妙「光」人
京都新聞の文化欄に、京都学園大の岡崎宏樹氏が、「現代ヒーロー学」と題して連載されていた。今日が、最終回。「まっとうな普通」の凄さと題して、「妙なる光りを放つ人こそ」との見出しに、目がとまった。
全部を読んだわけではないが、理論社会学や現代社会論が専門の論者が、イチローや、セーラームーン(いまならプリキュア5だなー)、佐賀のがばいばあちゃんなどの多種多様の現代のヒーローをとりあげ、彼(彼女)たちに共通するのは、「自己超越する力」と「共感する力」で、一握りの天才だけでくな、誰もが育み、輝かせられるとまとめられている。
信頼していた社会システムの基盤が崩れ、当たり前が当たり前でなくなった現代、個人も、「凡庸なフツー」でいるのはたやすいが、「まっとうな普通」であるのは実はたいへなことである。それは、人が、「人として」という普遍的な規範が厳しく律するところに保たれるからであると論じ、そのあと、浄土真宗の妙好人に触れているのだ。
「浄土真宗には、高僧や聖ではなく、市井の篤信者を記録する『妙好人伝』の伝統があるという。妙好人とは世俗の泥沼に咲く「白蓮華」を意味する。無名で学問のない人でありながら信心の境地では優れて高いところに達している人たち。その言行に学ぶ真宗の伝統にならい、私たちもこれからは、スポットライトの中で燦然(さんぜん)と輝くヒーローだけでなく、私たちの回りにいて、派手ではないが心の目には見える妙なる光りを放つ「凄い人」、いわば《妙光人》に目を向けてはどうだろうか」
そして、この国の未来があるのなら、一人で一挙解決するスーパーヒーロー(ウルトラマンみないなのかなー)ではなく、
「個々の場面で、普通の人がそれぞれに「凄い力」を発揮することにある。現代の困難は個が一人で担うにと重過ぎる。だから、個の光と光を大切につないでゆくこと。その妙なる光の絆こそが明日を照らす確かなる希望となるだろう。」と結ばれている。
「派手ではないが心の目には見える妙なる光りを放つ」とか、「個の光と光を大切につないでゆく」という文章、いいですね。これは、鷲田清一氏の『待つということ』に述べられる「パッチング・ケア」の深い示唆にもつながっていくようにも思えた。
ところで、わざわざ断るまでもないけれど、阿弥陀様からお誉めいただく、本来、観経に讃えられる「妙好人」と、江戸時代の仰誓師以下の『妙好人伝』の妙好人とは、必ずしも一致しない。後者の中には、今生の生活規範が讃えられたり、真宗とは無縁の奇瑞や蘇生物語などを不思議がったり、体制順応型、権力随順の愛山(本山ね)精神が絶讃されたりしている。
そうではなくて、ほんとうの意味は、信心獲得の身となったものが、真の仏弟子とし、阿弥陀様からお誉めいただく最大限の誉め言葉なのであって、けっして、生活規範や不思議、権力順応を讃えておられのではない。あくまで、凡夫の身が、後生の一大事の解決し、正定聚に定まったことをお誉めくださるのだ。
ただし、妙好人伝のヒットは、まちがいなく真宗弘通の原動力になっているし、その後の鈴木大拙師などによる再評価につながるなどの功績も大きい。
それにしても、(他にも使っている方もありそうだけど)、この「妙光人」というネーミングも悪くないと思った。互いに凡夫である同士が、その個の光と光を大切につないでゆく。でも、それは今生の光りの輝きではない。浄土からの華光出仏の煥爛(かんらん)たる光に照らされて、石・瓦・つぶてのような私が、その妙なる輝きを放ちだす。その念仏の絆こそが、明日を照らす希望となるのだと、ぼくなら結びたいなー。
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