『こころの整理学』(余談編)
『こころの整理学』のことを書いて、思い出した余談を一つ、二つ。
以前、真宗カウンセリング研究会の40周年を企画したとき、信楽峻麿先生と、増井武士先生の対談を計画した。われながら、すぐ声をかけられる身近な(そういう意味で)安易な人選だなーと思いながらも、なかなかこの組み合わせはユニークだとも思った。仏教(真宗)界の大御所と、独自の心理療法で高い評価を受けている両先生だが、「こころ」を扱うといっても、まったく異なる分野で活躍されているのだ。それでも、真宗にも、カウンセリングにもなにかしらのかかわりをもっておられるので、まったく接点がないわけでもない。それに第一、「いま、こころの悩みにどう応えるのか」というテーマに、ピッタリの人選ではないかと、けっこう納得しました。
ところが、講演依頼をすると、「一方的な講演ならお断り」とのこと。決められた型通りの一方通行の話など、カウンセリング的でなくつまらないと言われるのである。ああ、この人らしいなーとも思った。それで、講演ではなく、両者が出会うことで生まれる何かを、その場を共有するわれわれも共々に味わえるように、対談を中心に、その後、両者の接点でもある西光義敞先生が加わり、鼎談ふうにフロアーとのやりとりと決めた。おかげで、150名もの講演会でこんな雰囲気になるのは稀だというダイナミックな集いになって、感銘深かった。
もう一つ余談。その前だったけれど、「お忙しいそうですね」と声をかけると、「いやいや、忙しそうなフリしてるだけなんや」と笑われた。そんなことはないのだろうけれど、いろいろな依頼や雑用で、自分の大切な人生、時間なんかすぐに無くなってしまうもの。その意味では、忙しそうなフリは大事なことだと、いまでは、ぼくもそれを見習うことにしている(ここだけの話やけどね)。
笑い話のようだけれども、でも、これはかなり大切なことだと思うなー。日本人は、どこかで「忙しい」ことが、自慢というか、ステイタスにするような傾向もある。でも、「心」を「亡くした」状態で、物事にじっくり取り組むことなんか出来ないわけですからね。きっと、どんなに用事があっても、常に、いま、ここでのやるべきことに集中しているのなら、たぶん「忙しい」とは言わないでしょう。たいていは、浮足だって、イライラして、余裕がない状態で、自分を見失う、文字通り亡くしているんじゃないかな。そんな時にには、きっと、聞法なんかも、二の次、三の次ぎになってしまうもうわね。それじゃ、「あんた、誰の人生を生きとるねん」ということになりかねない。
これに関連して、いろいろと書きたいこと出てきたけれど、今夜はこのあたりで。おやすみなさい。
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