第6回「真宗法座の集い」(1)
第6回「真宗法座の集い」が終わりました。
「期待は喜びを半減する」と教えられたことがあった。前回がこうだったから、今回はこうなる。前がよかったから、今回はそれ以上にと、いまのところを喜びではなく、過去と比較して計っていく。いわば、過去に生きているのである。そうではなく、いま、ここに流れているところのいのちの躍動を喜んでいくのである。
その意味では、6回とも、まったく違う経過を辿って進んでいる。見事なほどだ。今回だって、最初の全体会の雰囲気も、そしてたったひとりの參加者の発言によって、その流れがかわるさまも充分に味わうことができた。そして、世話人の立ち位置の重要性も認識できた。これまでとは、また違った流れの中で、やはり同じお念仏をじっくり聞かせてもらうことができたのである。
けっきょく、5グループに分かれた。最大で8名、最少が4名。3グループが5名。ぼくのグループは、ぼくを含めて5名。その5名で、2日間、法話もなく、座談で過ごすことができたが、ほんとうにアッという間に終わった。しかし、それだけに収穫も大きい。日頃あまりなじみのない方もおられて、新鮮な顔ぶりだったが、特に、(このプログも定期的にブリントアウトしてご覧くださっているそうですね)、ある決意をこめて参加された年配の男性との粘り強い関わりができた。たぶん、普段の法座なら、誰かが途中で我慢できずに遮ったり(「そんな口先だけの話はやめろ」とか、「まったくあなたが感じられない」と言ってね)、もしくは流れをかえられていくであろうような、彼の話をじっくりと聞かせてもらえた。しゃべれでも、しゃべれども、理論武装ならぬ、聖教のヨロイがガッチリある。でも、いくら並べても、肝心要のひとつのところが喜べないのだ。その堅いヨロイを丁寧に、ひとつひとつ脱いでもらった時に現れてきたのは、彼の悲しみの姿だった。そして、最後の最後。それが立ち現れてきたときに、今まで聞けなかった南無のこころひとつが、初めて彼に届いたのである。「どうしたら自分の頭が下がるのか。これだけの尊いお示しをきいて、なぜ頭が下がらんのかと戦ってきた。でも、南無のこころ、阿弥陀様が頭を下げてくださっているのを聞いてませんでした。聞き間違いをしていました」。「そうか、そうか」と、小さくお念仏されていた。
それにしても、聞くという営みは恐ろしい。話すことは、知識や経験で飾ることができる。それでも、その人間のもっている幅みたいものが、表現や態度から滲み出る。ましてや、聞くことをやである。その人の今の人間性がモロに出るといってもいい。そんな中で、誰もが、安心して聞法できる場、聞法に専念出来る場を提供できるのか。実は、そのための枠組み作りが、ぼくたち世話人の仕事なのである。けっして、立派な、みんなが感心するようなお説教やお勧めができることが、大切なのではないのである。
それで、敢えて、最後にこの一言を付け加えさせてもらおう。
西光義敞先生。これが先生から受け継いだ、いまのぼくなりの、真宗カウンセリングの答えです。
今回、全体の大きな流れの中で、また少人数のグループの中でも、そしてまったくぼくが関与していない他のグループも含めて、ぼく自身の態度のところでは、そう言い切れるだけのものを充分に発揮できたし、同時に、それがほんの少しだけであっても、参加の皆さんへなんらかの影響を与え、伝播してたのではないか思えるからである。
第一弾はこんなところかなー。いまは、疲れました。ゆっくり休ます。
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