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説聴の方軌(1)

  今回の東京法座の2日目は、午前中は「唯除のこころ」について、質問を交えながら、2席に渡って聞いてもらった。たぶん、量も、内容も消化するには、かなりのものだったと思っている。

 でも、一方的ではなく、質問を交えながら進めた。だから、広島の時とは、ずいぶん話の展開が異なってきた。東京では、正信偈のことも、なぜ「五逆」より「謗法」が重いのかなども質問をすることはなく、法話の部分が増えたと思う。

 どうしても、ご法話は先生のおまかせになる。別に、信頼があるのだから、おまかせが悪いとは思わない。しかし、できれば、受け身の法座で終わるのではなく、一つでも自分を通して聞いてもらいたいと願っている。だから、たとえば、今回なら、ご法話の前に、本願の唯徐の味わいについて、皆さんにお尋ねする時間をもった。誰もが、一度は、ひっかかられるところであると思うからだ。別に、教義的に知っている、知っていないということではなく、あくまで、自分の中でどう味わっておられたのか。問題点はあるのか。もし、何も感じたことがないのなら、それはそれでいいので、そのことをしっかり表明してもらいたかったのである。

 こういう態度は、これからの聞法では、大切な説聴の方軌(ほうき)の一つになるのではないかと、ぼくは思っている。

 なぜなら、今日は知識偏重した社会では、聞いただけで、知っただけで、「なるほど」と終わってしまうからだ。しかも、大方は、「けっこうでした」で、易々と分かったつもりになって、それ以上の疑問も味わいもないまま、食事のひとつも挟んだころには、何も残っていないというのが、現実ではないか。それではもったいない。

 せっかく、テーマについての問いが出たのなら、受け身で聞くだけでなく、まず自分がどう味わってきたのか。もしくは、なぜそれを問題にしなかったのか。そのあたりの問題意識を持って、お聞かせに預かるだけでも、ずいぶん、積極的な聴聞ができるのである。

 それなら別に声をださなくってもいいんじゃないか、という方もおられるであろう。確かに、心の中で確認するだけでも意味がある。でも、心の中で「南無阿弥陀仏」と反復するのと、口に出し、声となって「南無阿弥陀仏」と出るのは、まったく似て非なるものであるように、ほんの少し勇気をだして、みんなの前で、声にだしておくだけで、心が動き、聞き方が動くのは間違いないのだ。

 第一、話し手(説教師)への影響はハッキリとちがう。そりゃ、そうでしょう。たとえ、心の中に秘めていたとしても、ぼくにはわからない。ただ、「何もない」「何も考えていない」「おまかせ」の人達が並んでおられるという明確なメッーセージを送ることになるのだ。そこから、発展する刺激か生まれると思えないものね。

 まあ、人によっては、ちょっぴりハードルが高いかもしれないけれど、自分も法話に参画するつもりで、課題をもってご法話に臨んでもらうだけで、ずいぶん、聞き方が変わる気がするのである。(つづく)

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