ここを自動車教習所かなんかと勘違いされていいませんか」と答えた。もしかして、第一段階、第二段階などの獲信マニュアルでもあるとお考えかなー。最近は減ったが、ときたま、へんな電話やあやしい人がくる。だいたいお話するとわかるので、お引き取りねがうことが多い。妙にずうずうしかったり、話があわないのだ。そんな後で、華光に関する怪文書がでたりしている。「ハハーン、あれだなー」と思ったことが、何度あったことか。
そんな不純な輩は問題外としても、獲信というご褒美だけを求めても、方向違いもはなはだしい。要は、法を鏡として、ほんとうの自分自身と向きか合えるかどうかだ。それも、ご法を求めている、念仏を称えている自分自身をも問題にしていけるかどうかにある。もちろん、仏果(仏に成る)を求めることが、最高善である。だから、法に向かうことは善ではあるが、いかんせん、虚仮不実の自分自身の物柄は、虚仮不実のままなのだ。ところが、仏法が絡むとその自己を絶対化してしまいがちである。この私自身は、どう切り刻んでも真実のかけらはない。真実を求めるこころのかけらもない。仏様や念仏も、自分の都合で利用する心しかないということが、念仏によって知らされていくのである。だから、何かを取り込むために、信心獲得のために求めるのではない。むしろ、方向はまったく逆だ。信心など求める資格のない、ご法など語る資格のない自分と出会っていくしかないのである。そんな棒にも箸にもかからん、救う手がかりのない私のために、如来様のご苦労を聞かせていただくだけなのであるが、なかなか如来様のことは、見向きもしない。
でも、せっかく「求」めることを教えていただき、求める身になったのである。その方向で、自力の行や善を強化するのではなく、「捨」てることを聞いていただきたい。確かに惜しい。でも、ちょっとやそっと小出しに手放すのではなく、すべてを投げ出すのである。
如来様への無条件降伏である。
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