親鸞樣、道元樣の遷化の地
すっかり、春の陽気。昨日が、春の彼岸の入れとはいえ、かなり温かい。
午後から、映画を1本。四条烏丸の京都シネマへ。これだけ天気がいいと、自転車にのるのも気分がウキウキする。今日観たのは、『ダージリン急行』、インド気分が盛り上がるなー。
ちょっと雨になりかけたが、帰路、道元さんと、親鸞さんの遷化の地を写真に収めた。ご承知のとおり、京都は街中は碁盤の目になっている。(正確には、応仁の乱で焼失した地区の中心に、短冊型の地割にもなっている。いわゆる天正の町割で、東西の短い長方形だ)。十条油ノ小路から、北へ自転車を漕ぎながら、信号にひっかかると、東に走しり、また北へ進む。いつも同じ道とはかぎらないので、どちらかの前を通ることもあるが、まったく素通りの時も多い。だから、山折哲雄先生の本(『親鸞をよむ』)を読まなかったら、両者の位置を意識したことはなかった。
まずは、「高辻通り西洞院通り西入る」の道元禅師、示寂の聖地。道元さんは最晩年、体調をくずされ京都の俗弟子覚念の私宅で療養され、建長5年(1253年)
8月28日に、54歳で遷化されている。
それにしても、大宗派の高僧の寂滅の地にしては、驚くほど簡素である。この標柱も昭和55年に記念して建てられたもので、バックもトタン家屋である。(『道元禅師示滅聖地』とある)
そして、その高辻通りから、松原通りへと、一筋だけ下ったところに、親鸞さんの遷化の碑がある。自転車なら1分もかからない。
いまの五条通より二筋北、松原通りがかっての五条大路であった。いまは、松原京極と名付けられたごくごく普通の商店街。「義経、弁慶ゆかり」と名付けているところに、そのおもかげが窺える。「松原通り西洞院通り東入る薮下町」 の光円寺門前。この地で、親鸞さまが亡くなったのは、1262年11月28日(新暦なら、1263年1月16日)、90歳のことである。
そうすると、皆さんの中には、「ちょっと待ってよ」と思われる方がおられるかもしれない。いや、そう思ってほしい。華光の聞法旅行訪れる、山ノ内の「角坊(すみのぼう)別院」が終焉の地はないのかと。そう、実は、これも東西で、意見が分かれているのである。しかも、すこし複雑なところは、西は「角坊」説だが、東にも、もう一カ所、御池通柳番場角の柳地中学校の一角にひっそりと「遷化の旧跡」(善法院跡)が建っている。連れ合いが出産した病院に近く、出産の前日にもこの前を散歩して、お参りした。何度か探さねばならないほど、ほんとうにひっそりと建っている。
つまりは、親鸞様の遷化の地が、京都には有力なところだけでも3ケ所もあるのだ。もっとも、光円寺によれば、この地で入滅され、後に遺体が善法院に移されたということらしい。(『親鸞聖人御入滅之地』と刻まれている。昨日通りかかった時には、この前が古紙回収の集積地になっていて、ダンポールで少し隠れていた。トホホホ)。また、光円院の地は、「御伝鈔」にある常陸国平太郎が熊野詣の可否を聖人に尋ねるために訪れた場所だとも言い伝えられている。
真相はともかく、場所もほんの目と鼻の先、年数にしてもほぼ同時期に、世界で通用する日本の二大宗教家にして、思想家が、同じ地で亡くなっている。つまりは、同時期、たとえ重なり合わなくても、そう遠くない時期に、両者はこのあたりに生きてられたのである。
ほんの一瞬だが、800年間の鎌倉時代のお祖師方の息吹が、身近に感じられた。
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