同窓会でした
毎年ではなく、2年に1度。前回は、先生の80歳と、「教行証文類講義」の全9巻、完成記念を兼ねたパーティーだったので、140、50名ほどの参加がありましたが、今回は、普通のゼミの同窓会。あわせて著作集(全10巻)のうち、「歎異抄」刊行記念。上下2冊で、18,000円也の代物。
大宮学舎の講堂で、「現代真宗倫理私解」と題する、記念講義を拝聴。つい先日、挙式があった会場です。昨年、本願寺教団は宗制を変更し、伝統的な真俗二諦論を否定したけれども、その根拠になっている覚如、存如、蓮如教学は温存している。また、伝統的倫理規範が、ことごとく崩
壊し、価値観の多様化、複雑化が進む中で、歴史や思想的流れを踏まえることなくして、新しい真宗の生活規範を確立することはできない。そんな状況で、教団、教学としてどんな責任があるのか、また現代の念仏者はどう信心に生きるのか。
親鸞さまは、一切の原理倫理、規範を語ってはおられない。ただ、「信心のしるし(徴)」に生きることと、「世のいのり」に生きることの二点がある。
信心のしるしとは、1)まず世を厭う「しるし」があり、それは念仏、信心に基づいた世俗的価値の相対化であり、2)次ぎに往生を願う「しるし」があり、それは念仏に基づく生活、神祇や呪術、世俗的信仰の否定をして、成仏を目標とした生き方をめざすことだと。
さらに、世のいのりとは、阿弥陀仏の誓願を自分のいのりとして生きること-つまりは、願作仏心で、自己成就(自利)として、仏になるべき身となることと、度衆生心で、他者作仏(利他)で、浄土が映現する社会の実現をめざしていく。
親鸞さまの思想の深さは、歴史的に相対化されるようなものではない。ただ歴史的制約がないが、具体的に語らない分、個々の念仏者が、自立(自利)と、連帯(利他)に生きることが求められていく。その念仏者の理想は高く、ひとりひとりが、自ら立ち、自らの信心の「しるし」を現す形で、「世の中安穏あれ、仏法ひろまれ」と、身を粉にし、骨を砕いてもご恩報謝する生き方をめざすべきだというようなお話だったような気がします。(たぶん、だいだい)
あとは、ホテルに移って、パーティーがありました。まったく油断して飲んでいたら、急に、華光会、増井悟朗云々との紹介で指名されました。しかたないので華光会のことコマーシャルしておきました。たぶん2ちゃんねるだったと思うけれど、「S会は蓮如右派。華光会は蓮如左派」ということで、そう紹介しておきました。わかったような、わからんような…。酔っていたので何を話したやら…。
こういう場に出席すると、本願寺教団のなかでは、完全にぼくは部外者ですね。このゼミの人達は、教団の中では反骨精神のある方が多い(そう親鸞左派やね)、いつのまにか大学教授になり、宗会議員になり、教団の要職につき、そして大寺院の住職に収まっておられて、それなに、教団内で地位を確立されていますね。その意味では、完全にぼくはここでも異端やなー。
でも、その方が断然面白い。やりたいことありますから、まあこれから面白くなりますよ。
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