« 輪読法座の意義 | トップページ | 『ミスター・ロンリー』 »

サイコドラマもしくはワールドワーク風

 今回の広島法座は、かなり風変わりな進行になった。

 前半の法話は、本典(教行信証)の「総序」のご文をいただく。ここなら、皆さん、ご法話などで親しみをもっておられると思った。以前から、三哉の文を中心に、書き下し文でそのこころをじっくりと味わいたいと思っていた。そのお心も深かさもさることながら、対語になった格調の高い文章である。参考に、本願寺の訳をつけたけれど、あくまで原文の書き下し文を、一緒にいただきたかった。もとより、難しいと感じる方もあるだろうから、一方的な話にならないように、この中では一番聴聞歴が短く(もっとも華光会館にお参りは皆勤だが)、いつも素朴に分からないことを尋ねてくれる若い女性に、分からない語句や意味をひとつひとつ尋ねてもらう。ところが、逆に言葉の説明が中心になり、知識というか勉強風になった。そのせいで、皆さん難しそうに、下を向かれてプリントと取り組んでおられる。その反応をみて、かなり難しいことを言っている気分に襲われて、ちょっと凹んだ。こんな回に限って、まったく初めて(浄土真宗のお説教なんか聞いたこともない)方がおられる。法話が終わったら、すぐ帰られた方もあった。結局、時間がかかり前半の三部経の心のエッセンスの部分だけで終了。お聖教の読みや解説だけで、いまの自分の生活や日常の話題といって具体的な話がなかったので、皆さんの乗りも悪かった点は、反省材料。
 後の座談で尋ねてみたら、案の定、まるで外国語を聞いているようだと言ってくださる方が多かった。そういうふうに聞かせてもらうと、逆に安心してくる。一方で、深く味わっておられ方もあったし、馴染んでおられる方の反応もお聞きすることができた。でも、日頃、「聖典講座」のテープ聴聞などにも積極的な方でも、案外、基本的なことをご存じない方があって、ちょっとその点は驚いた。

 一言ずつ、皆さんの感想をいただいた後、座談会へ。司会者が、口火を切って、質問された。初心の方に、「後生の一大事って、死んでからのことですか」と質問されて、因果の道理の話になり、それが、「じゃ、良いことをしていったらいいんですね」となってしまったが、どう答えたらいいのかというものだった。

 それに対して、2名の方が、アドバイスをされた。それを聞いていて、なにか物足りなかった。確かにおっしゃっていることは間違っていない。しかし、正解を教えても、「ハイ、わかりました」で終わるなら、意味がない。その話が切れるのを見計らって提案をした。

 サイコ・ドラマ風のロールプレイである。相手の「じゃ、良いことしていったらいいんですね」という初心役をその方にお願いし、説得する側を別の方にお願いした。ここからが、俄然おもしろくなった。それまでの緊張や眠い顔から、身を乗り出して聞かれている方も出てくる。素朴な疑問が出るが、なかなかうまく伝えられず、分かってもらえない。うまくかみ合わないのでなる。少し、行き詰まってきたので、それぞれの立場や気持ちに共感する人が一緒に出ることを促す。でも、なかなか、一歩出て仲間に加わる勇気をもっておられる方はない。それでも、身を乗り出して聞いておられた方が、1人、2人と加わっていかれた。(ちょっとここは、ワールドワーク風)。ぼくも、遠慮せずに「初心側」にまわって、話を聞いて感じたことを、率直に尋ねてみた。「でも、やっぱり、良いことできん、できんと開き直るより、少しでも良いことしたほうがいいじゃないですか。悪い自分なんていうのは、どこかウソみたいだし、暗いですよ。第一、そんな人生でつらくないですか?」。ちょっと、強くつっこむと、うまく説明できずに、逆に窮されていく。

 あっという間に、30分すぎた。感想や説明にはない、具体的な何かが残ったはずだ。

 少しの時間、簡単に分かち合った。この場合、大事なことは、いまここで、どう感じたか、どんなことに気づいたかである。次はこうしようとか、こうあるべきだという答えはいらない。たとえば、「分からそうと、上から説得してしまった」とか、「自分のことを言われるばかりで聞いてもらえなかった」とか、「違う、違うといわれると、とても悲しくなった」とか、そんな感じでいいのである。

 これも、1回きりのことで、次ぎ、また同じことにをしても、あまり意味はない。うまくできる、できないが大切なのではなく、いま、ここで、どう感じたかに焦点をあてて、わが身で聞かせていただくことが大切なのである。勇気をだして一歩出てくださった方もそうだが、取り込んでみておられ方も、そこに焦点をあてながら参加くださっていたなら、有り難い。

 法座終了後も、何名の方から質問を受けた。まったく初参加の方も、何かを感じられたようで、しっかりご質問にお出でになった。用意をしてきた法話をするときよりも、予想不可能で、ライブで展開していく座談や法座をしているときのほうが、イキイキ、リラックスしているぼくがいるなー。

|

« 輪読法座の意義 | トップページ | 『ミスター・ロンリー』 »

法座と聞法」カテゴリの記事

コメント

読んだだけでも、面白そうですね。

東海の御法座も新しい方が来られて、よかったですよ。

投稿: ねこ丸 | 2008年4月28日 (月) 19:47

そうですね。かなりおもしろかったです。分かっているようで、実際に実践してみると難しいんですわー。正解をアドバイスしていた人も、実際にやってみると、うまくいかない。その意味では、正しい評論家よりも、うまくいかなくても、実践家でありたいですね。

投稿: かりもん | 2008年4月28日 (月) 20:50

ありがとうございました。
初心側を体験してみると、相手の方からは一生懸命なお気持ちは伝わってくるのですが、「説得されていく」感じが、
なにか自分のところから離れていく感じ、「わかってもらえない」感じ、ずれていく感じでした。
同じことを私もやっていたんだと、気づかせていただきました。じゃ、どう言えばいいのか?ということはわからないのですが、今は、体験した感じを味わっています。

投稿: Tねこ | 2008年4月29日 (火) 14:46

Tねこさん、待ってました!
まず「同じことをやっていたんだ」と気づかせてもらうだけで充分ですね。そうすると、次ぎの答えは、実は自ずから出てきます。そのために、「みみずくの会」を主催してもらっているようなものだなー。
 そうそう、さん、つながりのコメント。奇遇ですね。

投稿: かりもん | 2008年4月29日 (火) 20:41

さっそく、ご教示いただき、ありがとうございます。
検索にかけたり、辞書で調べたりして、やっと理解できました。きっと、国語で習ってたんだろうけど、全然、覚えてなかったです。(とほほ、、、)ほやほやを、金曜日の自力整体のときに、みなさんに、お伝えできます。

本願寺展で、親鸞聖人直筆の観経の解釈本を見たばかりだったので、(細かい文字で、びっちり書かれていました)。教行信証の、あの文章を書かれるためにどれだけお聖教を読み込まれていたのだろうか、、、!!と驚いています。
さらに、表現をするために、対句などで工夫されていて、ものすごい心配りを感じます。すごい!!かたです。

投稿: Tねこ | 2008年5月 1日 (木) 17:45

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: サイコドラマもしくはワールドワーク風:

« 輪読法座の意義 | トップページ | 『ミスター・ロンリー』 »