ダライ・ラマ14世
ブラピが主演した『セブン・イヤー・イン・チベット』に、チベット僧が描く「カーラチャクラ砂曼陀羅」http://www.tibethouse.jp/culture/kalachakra.htmlを、高圧的な中国共産党の使節が、土足で横切り踏み着けて破壊するシーンがあった。チベット側からみると、仏教を根底にしたチベット文化を、中国が武力(暴力)で弾圧する現実を象徴するかのようなシーンだ。中国の武力侵攻から、すでに50年近くが経過している。チベットの漢民族化が既成事実として加速することは、武力だけでなく、独自の文化や宗教への弾圧にほかならない。そんな中で、今回のチベットでの武力弾圧である。ミャンマーでの僧侶への武力弾圧の時もそうだったが、仏教徒の端くれとしても、胸が痛む。チベットだけでなく、民族が分断された周辺の中国地域や、周辺の国々へも影響が広がっている。政情不安定なネパールでも動きがあったようだ。
ただ、同じように国内に民族分離や独立を抱える国々にとっては、武力弾圧は正当化されるだろう。中国の経済支援を受けたり、経済的に深くつながる国々にしても、「内政不干渉」という建前で、黙殺されていく。しかし、単なる国内の治安悪化という問題ではないのである。民衆の最低限の平和的を求め、自由や独自文化を求め、信仰を護ろうとする声が、権力側の圧倒的な暴力で弾圧されている事実。これを機会に、せめて同じ仏教徒として、目を背けないで関心をもっていかなければ、遠い異国の出来事として、きっと風化してしまいかねない。
と力みつつも、ちょっとやわらかい話題に移ろう。いま、世界中で一番有名で、かつ尊敬されている僧侶は、ダライ・ラマ14世だろう。もちろん、政治的な文脈で世俗的にも、いろいろと取り沙汰されている部分もあろうが…。
一度だけ、間近で講演を聞いたことがある。龍大に入学した年ことだから、1980年10月ごろだったと思うが、大宮学舎の講堂が会場。改築前の古い机と椅子だった。けっして広くない講堂は超満員で、通路にも聴衆が座っていたが、さいわい前列に座ることができた。「ひとつの中国」が建前の日本政府の、政治的活動を行なわないという条件での訪日。それで、文化講演だったと思うが、まったく内容は覚えていない。ただ、質疑のことは断片的に覚えている。それまでのムードが少しかわって、中共(中国共産党)との関係についての政治的な質問などにも、やんわりと答えてられた。
そんな中で、「猊下は、なぜダライ・ラマになられたのですか?」という質問をしたのは、日系開教師で、龍大に留学中だったロンだった。それまでの質問が、どうも段取りの決まったやらせ的に思えていたので、この知り合いの質問には、ちょっと驚いた。しかも、あまりに素朴な質問に、会場からは笑いもおこったが、実は、この答えが一番面白かったので、これだけを覚えている。
まさに、映画『リトル・ブッタ』の世界だった。なんでも、ダライ・ラマ13世の逝去のあと、湖に彼の名前が浮かんだのを高僧がみつけて、3歳の彼が、さまざまな確認の試験をへて、転生と認められたという話だった。そして、その後の教育や、観音菩薩の生まれ変わりとしての活仏の生活などの話も興味深かった。同じ大乗仏教といっても、随分、日本のそれとは、かけ離れた印象をもったものだ。
あの時に、活仏に、頭のひとつも撫ぜてもらっておけば、もう少し頭よくなってたかもしれないなー。それぐらいのご利益ありそうでしたが…。
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コメント
遅いコメント失礼します。
善光寺さんもついに辞退されましたね。
『セブン・イヤー・イン・チベット』のその場面は、私も強く印象に残ってます。全てのレベルいおける「暴力」というものの怖さを物語っています。
それと、私は、『クンドゥン』という映画で、若き日の14世猊下と毛沢東主席が連れション!!した後、語り合う場面で、主席が、「私の母は、廬山の出の敬虔な仏教徒でした」といったことを語る場面も印象に残ってます。
この甘い語り口は恐ろしい罠だったわけですが・・・・
廬山といえば、白蓮社を結成され、『阿弥陀経』『法華経』等の訳者の鳩摩羅什三蔵とも親交のあった慧遠さまの出られたところで、日本仏教とりわけ浄土教とは御縁が深いの深いところです。そうした御仏縁、土徳が近代まで残っているところに感慨深いものがありました。
投稿: 縄文ボーイ | 2008年4月19日 (土) 12:15
縄文ボーイさん、もしかして、ここでは初めてかなー?
ぼくは、その、『クンドゥン』は見てないですが、何か面白そうですね。
どうしても、真宗のものは七高僧のお流れだけを喜んでいるけど、そこにいたるまでは、さまざまな尊いお念仏の流れもあるわけですよね。廬山の慧遠流のお念仏もそうだとう思います。いろいろな仏法広まれの働きが、いまここの私の上に浄土の真実として結実しているわけですから、壮大というか、不思議というか、勿体ないことですね。
投稿: かりもん | 2008年4月20日 (日) 21:38