法座で考えたこと
日高法座では、高齢でお参りができないとか、身内を亡くされた同人を中心に、月忌参りをしている。今回は、法座の前後に7軒のお参り。もちろん、旦那寺はあるので、法事やお葬式は別。その意味では責任がないので気楽といえば気楽。でも、夜のご法座にお参りされる方は目に見えて減ってきたので、こちらがメーンになる日も近いかも…。
一時は、中止してもらおうかと思ったけれど、いまは、ぼくも楽しみになっている。年に1、2度、ほんとうに待ち焦がれて、いろいろな話を聞かせていただく。それは、ままならぬからだの愚痴だったり、故人への恩愛の情だったり、さまざま。不思議なことに、高齢の老婆の愚痴話なのに、聞いているぼく自身が、なぜか温かい気持ちになり、元気をいただいたりする。異口同音、お念仏に出会った喜びにを涙ながらに話され、一緒に喜びあえるのが大きいのだろう。
特に今回は、7軒のうち、独居の方を除く4軒で、息子や娘さんが同席されてうれしかった。若夫婦、お孫さんがそろってくださるお家もあり、ぼくとお母さんとの法義話を一緒に聞いてくださり、涙を浮かべておられる方もあった。それでも、夜の大人の法座にはまだ参加されない。翌朝の花祭りには子供さんと参加されている。
その意味では、どこかまだまだ距離がある。浄土真宗のおみのりは、ほんとうに聞いてもらおう、伝えようとすると、難中の難だ。難行、苦行の聖道門の修行じゃないけれど、一段、一段、はるか彼方の世界。ましてや、相手があまり聞く気がなかったり、義理参り程度なら、その彼我の距離に、時に絶望的になり、くじけそうな気分になることが、正直ある。
ところが、どこかでなにか飛躍するというか、その距離が一気に縮まる時がある。まさに、横超だ。たとえば、それは外側の機縁(親が死ぬとか、家庭の不幸とか)が引き金になることもある。でも、それは表面的な問題。そこまでに、それまでの内のお育てが必ずあるわけだ。彼の内実で、確実にご縁の芽が育っている。でも、その歩みは、ほんとうに、徐々に徐々に、カタツムリのごとく進んでいるので、なにかその遥かな距離ばかりが気になってしまう。でも、いまは、そのご縁作りの時期、カウンセリングでいうところの、ラポート、信頼関係を構築する時期が必要だと、焦らず、腰を据えて関わっている。
そんな遥かな絶望的な溝と、同時に劇的な飛躍と、それを促進する目に見えないお育て。そういうことを体験的に現した言葉が、「宿縁」とか「宿善」の有無でしょう。宿世からのご因縁と言わなければ、説明が付かないわけですね。
とはいっても、どこかで、自分ではなく、相手を動かそうとしているんじゃないかなと。だから、思い通り反応がないと、ガッカリしてしまう自分がいる。相手の表面の変化ばかりに目を向けているわけ。促成栽培や強制は無理だと思っていても、どこかで、動かない相手と同じ視点、同じレベルで物事を眺めていることが多いんじゃないか。それなら、世間の常識的な、聖道門的な一段一段進むアプローチに、こちらも留まってしまうわけですよね。
そんな時は相手の飛躍を待たずとも、勇気をだして、こちらが飛躍してみてもいいんじゃないかと、最近思うようになった。むろん飛躍といっても、別に特効薬やマニュアルがあるわけではない。
要は、こちからの積極的な関わりも深い意味がある。そうすると、すぐ威圧的になったり、上からのイメージがあるけれど、むしろ誠実な態度、正直さといったほうがいいかもしれない。相手の立場を尊重するのは当然だけれども、こちらも自分自身を偽ることなく、恐れることなく、正直に開いていっていいんじゃないかなー。相手を尊重するというのなら、自分自身をも尊重し、自分自身を受け入れられない限りは、絶対に、相手のことなど信じることは出来ないものなー。
そこを根底から支えてくださるのが、「十方の衆生よ」と呼びかけ、「若不生者」のお誓いを立てて下さっている阿弥陀様のご本願なのでしょう。その大悲のお心に願われている、凡夫同士というところで、必ず、響きあえるものが出て来るんじゃないかと思うわけです。日頃、お念仏に出会うことは、自身のあさましい、お粗末な姿に出会うと同時に、この大悲のおこころに涙するわけですからね。その原点に帰らせてもらうだけなんだけども、実際となると、なかなか難しいです。
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コメント
尊い示唆とご教示ありがとうございます。「自信教人信」のお心を「自分自身をも尊重し、自分自身を受け入れられない限りは、絶対に、相手のことなど信じることは出来ない」から知らされる思いです。決して自分では傲慢にすすめたりしてるいるわけでない。逆にこちら側で勝手に思いはからいそれを正しい(良し)としていることはある。しかし、この何れの態度も相手の話し(思い)を聴き、理解していないことである。そればかりか、本当は自分自身をしっかり受け止めていないことによるあらわれと知らしていただきます。分かっているけど・・・難しいな、と思います。今後ともよろしくお願いをします。今回のブログには、お同行さんと讃嘆することの大切さを「不思議なことに、高齢の老婆の愚痴話なのに、聞いているぼく自身が、なぜか温かい気持ちになり、元気をいただいたりする」のお言葉を通じてご教示戴きました。何れも南無阿弥陀仏を通して聞かせてもらうことですね。合掌
投稿: 稜 | 2008年4月 9日 (水) 10:35
今、相手の方が飛躍されていくのを目の当りに感じていて、
こちらの思い込みや、ちょっと前の相手の方の言動に囚われていたのでは、飛躍されているのに気づけないでいただろうと、驚いています。ご質問に、今、ありのままの私のところを
お話したら、響いてくださるところがあって、それも、驚いています。ほんとうに、はかりしれない「お育て」を感じさせていただいています。
投稿: Tねこ | 2008年4月 9日 (水) 20:16
稜さん>引き続きどうもです。これが、ぼくも不思議な感覚で、最近気づいたことなんです。もう少し正確にいうと、なにもお同行さんの法義話だけに限定されることではないんです。なにかカウンセリング的な自己一致とか受容といった態度と結びついているんじゃないのかと、考えています。そのときは、まったく聞かせてもらうのが苦にならないんですね。イライラしたり、口を挟みたくなったりもしない(そんな時も往々にしてある)です。そんな形で聞かせてもちうと、自分自身が、温かく、励まされるから不思議なんです。
Tねこさん>なにか向き合っていて体験的に気づかれたことがあったんでしょうね。もう少し具体的にお聞かせいただきたいですね。またお話ください。
投稿: かりもん | 2008年4月10日 (木) 00:41