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輪読法座の意義

 朝は、カウンセリングを一件引き受けて、その後、日曜礼拝の先生方の今年度の打ち合わせ会で一緒にランチし、午後から輪読法座へ。

 ところで、普通に、ご法話を聞くのは、内容もさることながら、その声のトーンとか、速さ遅さ、強さ弱さ、音のもつ質、ニュアンスなど、その声から醸しだされる、その人そのものを聞かせていただくところに意味があるわけです。内容を覚えていなくても、その雰囲気に浸って、何かを感じさせられることがある。つまり、聞くことは、バーバル(言語コミニケーション)よりも、ノン・バーバル(非言語コミニケーション)の部分の影響が色濃い。だいたい35%対65%で、ノン・バーバルな部分が優位で、しかも、65%の中身もみても、直接言語に伴うもの(声質とか、音量とかね)よりも、態度や姿勢、目線とかの動作や、間といった言葉にならない部分から聞いていることも多いのだという。もっとも、その片方だけに意味があるのではなく、両者(バーバルと、ノン・バーバル)がうまく混じり合ったところから、深い感銘も生まれるわけです。

 しかも、法話もライブなので1回きりでしょう。言葉の内容を、いくら感銘を受けて味わっていても、話は、もう次ぎの話題に移っていく。録音されたものじゃないかぎり、再生は不可能。だから、普通は、メモ取る。でもね、そんな暇があったら、講師の顔をじっと見て聞いた方が、ズーッと意味があるわけ。第一、獲信云々に、メモなんてまったく役には立たない。だって、次ぎまた役立てよう、自宅に帰ってからみようという姿勢からして、いま、ここで聞いていないわけですから。

 で、輪読法座にしても、わざわざ華光会館まて足を運び、同行と共に輪になり、声に出して読み進めるところに、大きな意味がある。華光誌を読みだけなら、一人でも読めるわけ。でも、わざわざ華光会館に座らせてもらっているわけですから、有り難いね。

 ところが、文章には、いくらご法話を話言葉のまま文章にしていも、その場で聞いていたニュアンスまでは感じることはできない。正確にテープ起こしてもそうなんです。その意味では、迫力に欠く。でも、逆にメリットもある。何度でも、何度でも、繰り返しほんとうに意味がわかるまで読み返すこができる。暗記したり、覚える必要もなく、また戻って確認すればいいわけですから。その意味では、法話ライブの迫力はなくても、ポイント、結び目をはずさず聞かせてもらえるという特典があるわけです。

 今回は、華光誌67-1巻の「三度目の成仏」の3回目。「南無の心~二つのもらいもの」までのわずか3ページ。初めての学生さんが参加してくださいました。その方が、「どこに仏様はおられますか。どこで出会うのですか」と質問された。でも、全部、読んだところに書いてあるわけですね。もう一度、そこを読んで応えると、まったく読んでいないことがわかってくる。ただ、文字をおいかけただけで、読んだ気になっているわけですね。「ああじゃ、こうじゃ」「ああでもない、こうでもない」と、私の哀れな智恵で計らうよりも、悟朗先生の誌上法話を100遍、本気に読む方が、ずっと自分が知れると思いましたね。皆さんも、たった、3頁ほどを、一度、本気になって読んでみてはどうでしょうかね。

 明日は、正木家での広島支部法座です。

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