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説聴の方軌(2)

  いまから思うと、たぶん前記のような思いが強かったので、午後からは、「なにをしましょうか」「なにがしたいですか。なんなりとどうぞ」と、皆さんにお尋ねしながら進めることになった。われながら、ずいぶん、モタモタ進んでるなーと思う。もろちん、法話の準備はあった。しかも、2種類もってきていた。でも、ぼくの中で、もう午前の話で、十分、話し尽くした思いがして、皆さんをみていると、これ以上、満腹にさせる気持ちになれなかったのである。それより、もう少し積極的に関わってらもいたいとの思いが強かったのだ。それにしても、浄土真宗のご法話で、こんな進行するところは、華光しかないだろう。これも真宗カウンセリングの経験のおかげである。でも、皆さん方にしては、まったく面食らう、迷惑な話である。中には、「私は、ご法話を聞きに来ているのだから、さっさとしろ」といいたげなお顔のお方もおられた。まあ、本心はそうであっても、そこは皆さん、分別のある大人である。せいぜい、「ご法話かあれば、あとの座談も話しやすいので」という程度のご意見がでる。「とりあえずご法話」か。これゃ、「とりあえず、ビール」と代わらんなー、まあ、座談が円滑に進むような話のツマ程度のもかもしれんしなー。確かに、そんな程度ではある。

 そのうち、いろいろと日頃の疑問や質問が出てきた。それでも、まだハッキリした方向には向かない。なかなか、点にはなるけれど、線になってこないのである。ましてやその線同士が、交差することは難しい。

 ある人の疑問から、法を鏡に知る自分、他人を鏡にして知る自分、さらに仏願の生起本末を聞くこととの関係についての質問がでた。それで、「自分を知る」という視点から、あらためて話して、少しワークをしてもらうことにした。

 ひとつが、「あなたは誰ですか」のワークてある。これは、経験もあって、皆さんの反響もだいたい分かっているのだが、なかなか面白かったようだ。刺激にもなり、そのあとの分かち合いも活発だった。改めて、分かっているはずの自分とは、実は外側ばかりを押さえてわかってつもりになっていて、あらためて問われると、まったく困ってしまうなどと味わった方も多かった。

 少し迷ったが、このところやりたかい思っていた、いまの気持ちを言葉ではなく、音にしてみるワークを試みてみた。ところが、これが予想に反して、なかなか難しかったようだ。ひとつは、すぐに頭で言葉にしてしまう習慣があるので、いまの気持ちをからだで捉えることに慣れていないということ。もうひとつは、まわりの目が気になるということであった。つまり、へんてこな擬音的な音がだせない。ましてや大きい音もダメという雰囲気になって、みんな恥ずかしそうに、小さな声でやっておられた。隣の反応に、思わず笑い声もあった。そのせいか、あとの分かち合いも、あまり声が出なかったようだ。

 たぶん、これが世間の評価なら、最初のワークは成功。あとのワークは失敗となるだろう。実は、皆さんの態度をみていて、ぼくも終わった直後はそう感じた。こんな場所でやるのは、これゃ、難しわいと。でも、すぐに思い直し、あとのワークで得た経験の方が、実は、みのりが多かったんじゃないのかなーと思えるようになっている。たぶん、ぼくたちは、日頃から、初めて経験することについて、すぐにその意味を頭で考えている。変わったことをするのに、どんな意味があるのか。そして、どうなれば、聞法と結びつき有効化なのかと、功利的な部分だけを評価している。そして、意味がわかると、その方向でうまくこなすことに腐心し、思い通りいけば満足するのである。当然、その逆の方向に向かったときは、失敗という評価がくだる。

 でも、それではちょっともったいない。たとえば、まわりの目が気になってなかなか声が出せなかった。照れくさかったり、小声でしか出来かったということ自体が、いまの私を、そして皆さんとの関係や、この法座の雰囲気を端的に現していると気づかせてもらえるのではないかなー。うまくいく、いかないよりも、そのプロセスの意味がある。そこで、いま、ここでの自分を見せてもらえることが、大きな収穫なのである。うまくいかなかった(正確には、自分が満足できなかったり、マニュアルどうりに進行しなかった)ことによって、予想とは違った経験をしたことを味わってもらい、しっかりと分かちあうことから始めればいいのである。

 それにしても、法話があると思っていたら、こんなカウンセリングだか、なんだかしらないが、へんてこなことをさせられて乗れなかったお方もあっただろう。その方には、申し訳ないことだが、今回なんとなく、そんな方向に法座が動いたことも、ぼくにとてっは、何か意味のあるプロセスで、大事なことだと受け止めている。結果ではなく、そのプロセスを味わうことが、多少は出来るようになったかなー。

 参加の皆さんは如何でしたかね?

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コメント

 私にとって今回の法座は印象深いものでした。法話と座談の通常のパターンも有難いのですが、自分にとっての一番の関心事、それは日常生活と法の接点です。一日の大半、つまり人生の大半を「浅ましい生活」に費やしていることの虚しさ感じると、少しでも法に向かいたいという気持ちがわいてきます。でもそれも一時。また、仕事やその反動としての快楽に耽ってしまいます。でも、最近、カウンセリングの学習的なワークを体験して、新たな自分を発見し、その事実を通して日常と法の接点を意識し始めました。意識して見ると、日常の様々な場面で法を感じることができます。「自分では気づかないが、他人が気づいている自分」や「自分も他人も気づかない自分」、つまり「誰かが見ている自分」の一部に気づかされます。今回のワークも、自分ではなりきって一所懸命やっているつもりですが、そのわりにうまくできなかったりしました。でも、うまくいった、うまく出来なかったことよりも、そのことを通じて浮かび上がった「誰かが見ている」自分に気づくことが、私には新鮮で、興味を感じています。今回の体験的な法座も、今後はもっとあってもいいのではと感じました。

投稿: newborn | 2008年2月28日 (木) 10:07

失敗、成功と簡単に結果だけで決め付けている自分の愚かさを感じているこのごろなので、読ませていただいて、共感しています。
もたもたしたり、もやもやしたり、まどろっこしい中にも大事な過程があるように感じています。
なにもかも忙しく流れていってしまう中で、つい、
忘れてしまっていたり、知らず知らず見逃してしまうことにも大切なものがあるように感じます。

投稿: Tねこ | 2008年2月28日 (木) 15:29

 newbornさん、お世話になりました。
 ときたま、あんな気まぐれをしてしまいます。もちろん、初めからワークをやる予定はありませんでした。でも、いつも頭の中にはあります。だいたいが、雰囲気に何か物足りないときとか、もう自分で話疲れて満ちているときです。
 以前、ある支部でこんな状況になったとき、法話の要望があったのですが、「なぜ、法話を聞きたいですか」と聞き返すと、皆さん、黙ってしまわれました。中には、その一言で、「アッ」と何かに気づかれた方もありましたね。
 でも、これも毎回やっていると、すぐに慣れてきて、うまく対応するのもぼくたちの常道ですね。
 どんな形であれ、私自身がそうであるように、そんな人達が集う「法座」もまた生き物じゃないでしょうか。それなら、やはり「いま、ここの、私」がどうしたいのかの視点を、常に大切にしたいと思いした。ありきりですが、実際するとなると難しいですからね。

 Tねこ>ありがとう。そうですか。なにか共感されるところがあったのでしょう。また詳しくお聞かせてください。楽しみにしています。
 絵文字、今回はでしたよ。
 
 

投稿: かりもん | 2008年2月29日 (金) 00:51

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