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2008年2月の28件の記事

『日本の10大新宗教』

 こんなタイトルの本が、何十万部もの売り上げをのばしているそうだ。

 日本人にとって「宗教」とは、非科学的で、胡散くさくて怖いという脅威のイメージが、ハッキリ定着している。しかし、その場合の宗教とは、伝統的な仏教やキリスト教ではない。ここにあげられているような、いわゆる「新宗教」、少し前なら「新興宗教」といわれるものに、なぜか眉をひそめる。

 島田氏が指摘するとおり、「宗教」という概念は、明治時代に一神教のキリスト教と共に、西洋からはいってきたもので、当時も、いまも大多数の日本人は、どこかの仏教寺院の門信徒であり、地域の氏神樣の氏子であって、この時、輸入され翻訳された「宗教」という言葉で計るかぎり、「私は無宗教です」と標榜する人たちが、大量に生まれたのである。このあたりの詳細は、『日本人はなぜ無宗教なのか』(阿満利麿著)の一連の新書が面白い。

Img_2166_3  ただ、担当がつけたであろう「新宗教には、なぜ巨大なカネが集まるのか」というオビはいただけない。本書では、各新宗教の集金システムや勧誘方法などに、あまり触れていないからだ。

 「10大」というのも、ベスト10の意味ではない。正確には、1、天理教、2、大本、3、生長の家、4、天照皇大神宮教と璽宇、5、立正佼成会と霊友会、6、創価学会、7、世界救世教、神慈秀明会、真光系教団、8、PL教団、9、真如苑、10、GLA、という形で、分派も含めて15の巨大教団が紹介されている。これは、あくまで宗教学者の島田裕巳氏が、この時点で独自に選んだもので、キリスト教系の新教団は含まれていない。

 つまり、仏教なら、日蓮系か、真言の修験道系の影響がある。また、大本からの分派などは、神道系の影響を受けている場合が大方である。そして、もしその教団が、戦前から続く場合は、なんらの形で、国家からの弾圧を受けているということである。その代表が大本だが、天理教も、生長の家も、天照皇大神宮教と璽宇も、PL教団の前身もそうだ。中には、詐欺まがいのものあるが、大方が、天皇制の国家統制による思想的弾圧で、教祖も逮捕されているケースもある。中には、過激なまでに翼賛的であるのに、逆に、その過激さ故に国家の干渉を受けた生長の家などもある。

 要は、民衆の生きた力が恐ろしかったのであろう。その点、伝統的な既成仏教教団は、軒並み牙を抜かれ、子猫のように従順だった。これは、いまも同じである。まったくエネルギーが感じられないのは、なぜか。

 ところで、本書は、新書判という制約があるので、総花的になり具体的なエピソードはあまりない。その点、『日本ばちかん巡り』(山口文憲著・新潮社)は、そんな教団本部、十数カ所を巡ったルポルタージュ。読み物としてもなかなか楽しめて、面白かった。

 最後に、ぼくの個人的な思い出を一つ、二つ。

 華光の聞法旅行で天理市を訪問して、巨大な建物と、あちち、こちらで信者たちが車座になり、活発化広げられていた小さな座談会(本願寺の御影堂では絶対にありえない)に驚き、刺激を受けた天理教。

 そして、真宗カウンセリングを通じて関わりがあった立正佼成会。そこから分派し、やはりカウンセリングに取り組もうとされた妙道会(幹部が、聞法の集いに参加している)などがある。

 特に、本書でも立正佼成会が、その伝道手段として活発な法座活動を行なっていることに触れられている。実は、この法座活動を蓮如上人から学んでいることを、立正佼成会の研究機関の論文が発表していた。そして、本書では触れられていないが、佼成カウンセリング研究所を設立し、教団ぐるみで、盛んに宗教的カウンセラーの養成をされている点がある。その研究会の仏教カウンセリングに関わってこられたのが、西光義敞先生である。つまり、本家の本願寺が真剣に取り組まない、座談会中心の法座活動や、カウンセリング活動など、教義を超えても良いものは積極的に取り込む、柔軟さがあるのだ。これは立派。当然、そのことの重要性を訴え続けてこられた先生を高く評価されていたのは、本願寺より、こちらの教団だとういうことか。これは、真宗人としは、かなり恥ずかしい。

 その西光先生がご逝去されてからしばらくして、立正佼成会の関係者から電話を受け取った。「生前、たいへんお世話になった先生のお墓参りをしたいのだが、どこにお墓があるか」という問い合わせだった。でも、ぼくは知らなかった。そういえば、わが家には墓はない。一度も、先祖の墓参りをしたこともないし、これからもそうであろう。父も、ぼくも、そんなところに死後居るとは、まったく思っていないからである。石に手をあわせても仕方がない。

 それはそうとしても、大恩を受けながら、墓の場所も(たぶん、ご自坊なんでしょうか)知らないとはなーと少し恥ずかしかった。それ一つとっても、先祖供養を大切にされている教えだということが分かる一幕だった。

 ほかにも、興味深いエピソードがあるけれど、今はこのあたりで。

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『君の涙、ドナウに流れ ~ハンガリー1958』

 『君の涙、ドナウに流れ ハンガリー1956』は、1956年のハンガリー動乱の悲劇と、時を同じくした、メルボルン・オリンピックのハンガリー水球チームの栄光を描いた人間ドラマだ。

 いつものごとく、まったく知らないことだらけですね。

Hungary1956_01  まず、ハンガリーが水球大国だということ。今回の北京にオリンピックにも3連覇(過去8度の金メダル)がかかるほどの水球の世界最強国。水球は、Water Polo(ウォーター・ポロ)と呼ばれ、これまたイギリス生れの水上球技だ。「水中の格闘技」といわれるほど、激しいスポーツ。体のほとんどが水中にあるので反則が分かりずらいし、常に手足を動かさないと沈んでしまうので、水の中では、なぐったり、蹴ったりする行為が、普通に発生するからだ。

 そして、ここにもハンドボールの「中東の笛」ならぬ、「ソ連の笛」があったこと。ライバル、ソ連戦は、露骨なソ連寄りの笛が続く。超大国ソ連の衛星国なのだから、政治的な従属は、スポーツや文化の世界にも及ぶのは当然なわけか。これは、同時に、日常的なソ連の環視や抑圧と、最後の軍事的暴挙をも暗示しているといってもいい。ソ連の衛星国どころか、軍事的な属国扱いを受けているのた。

 そして、多くの社会主義国がそうであったように、共産主義時代のハンガリーも、環視国家であった。

 昨年、とても評判がよかった『善き人のためのソナタ』(←お勧め度高いし)は、東ドイツの”シュタージ”という、体制支配の中枢を担っていた、強力な国民環視の非人間的組織と、芸術、ひいては人間性の相剋を描いた佳作だったが、ハンガリーの秘密公安警察は、AVO(のにちAVH)という。

 しかも、恐ろしいのは、国家権力の環視を支えるのは、実は、反体制的な行動や言論に対する隣人や家族の裏切りによる密告社会ということである。どこに密告者がいるか分からない。一般民衆に信条や言論の自由はもちろんのこと、これでは、職場や家庭の日常生活にまで、安らぎはないのに等しいのだ。

 恐怖政治が続いたハンガリーでは、1956年、民主化を求めて民衆が立ち上がり、権力側も呼応し、一時はソ連軍の撤退という勝利かと思ったが、一転、ソ連軍の圧倒的な軍事報復が始まり、自由を求める声は大きな犠牲と共に弾圧されてしまう。しかも、当時のアメリカを始め国際社会は、ハンガリーの民衆の援助を求める叫びに耳を傾けることはなかった。(なぜそうなったのかは、映画では答えていない。政治バランスが働いたのだろう)。そして、10数年後の「プラハの春」も同様、ソ連の圧倒的な軍事力の下に、民衆の正当な要求が蹂躙されていくのである。それが、ハンガリー動乱とか、騒動と呼ばれる”動乱”である。でも、ぼくが社会科で習ったこの「動乱」とか「騒動」というネーミング自体が、すでに体系側の視点かもしれないなー。このような形で「事件」として画一化されて発信されてしまうと、ほんらいは、その下では、人間の基本的欲求である自由を求めてた多くの命が犠牲になり、数々の悲劇があったことも、単なる画一的された数値(死者数、亡命者数、処刑者数など)で現されて、終わってしまう。

 そこを本作は、ジャンヌダルクのように、運動の中心的存在となる女子学生(そうそう、ヒトラーのナチスに本国でレジスタンスして死刑になった女子学生を描いた『白バラの祈り』も、ドイツ映画だった)と、エリートの水球選手の恋と、葛藤を描いている。

 そして、五輪史に残る、メルボルン五輪でのソ連邦との流血戦に、見事勝利し連覇を果たす。しかし、勝利によるカタルシスはない。なぜなら、政治的には、この後、30年以上に渡る軍事的支配が続く前触れであることを、みな分かっているからだ。それにしても、この水球の試合のシーンが迫力があった。それもそのはず、実際の現役、金メダルチームのメンバーが、過去の金メダルチームを演じているのだそうだ。

 「自由の国に生まれた者には理解にも及ぶまい

  たが、私たちは何度でも繰り返し噛みしめる

  自由がすべてに勝る贈り物であることを」

                (゛天使のうた゜マライ・シャーンドル)

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説聴の方軌(2)

  いまから思うと、たぶん前記のような思いが強かったので、午後からは、「なにをしましょうか」「なにがしたいですか。なんなりとどうぞ」と、皆さんにお尋ねしながら進めることになった。われながら、ずいぶん、モタモタ進んでるなーと思う。もろちん、法話の準備はあった。しかも、2種類もってきていた。でも、ぼくの中で、もう午前の話で、十分、話し尽くした思いがして、皆さんをみていると、これ以上、満腹にさせる気持ちになれなかったのである。それより、もう少し積極的に関わってらもいたいとの思いが強かったのだ。それにしても、浄土真宗のご法話で、こんな進行するところは、華光しかないだろう。これも真宗カウンセリングの経験のおかげである。でも、皆さん方にしては、まったく面食らう、迷惑な話である。中には、「私は、ご法話を聞きに来ているのだから、さっさとしろ」といいたげなお顔のお方もおられた。まあ、本心はそうであっても、そこは皆さん、分別のある大人である。せいぜい、「ご法話かあれば、あとの座談も話しやすいので」という程度のご意見がでる。「とりあえずご法話」か。これゃ、「とりあえず、ビール」と代わらんなー、まあ、座談が円滑に進むような話のツマ程度のもかもしれんしなー。確かに、そんな程度ではある。

 そのうち、いろいろと日頃の疑問や質問が出てきた。それでも、まだハッキリした方向には向かない。なかなか、点にはなるけれど、線になってこないのである。ましてやその線同士が、交差することは難しい。

 ある人の疑問から、法を鏡に知る自分、他人を鏡にして知る自分、さらに仏願の生起本末を聞くこととの関係についての質問がでた。それで、「自分を知る」という視点から、あらためて話して、少しワークをしてもらうことにした。

 ひとつが、「あなたは誰ですか」のワークてある。これは、経験もあって、皆さんの反響もだいたい分かっているのだが、なかなか面白かったようだ。刺激にもなり、そのあとの分かち合いも活発だった。改めて、分かっているはずの自分とは、実は外側ばかりを押さえてわかってつもりになっていて、あらためて問われると、まったく困ってしまうなどと味わった方も多かった。

 少し迷ったが、このところやりたかい思っていた、いまの気持ちを言葉ではなく、音にしてみるワークを試みてみた。ところが、これが予想に反して、なかなか難しかったようだ。ひとつは、すぐに頭で言葉にしてしまう習慣があるので、いまの気持ちをからだで捉えることに慣れていないということ。もうひとつは、まわりの目が気になるということであった。つまり、へんてこな擬音的な音がだせない。ましてや大きい音もダメという雰囲気になって、みんな恥ずかしそうに、小さな声でやっておられた。隣の反応に、思わず笑い声もあった。そのせいか、あとの分かち合いも、あまり声が出なかったようだ。

 たぶん、これが世間の評価なら、最初のワークは成功。あとのワークは失敗となるだろう。実は、皆さんの態度をみていて、ぼくも終わった直後はそう感じた。こんな場所でやるのは、これゃ、難しわいと。でも、すぐに思い直し、あとのワークで得た経験の方が、実は、みのりが多かったんじゃないのかなーと思えるようになっている。たぶん、ぼくたちは、日頃から、初めて経験することについて、すぐにその意味を頭で考えている。変わったことをするのに、どんな意味があるのか。そして、どうなれば、聞法と結びつき有効化なのかと、功利的な部分だけを評価している。そして、意味がわかると、その方向でうまくこなすことに腐心し、思い通りいけば満足するのである。当然、その逆の方向に向かったときは、失敗という評価がくだる。

 でも、それではちょっともったいない。たとえば、まわりの目が気になってなかなか声が出せなかった。照れくさかったり、小声でしか出来かったということ自体が、いまの私を、そして皆さんとの関係や、この法座の雰囲気を端的に現していると気づかせてもらえるのではないかなー。うまくいく、いかないよりも、そのプロセスの意味がある。そこで、いま、ここでの自分を見せてもらえることが、大きな収穫なのである。うまくいかなかった(正確には、自分が満足できなかったり、マニュアルどうりに進行しなかった)ことによって、予想とは違った経験をしたことを味わってもらい、しっかりと分かちあうことから始めればいいのである。

 それにしても、法話があると思っていたら、こんなカウンセリングだか、なんだかしらないが、へんてこなことをさせられて乗れなかったお方もあっただろう。その方には、申し訳ないことだが、今回なんとなく、そんな方向に法座が動いたことも、ぼくにとてっは、何か意味のあるプロセスで、大事なことだと受け止めている。結果ではなく、そのプロセスを味わうことが、多少は出来るようになったかなー。

 参加の皆さんは如何でしたかね?

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説聴の方軌(1)

  今回の東京法座の2日目は、午前中は「唯除のこころ」について、質問を交えながら、2席に渡って聞いてもらった。たぶん、量も、内容も消化するには、かなりのものだったと思っている。

 でも、一方的ではなく、質問を交えながら進めた。だから、広島の時とは、ずいぶん話の展開が異なってきた。東京では、正信偈のことも、なぜ「五逆」より「謗法」が重いのかなども質問をすることはなく、法話の部分が増えたと思う。

 どうしても、ご法話は先生のおまかせになる。別に、信頼があるのだから、おまかせが悪いとは思わない。しかし、できれば、受け身の法座で終わるのではなく、一つでも自分を通して聞いてもらいたいと願っている。だから、たとえば、今回なら、ご法話の前に、本願の唯徐の味わいについて、皆さんにお尋ねする時間をもった。誰もが、一度は、ひっかかられるところであると思うからだ。別に、教義的に知っている、知っていないということではなく、あくまで、自分の中でどう味わっておられたのか。問題点はあるのか。もし、何も感じたことがないのなら、それはそれでいいので、そのことをしっかり表明してもらいたかったのである。

 こういう態度は、これからの聞法では、大切な説聴の方軌(ほうき)の一つになるのではないかと、ぼくは思っている。

 なぜなら、今日は知識偏重した社会では、聞いただけで、知っただけで、「なるほど」と終わってしまうからだ。しかも、大方は、「けっこうでした」で、易々と分かったつもりになって、それ以上の疑問も味わいもないまま、食事のひとつも挟んだころには、何も残っていないというのが、現実ではないか。それではもったいない。

 せっかく、テーマについての問いが出たのなら、受け身で聞くだけでなく、まず自分がどう味わってきたのか。もしくは、なぜそれを問題にしなかったのか。そのあたりの問題意識を持って、お聞かせに預かるだけでも、ずいぶん、積極的な聴聞ができるのである。

 それなら別に声をださなくってもいいんじゃないか、という方もおられるであろう。確かに、心の中で確認するだけでも意味がある。でも、心の中で「南無阿弥陀仏」と反復するのと、口に出し、声となって「南無阿弥陀仏」と出るのは、まったく似て非なるものであるように、ほんの少し勇気をだして、みんなの前で、声にだしておくだけで、心が動き、聞き方が動くのは間違いないのだ。

 第一、話し手(説教師)への影響はハッキリとちがう。そりゃ、そうでしょう。たとえ、心の中に秘めていたとしても、ぼくにはわからない。ただ、「何もない」「何も考えていない」「おまかせ」の人達が並んでおられるという明確なメッーセージを送ることになるのだ。そこから、発展する刺激か生まれると思えないものね。

 まあ、人によっては、ちょっぴりハードルが高いかもしれないけれど、自分も法話に参画するつもりで、課題をもってご法話に臨んでもらうだけで、ずいぶん、聞き方が変わる気がするのである。(つづく)

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火宅無常の世界

 このところ京都は、毎日、しぐれたり、雪の日の日が続いて寒い。雪は、半日もすればきれいに溶ける程度のものだが、京都市内でこう何日も積雪のある年は珍しい。

 それが、今週末は、一足早い春の陽気。ほんの少しだけ軽装で東京に向かったのに、少し歩いただけで汗ばむほどだ。ところが、翌日になると、天気は一転。台風なみの大風である。7階の会場でも、ちょっとこわいほどの風で、誰かが、「突風か、竜巻か」と言っていたが、実は、春一番。東京都心でも25M以上の風を記録している。

 帰りの新幹線や在来線は、風の影響で軒並み遅れていた。北陸方面では、運休が相次ぎ法座の参加にも影響がでたようだ。そして、京都に近づくと、今度は雪である。出発は春で、途中、嵐になり、最後は雪といった具合で、こう短期間で天候が急激に変わるのも、もしかすると温暖化の影響かもしれない。

 雪の中を帰宅すると、またまたびっくりするようなニュースが待っていた。ある同人宅で出火し、強風に煽られて、自宅兼仕事場が、アッという間に全焼したというのだ。ちょうど、東京では強風のことをみんなで話していた時間のことのようだ。いつもお世話になり、家庭法座も開いてくださっていただけに、一瞬耳を疑った。びっくりというより、ショックだった。今回の会場とは違うが、来週の高山支部法座にも影響が出るだろう。延期になるかもしれないなと覚悟した。それが、火事のお見舞いで、逆に、ご本人様から、「いつもお聞かせいただいているとおりでした。こんな時だからこそ、ぜひご法座を持ちお聞かせに預かりたい。厳しくお導きください」と、おっしゃってくださったお言葉に、涙がこぼれそうになった。まさに「火宅無常の世界」を、身をもって教えてくださったのである。

 ほんとうは、この世で得たものは、実はなに一つとして身につかない。死んで行くときには、すべておいていかねばならないのだ。このからだも、家族も、財産も、執着したがらくたもだ。そのときが必ずくる。そうお聞かせに預かっている。にもかかわらずである。轉倒して、それらのものを我がものと執着している我が身が、一瞬省みられた。ほんとうにガラクタばかりを集めている。それを「惜しい、惜しい」「欲しい、欲しい」と、貪欲を起こし、思い通りいかないと愼恚の心を燃えしている。まったく我が身のお粗末さを恥じ入るばかりだ。でも、愚かにも、それが止められないのも、悲しい凡夫の自性でもある。そして、いちばん大切にしなくてはならないものを大事と思えず、粗末にするだけ粗末にしているのであるから、まさに狂っているとしかいいようがない。

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまこそにおはします」(歎異抄後序)

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法蔵さまのお念仏

 京都から千葉の柏市へ。25年以上にわたり、無償で、華光会の会計業務に携わり、発展に献身的にご尽力くだされた、永田会計事務所樣に長年のご功績に謝意を述べに窺ったのである。その間に、借家だった境内地の取得、そして会館の再建と大きな事業の度に、さまざまなご支援をくださったのである。

 何年ぶりになるだろうか。手元にある12年前からの法座記録には、すでに全林野会館が会場になっているので、その前となる。それまでは、東京支部の法座会場として、事務所やご自宅を提供くださっていたので、よくこの駅は利用していた。諸事情で、主会場が、全林野会館に移ってからも、変わらず施主としてご法座を開いてくださっていた。

 記憶にあった駅とは、ずいぶん様変わりしていた。出口を間違ったのか、少し迷った。それでも、便利な世の中になったもので、ネットで検索すれば、目的地の会計事務所まで、最短経路と道順が詳しく分かっていたので、不安に感じることはない。少し早い春の陽気で、到着したころには、汗だらけになってきた。

 従業員が30名を超える大きな事務所である。ここで、事務所が休みの日に、ひとり、ひとりが事務机に座って、ご法座をもったことが、いまは懐かしい。さすがに、ここも様子が変わっていた。25年に渡って、華光会の経理を担当してくださっていた担当の方にも、直接、御礼を述べることができた。頭をひねって考えた感謝状も、直接、お渡しすることがあった。

Img_2161  先生のご自宅に移り、お仏壇にもお参りした。まだ新しいご自宅も、中の家財をすべて取り壊しや焼却せざるえない諸事情があり、ここははじめてだった。直接、中国現地から取り寄せられたという、一つ岩をくり抜いた石仏の観音様が立派だった。玄関をあけると、1mほどの誕生仏がお出迎え。こちらは、インドで見つけられたという。少し時間もあったので、食事をとりながら、お話を窺った。はじめてお聞きするお話もあって、すぐに時間はすぎっていた。これまでの華光会や東京支部での、お仕事ぶりや施主としてのお働きはたいへんなものだ。でも、そのことをみなさんに威張ったり、誇るような態度は一切お持ちではなかった。それどころか、家族への法の相続が難しく、ここで仕事を一区切りせねばならなくなったことを、盛んに残念がられ、逆に頭を下げらてくださった。このご法に対する愚直な態度を尊く拝ませてもらった。

 そのまま東京支部の法座に向かった。東京の集いも、当時に比べると、顔ぶれが樣変わりしていてる。お参りされる方で、柏でご法座があったことを知るものも、ほんとうに少数になっていた。

 遡れば、いろいろな念仏の教えを喜び、その真実を伝えとする種々のご縁が綿々として続いてきているのである。それは、東京支部だけのことではない。華光会そのものもそうである。およしさんしかり、伊藤先生しかり、そのまわりの無数の念部者しかりである。いや、浄土真実の教えの歴史そのものが、そうした遺弟の念力により、いま、ここに届けられてきたのである。お念仏が、人から人へ、口から口へと、途切れることなく届けられ続けてきたおかげで、いま、私の胸にもその真実が至りきて、この私の口から「南無阿弥陀仏」と、名のりをあげておられるのである。

 そうなのである。その私のお念仏の本源は、法蔵菩薩の発願に遡るのである。その間に、有名無名の念仏者のお働きが、確かにあったことを忘れて、「おれが、おれが」では、あまりにも勿体ないのだ。

 しかし、愚かにも、自分の目先のことしか分からない私には、まったく想像もつかない世界だ。それで、分かったとか分からんとか、有り難いとかモヤモヤするとか、ホンモノ、ニセモノと、自分頭で混乱させてしまう。だから、ただお聞かせに預かるのである。そして、自分が称え、自分が分かるようにうぬぼれ、大きなお働きを、小さな小さな、自分の器で計っている、愚かさに出会うだけなのである。そして、聞けば聞くほど、これがまぎれもない事実として輝きだすのである。

 そう、私が称えているのに、私が称えているのではないのだ。それは、時間も空間も超えて、まぎれもなく、親鸞様が直々に称えておられる念仏であり、曇鸞樣が直々に称えられる念仏であり、そして法蔵菩薩の直々のお念仏にほかならないのだから。

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拡がるご縁…

 今夜は、真宗カウンセリング研究会の輪読会。すごく勉強になりましたね。ロージャズの自信、力強さを感じました。帰宅して、子供に絵本を読んでから、遅い夕食をすませ、いま、ホッとして書いてます。

 今週は、金曜日から東京。日曜日は、華光会館で法話会があります。

1)東京支部法座。東京の会場は、文京区大塚の「全林野会館」。↓

  http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/02/tokyo2008-2.htm

日時:2月22日(金)夜7時~9時半(『囲む会』)

       23日(土)朝9時半から夕方5時(法話と座談)、あと懇親会もあります。

 今回は、1日法座の予定でしたが、金曜日に、長年、華光の会計業務にご尽力くださった永田合同会計の事務所の皆樣に、「感謝状」を持参し、一言御礼に窺うことになって、前日からはいります。金曜日は、法話でも、座談会でもなく、「囲む会」の名称もらいました。案外、これいいかもね。どうも、信仰座談会になると、皆さんの発言を優先してしまう自分がいるし、法話なら、ぼくの一方的な話で終わってしまう。ちょっと、その折衷かなー。皆さんから刺激をもらって、ぼく自身のもっているいろいろな引出しから、何か出るものがあれば有り難いですね。

2)京都支部法座。華光会館が会場。↓

 http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/02/kyoto2008-2.htm

日時:2月24日(日)昼1時30分~5時ごろ。

 講師:増井悟朗先生。

 ところで、今日は、日高支部長さんが永代経のお当番のことで、ご来館。その時に、「三戸独笑師のことで、有り難いコメントがはいってますよ」と教えてもらいました。実は、朝から外出していたので、まだ読んでおらず、トンチンカンなお返事。先日の国嶋貴八郎氏のことといい、ご縁の拡がりを感じますね。ぼくも、あわてて読ませてもらいました。深いご縁に驚いています。皆さんも、左のコメントを、ぜひお読みくださいね。

 

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ハンガリーの映画、あれこれ

 久しぶりにハンガリー映画を見た。といっても、ハンガリーの映画は、日本でそれほど目にする機会はない。ぼくも、合作を含めて、4、5本しか見たことがない。『トランシルヴァニア』のルーマニアじゃないけれど、ハンガリーと聞いても、せいぜい、ドナウの真珠と呼ばれるブタペストが浮かぶ程度で、どうも日本人には遠い存在だ。その意味でも、難しい勉強しなくても、いろいろい知らない世界を楽しく教えてもらえる、映画ってほんとうに有り難いものだ。

 その1本が、『太陽の雫』。薬酒で財をなした一族の、時代に翻弄された物語。帝政時代の高名な裁判官にして、変革の波に翻弄される祖父。オリンピックのフェンシング金メダリストの栄光が、ナチスの強制収容所で囚人として一瞬にして終わる父。さらに、共産党支配下、父の無念を晴らすべく、ナチ狩りに明け暮れなる忠実な党員が、恋と、ハンガリー動乱に巻き込まれながらも、自分を回復していく。三者三樣ながら、政治と時代の波に翻弄されて、栄光と挫折を味わい、同時に激しい恋に生きるユダヤ人一族の姿を壮大に描く、いわば大河ドラマだ。その姿を通して、揺れ動いたハンガリーの近代史が描かれていく。しかも、この3代に渡る祖父、父、息子を、レイフ・ファインズが一人で演じ、それぞれ有名女優との絡みも見どころだ。ただ、どうしても総花的になってしまい、物足りなさが残ったのも事実だ。

 もう1本が『暗い日曜日』やはりハンガリーのユダヤ人が主役。時代は、第二次大戦前夜のブタペスト。騒然として時代に翻弄される男と、そのハンガリー人の妻、そして作曲家の奇妙な恋愛関係と、後にナチスの(狡賢く、強欲で、計算高い)その意味での極悪將校となるドイツ人の友情と裏切りを、料理と、自殺ソング-『暗い日曜日』(Gloomy Sunday)の曲に載せて描かれていく。ちょっとしてサスペンス仕立てになっていて、なかなか面白かった。主演女優の白い肌が印象深く残っている。

 そして、今回の『君の涙、ドナウに流れ ~ハンガリー1958』を観た。1956年のハンガリー動乱の悲劇と、同じ時、メルボルン・オリンピックの水球の栄光を描いた人間ドラマだ。これがメーンのつもりが、ちょっとここまで。続きは明日に書けたらぜひ。

 

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『あたごの浦』

 夕方から、子供の風呂と、就寝までのあれこれが、ぼくの仕事になっている。寝る前に、2冊の絵本を読むことにしている。

 『だるまちゃんとてんぐちゃん』などの加古里子(さとし)の「だるまちゃん」シリーズや、せなけいこのおばけものなどの昔からの定番に、『バムとケロのおかいもの』、『ハラペコあおむし』、『チリとチリリ』などがお気に入りのようだ。そこに、お正月にプレゼントしてもらった、『あたごの浦』が加わった。

Imaget01  なんとも味のある絵だ。上手いのか下手なのかもわからない。昔はやった「下手うま」とも違う不思議な絵。そして、四国の方言のしゃべり口も、どこかおかしい。

「前はとんとんあったんやと。
ある、お月さんのきれいな晩のことや。
あたごの浦に、波がざざーと、
よせてはかえし、よせてはかえし
砂浜は、明るいお月さんに照らされて、
キラキラ、キラキラと、光っりょったんやと」

「そしたらそこへ、おーけなおたこが
ゆーらり浮いてきて、砂浜にあがってきた。そして砂浜の畠に入ってナスをムシャムシャ。食べだしたんやと。
そこへ鯛も浜へ上がってきて
『こらこらおたこ、おまえはそこで、なにをしてんや』と、問うたんやと。
そしたら、おたこは、『へえ、おなすびちぎって、食べよります』と、言うたんよやと。…」

 子供たちは、そらで覚え、何度も繰り返している。「こらこらあたこ、なにをしてんや』『へえ、おなびてちぎって食べよります」ーやてと。

 そして、このあと、魚たちの浜辺での宴会が始まり、かくし芸大会がはじまる。でも、このかくし芸が、しぶいこと、しぶいこと。「松にお日さま」「松に月」「笹にお多福」「松に藤」などのおめでたい芸が披露される。そしてその度に、魚たちがはやし立てるのである。

 「妙、妙、妙、妙、妙、妙(みょう)」。子供たちも、訳もわからず、何度も何度も、真似ている。「妙、妙、妙、妙、妙、妙…」と。

 「妙」な感じですが、かみしめるほどに、回りをのどかにさせる空気持った絵本ですね。

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凡聖逆謗斉廻入

 毎週のようにあるのに、いまだに大きな行事や、宿泊の法座の前夜は高揚感あるんですね。教案で寝るのが遅くなったり、なぜか、とても早く目が覚めたりしますね。それでも、昔に比べると、まったく落ち着いていますが、プチ興奮や緊張があるんでしょう。

 で、今日は、広島支部法座。やはり雪で、新幹線が少しおくれましたが、無事に始まりました。久しぶりに正木家でご法座を開いてもらいました。関東から、お子さん、お孫さんが帰省されていて、いつも東京支部で出会う人と、広島のご実家で会うと、(回りが違うので)不思議な感覚がしました。

Img_2154_2  とてもいいご法座でした。 厳しい話もあったのに、とても温かく、晴れやかな気持ちに包まれて、帰路に着くことができました。一つは、正木家のもつ雰囲気ですね。公共の施設にはない、温かさがありました。説明がつかないのですが、なにか不思議なものです。会場なんて、所詮、器じゃないですか。中身が大事だと。でも、けっこう、この器の醸しだすムードが法座に影響する気がします。会場が広いとか、きれいとかそんなうわべではなくて、今日だったら、家主ご夫妻の、仏法に対する真摯な姿勢や、そのお人柄が現れて来るのだと思います。もう、これは理屈じゃないです。参加の皆さんの態度からも、それは十分に感じられました。たぶん、そこに座っていいという、安心感みたいものを共有できるのだと思います。

特に今回は、初参加の方が、とても積極的に、さまざまなご質問をされたので、そのことを通じて、皆さんも聞かせていただいたのではないでしょうか。ご質問されたご本人も喜んでおられたが、皆さんも、得をされたと思いました。 

法話は、予定どおり、「唯除のこころ」について。逆謗除取といって、大経の十八願文の「唯除五逆誹謗正法」の八文字と、観経の下々品のお念仏による十悪五逆の救いをどのように会通(えつう)するのかというテーマです。若い学生さん(子供大会バリバリ出身者なので心配はない)が、「本願ってなんですか」なんて質問がでたので、そんな方には、かなり難しい点もあったでしょうし、いつもやさしい、甘い、やわらかいものばかりではなく、たまには少々難しくても、噛み応えのあるお話にしました。もちろん、一方通行ではなく、皆さんに考えていただいたり、お味わいを話していただきました。

これは、曇鸞さまや善導さまが、詳しくお説きくださり、親鸞さまも、信巻末の後半をかなり割いて、わが身を通してお示しくださっています。他力のお念仏によって、種々の信心のお徳をいただき、真の仏弟子となり、便同弥勒とまで褒めたたえていただいているにもかかわらず、その実体はどうか。まさに「愛欲の広海に沈没し、名利大山に迷惑し」て、仏法クソ食らえへの私の姿は、難治の三病のアジャセ王そのものという深い深い内省の世界です。仏法を喜ぶ身になっても、どこどごまでもお粗末なわが身と、よくぞ「唯除」くださいましたという大悲のお心の広大さを、共にいただきました。

 難しい言葉やご文も、皆さん、しっかり聞いていただきました。でも、「五逆ってなんですか」と、質問しても、けっこうあやふやだったりする。もちろん、「1)殺父、2)殺母、3)殺阿羅漢、4)破和合僧、5)出仏身血」の五つですと、スラスラ答えたとしても、それが知識だけならなーんの意味もないわけ。ただ、一括りで悪人の姿と味わうよりも、その中身も正しくお聞かせいただくのに越したことはないし、また人ごとで聞いても意味ないわけです。それで、「大恩あるものに、それをご恩で報いないだげなく、うらみで徒をなす心で報いる」と、五逆の姿をいただきました。もちろん、実際の身(行為)だけでなく、口も、心も含まれて来るとなると、これは、まったく私の姿そのものじゃないですか。そのことを教えていただき、それが無条件に喜べる身になったことが、ほんとうに幸せじゃないですかね。

 「凡 聖 逆 謗 斉 廻 入」
  「夫、者、五法、しく、心 帰する」

のお正信偈のお心が、こころにしみ入ります。広大無辺の大きな話だなー。

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機には仏法臭いものは残らない

 今日も雪が舞う、寒い1日でした。いろいろ予定が変更になったり、家族の間で、大切な行事がありましたので、ある意味、多忙な1日でした。疲れまたしたね。明日が、京都市市長選挙なので、夕方には不在者投票(期日前投票)もすませました。

 さて、2月17日(日)は、三カ所で、華光の法座があります。

1)広島支部法座 時間:1時~5時/会場:正木家

 ハガキの法座案内から、会場が変更になっています。12時30分~40分までに、広島の新幹線口の改札口に集合すると、送迎があります。

 先日、輪読法座で話題が出たので、「唯除のこころ」について味わっています。それで、逆謗除取(ギャクボウジョシュ)、摂取門と抑止(おくし)門について、ご法話をする予定にしています。いまたら、もう少し教案つくります。それにしても、久しぶりの正木家に会場が移って、ぼくも楽しみですね。

2)東海支部法座 時間:1時半~5時/会場:JR勝川駅前・ルネック7階/増井悟朗先生の法話と、座談。

3)日曜礼拝    時間:1時半~5時/会場:華光会館/

 子供だけでなく、大人の方もぜひどうぞ。こちらは連れ合いもでますが、子供の部のお世話のようですね。

というわけで、広島、名古屋、京都で、ご法座あります。冷えてきました。もしかすると、また雪になるかもしれませんが、それぞれのお近くの方は、ぜひお参りください。詳しくは、以下のトップメニューから。左上に、三つの法座の入り口があります。↓

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/top_menu/menu.htm

「機の上には、法に餓(かつ)えるだけは残るかも知れぬが、仏法臭いものは残らぬ残らぬ。ただ三毒だけ。浅ましいものじゃ」(『信者めぐり』より)

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『フランドル』

 (前の沖縄のプチ続きね) 実は、いくら聖戦と叫んでみても、古今東西、戦争とは、殺戮に加えて、略奪と、弱者への暴力(殺人)、女性への性暴力が、最大限に発揮されていくものなのだ。人間という動物は、いのちの危機に迫られた極限状態のときほど、身に直結した暴力や性の猛烈な衝動にかられるのだろう。これはもっとも非人間的のようで、実は、もっとも人間の本質の一面を現した、これも人間性の発露だと、ぼくは思っている。

 さて、これからはそんな映画のお話である。

Flandres_01  『フランドル』音楽も廃したなかなか重厚な作りで、そんな人間性の極限を描いている。黄金の穂が揺れるフランドル地方の田舎の地で、(とても無機質な)セックスという形で世の男性を受け入れる(家族は病んでいると精神病院に送り込む)少女と、志願して戦場に赴き、恐怖からの不安や欲望に苛まれて、少年を殺害し、女兵士を集団で襲い、報復におののき、また殺戮を繰り返し、そして仲間を見捨てるなどなどの罪を重ねる(重ねざるえない?)男性。そんな深い傷を負った男女が、女性が男性を受け入れるという形で、この美しすぎるフランドル地方の風景のなかで結びつていくのだ。現代的な設定で、戦場もイラクなどの中東を彷彿させるが、あくまで架空の地の出来事。いわば寓話タッチで描かれるが、センセンショナルであり、それでいて絵画のような美しい作品だった。

 現代の私たちが(タブーにして避けているが)ほんとうは避けられず、一旦、箍(たが)が外れるとコントロールが出来ないので恐ろしくもある「性」と「暴力」という、いわば身体(いのち)に直結した根源的なテーマが取り上げられるので、けっこう露骨なシーンもあった。しかし、人間の尊厳とは何なんだろう。その業は人間によって癒されるのかと考えさせられもした。彼女の、自分と男の罪、ひいては人間の業を赦し、受け入れる姿に、宗教的に昇華された愛を見るという評文が出ていた。うーん、ほんとうにそうなのか。これはなかなか難しい問題だと、また考えさせられたが、ある種の寓話的、象徴的な雰囲気で、ちょっと肩すかしを喰らった気もする。まあ、たぶん、そこがいいのだろうなー。

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『サラエボの花』が、沖縄の事件に

 沖縄で、またしても弱者が犠牲になる悲しい犯罪が起きた。しかし、前回のような激しい反対運動はゴメンだというばかりに、素早い対応が粛々と進んでいる。日本政府も、米国も、現状の枠組みが停滞するような強い反基地運動を懸念しているのだろう。首脳陣の強い憤りの抗議も、米国側の心からの謝罪の表明も、どこか表面的で、下手なお芝居のセリフにしか聞こえないのが、なんとも悲しい。お芝居だとしても、もっと上手にしてもらいたいものだ。綱紀粛正や1ケ月の外出禁止程度で、なんの解決にもならないことは、みんな分かっている。しかし、大局から冷静に対処して、一犯罪者の愚かな行為ということで、早々に幕引きを計りたいのだろう。でも、ほんとうは、米国の国益のみならず、ぼくたち日本人、一人一人のエゴの結果、沖縄に基地が集中している現状と、さまざまに山積する問題や矛盾をしっかりと見つめるきっかけにならねばならないのに、結局、ぼくたちもまた、自分にふりかかる厄介はゴメンで、どこかで臭いものには蓋をしたい心情なのかもしもない。この心こそが、いちばん恐ろしんじゃないかなー。

 実は、戦争の性的暴力の犠牲になった女性をナイープな視点で描いた『サラエボの花』の枕として触れたのだけれど、急に別の映画が思い浮かんできた。次ぎに改めて触れよう。

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チョコと、ランと、かぶと虫…

 2月14日。バレンタイン・デー。別に、クリスマスも初詣もない我が家ですが、なぜか、チョコレートだけはいただきます

 仏青のSちゃん、同人のAさん、Bさんと、Cさんと、チョコいただいたことを、報告できるのが、うれしいね。こんなことは、ほんと、ここ数年のこと。まっーたくモテませんでしたからね。でも、仏青の若い女の子は、毎年、(仏青研修会中に)誕生日があろうが、14日だろうが、どうもオジサンに、冷たくないかー まあ当然といえば、当然だけどね。

Img_2136 昨年は手作りをくれた子供も、今年は、ちょっと義理チョコぽく、母親のお下がりでした。でも、うれしい。

 そして、ジャージャーン。事務の方からは、「いつもお世話になってます」と、こんな立派な胡蝶蘭いただきました。毎年、観葉植物などいただきます。感激だなー。こちからこそ、お世話になっております。

 どうも、皆さん、ありがとう ガンバリますよー。

Img_2145  そうそう、子供が、木の根っこあたりから、かぶと虫のつがい(もちろん死んでいる)掘り出してきました。このあと、下の子が見事にバラバラにしてしまったので、また土に埋めました。こんな寒い時にねえ。少し、いのちの不思議を思いました。

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妙「光」人

 京都新聞の文化欄に、京都学園大の岡崎宏樹氏が、「現代ヒーロー学」と題して連載されていた。今日が、最終回。「まっとうな普通」の凄さと題して、「妙なる光りを放つ人こそ」との見出しに、目がとまった。

 全部を読んだわけではないが、理論社会学や現代社会論が専門の論者が、イチローや、セーラームーン(いまならプリキュア5だなー)、佐賀のがばいばあちゃんなどの多種多様の現代のヒーローをとりあげ、彼(彼女)たちに共通するのは、「自己超越する力」と「共感する力」で、一握りの天才だけでくな、誰もが育み、輝かせられるとまとめられている。

 信頼していた社会システムの基盤が崩れ、当たり前が当たり前でなくなった現代、個人も、「凡庸なフツー」でいるのはたやすいが、「まっとうな普通」であるのは実はたいへなことである。それは、人が、「人として」という普遍的な規範が厳しく律するところに保たれるからであると論じ、そのあと、浄土真宗の妙好人に触れているのだ。

「浄土真宗には、高僧や聖ではなく、市井の篤信者を記録する『妙好人伝』の伝統があるという。妙好人とは世俗の泥沼に咲く「白蓮華」を意味する。無名で学問のない人でありながら信心の境地では優れて高いところに達している人たち。その言行に学ぶ真宗の伝統にならい、私たちもこれからは、スポットライトの中で燦然(さんぜん)と輝くヒーローだけでなく、私たちの回りにいて、派手ではないが心の目には見える妙なる光りを放つ「凄い人」、いわば《妙光人》に目を向けてはどうだろうか」

 そして、この国の未来があるのなら、一人で一挙解決するスーパーヒーロー(ウルトラマンみないなのかなー)ではなく、

「個々の場面で、普通の人がそれぞれに「凄い力」を発揮することにある。現代の困難は個が一人で担うにと重過ぎる。だから、個の光と光を大切につないでゆくこと。その妙なる光の絆こそが明日を照らす確かなる希望となるだろう。」と結ばれている。

 「派手ではないが心の目には見える妙なる光りを放つ」とか、「個の光と光を大切につないでゆく」という文章、いいですね。これは、鷲田清一氏の『待つということ』に述べられる「パッチング・ケア」の深い示唆にもつながっていくようにも思えた。

 ところで、わざわざ断るまでもないけれど、阿弥陀様からお誉めいただく、本来、観経に讃えられる「妙好人」と、江戸時代の仰誓師以下の『妙好人伝』の妙好人とは、必ずしも一致しない。後者の中には、今生の生活規範が讃えられたり、真宗とは無縁の奇瑞や蘇生物語などを不思議がったり、体制順応型、権力随順の愛山(本山ね)精神が絶讃されたりしている。

 そうではなくて、ほんとうの意味は、信心獲得の身となったものが、真の仏弟子とし、阿弥陀様からお誉めいただく最大限の誉め言葉なのであって、けっして、生活規範や不思議、権力順応を讃えておられのではない。あくまで、凡夫の身が、後生の一大事の解決し、正定聚に定まったことをお誉めくださるのだ。

 ただし、妙好人伝のヒットは、まちがいなく真宗弘通の原動力になっているし、その後の鈴木大拙師などによる再評価につながるなどの功績も大きい。

 それにしても、(他にも使っている方もありそうだけど)、この「妙光人」というネーミングも悪くないと思った。互いに凡夫である同士が、その個の光と光を大切につないでゆく。でも、それは今生の光りの輝きではない。浄土からの華光出仏の煥爛(かんらん)たる光に照らされて、石・瓦・つぶてのような私が、その妙なる輝きを放ちだす。その念仏の絆こそが、明日を照らす希望となるのだと、ぼくなら結びたいなー。

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『再会の街で』

 1月は、「あたり!」と思う映画が多かった。『いのちの食べかた』、『ひめゆり』の2本に、戦争の深い傷跡を女性の立場からナイブに描いた『サラエボの花』、音楽がとてもステキだった『ONCE~ダブンリの街角で~』などがよかったかなー。今月にはいっても、ハズレ(『シルク』)もあったけれど、おおむね、好調に滑りだしかたなー。

 そのなかで、まずは『再会の街で』(原題:Reign over me)シリアスなテーマなのに、ウィットにも富み、かなりコミカルなシーンも多い、心温まる感動作。ヒットする要因が揃ってます。

Saikainomachide_01_2   9、11で、愛する家族(妻と二人の子供)を、突然、失ったエリート歯科医。仕事も捨て、記憶も、社会も捨てて、ひたすら、ゲームや音楽に逃避して、心を閉ざしている。このアデム・サンドラーがいい。『パンチドランク・ラブ』(おしゃれでステキ)や『ウェデング・シンガー』(温かい、ジーン)など、彼の作品は、けっこう好き。そして、この役どころも、アタリ!

 彼と偶然かかわることになる、学生時代のルームメイトで、やりはエリート歯科医が、ドン・チードル(『ホテル・ルワンダ』や『クラッシュ』)。仕事も順調、家庭も平和。でも、女房に尻に引かれ、仕事も家庭も、どこか相手に会わせて、管理されたレールの上を、息苦しく歩かされているような小さな欲求不満を感じていながらも、相手の悲劇が癒えるプロセスで、彼も、本来の大切なものに気づいていくという役どころ。うーん、ぼくは彼にも感情移入やね。

 しかも、全般、70年代、80年代の音楽が、キーワード。原題も、ザ・フーのロック・オペラの名曲。この音楽と、人間の力によって、感情を爆発させてぶつかったり、バカなことをやったり、お互い傷つけあいながらも、徐々に痛みを癒していくプロセスが描かれる。

 これは、なにも9、11に限らず、愛する人を理不尽な事故や犯罪などで、突然、失った悲劇を体験した人々の共通の心象でしょうね。

 ただ一点だけ、個人的に、ドキッとした場面あったね。やっと傷を癒すために、すごい勇気で精神科医に会うことを決意した彼。毎回、「話したくない」と、充分にそのことについて言葉でも、態度でも話している。しかも、治療を拒絶することなく、毎週のように医者の前に姿を現している。そのことだけでも、すごーいことやなーと思ってみていたら、「前回、話したくないと言ったことを聞きたい」なんて、かなり強引なアプローチをかける。もちろん、1度は引き下がるが、何回も重ねているうちに、「話さないと来ても意味がない」なんて迫っていく。ほんとかね? 彼は、いつも、いつもそのことが離れず、実は閉ざすことでなんとかバランスを保っているわけでしょう。傷口を暴かなければ治療は進まないのかなー。いつも休まることなく、傷口に触れまくっているから、外部との世界を遮断している。そのことをまず理解していかないで、この精神科医はなんと危ないアプローチをするんやーとね。

 でも、映画では、ここが山場やね。やっぱり、触れたくないことでも、無理に話させ、厳しくても傷口をいじらんことには、傷は癒されないという神話に毒されていますからね。第一、そうじゃないと映画にはならん。だけど、触れないことで辛うじて取れていたバランスが崩れた結果、当然、起こる最悪の事態。けっきょく、最悪の事態は回避されて、逆に、そのことを通じて、ドラマは劇的に進んでいきます。でも、実際は、こうなることを見逃している精神科医はいかがなものかなー、な~んてね。素に戻ってしまいしました。これは、極めてほくの個人的な視点すぎるわね。

 フィクション、ましてやバリウッドもの。とてもとても、うまい具合に収まります。この面子だものね。感動させないといけませんー。だから、普通にみれば、かなりの感動の名作。最後近くに、確執のあった義父、義母との出会いの場面なんか、けっこう、「ウーウー」ものでした。

 皆さんは、ぼくのようなへそ曲がりな見方をしないだろうから、お勧め度はかなり高いよ。 

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『シアター・バイキング』

 夕方から、(甘)と二人で、荒神口の府立病院の前にある京都府立文化芸術会館へ。ここは初めて来たなー。昨日の仏青研修会から、もう1泊して参加する人もあって、仏青の面々が六名ほど、かぶりつきの最前列に集合。ちょっとカープさんも、やりづらかったんじゃないかなー。同じ最前列に、仏青以外の同人の方もおられて(最初気づきませんでした)びっくり。今月開催されている「kyoto演劇フェスティバル」の一環の「シアター・バイキング」の一コマ。今日は、演劇や、パントマイム、新作的な狂言、そして朗読など、30分ほどの短編作品の競演で、カープさんは、最初のストレートな演劇に出演。日頃のものより1/3に縮小した作品のようでしたが、売れ残りの町娘を熱演していました。(甘)は大喜び。でも、「カープさん、よかったね」と話すと、「エー、なんかよく似た人やと思ってた」と言っていたので、彼女とはわからなかったようですね。

 ほかに、ピアソラの音楽(リベルタンゴかな?)と、パントマイムの相性が、とてもよかったので感心しました。即興性が高く、緊張感があるものね。

 まあ、どの作品も、観るのもいいけれど、あなたも舞台に立って演じたら、もっと楽しいよという、身近な感じがするものばかり。「同じアホなら、やらなきゃソンソン」というところでしょうかね。せいぜい、今年も子供大会のスタンツで、頑張りましょうか。

 少し早く会場を後に、久しぶりに一乗寺まで足を延ばして、スペインのバル(イタリアならバールね)風のカフェ「Gades」へ、皆さんをご案内。必ず、連れ合いの知り合いと出会いますが、男前のマスターと、雰囲気のあるお店で、いい感じでした。 

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誕生日

 仏青寒中研修会終わりました。30名の申込みあったけれど、キャンセルもあって28名。これまでの仏青の主役、若い、若いと思っていたみんなも、かなりベテランになってきました。一方で、新しい顔もボチボチまじりだしました。

 2月10日。

 46歳の誕生日を迎えました。40歳、45歳(昨年)と、この寒中仏青研修会の最中に誕生日をむかえて、サプライズで、皆さんからお祝いしてもらいました。今回は、3月に結婚する仏青メンバーのために、お祝いのサプライズ(今日の昼食時、お祝いのケーキと、クラッカーも交えて祝福したよ)があるので、例年のケーキはなしと聞いていました。まったく弛緩していたら、懇親会の最中に、連れ合いが、「皆さん、今日、誕生日を迎える人がいますよ」と、シャンパンを景気よくあけ、「おめでとう」と、皆さんが、happy birthdayの歌で 祝福してくださいました。いーや、この年になると照れますね。でも、ありがとう。若いと自負しておりましたが、もう参加者の母親よりも年上ということも、ボチボラ出てきました。

Img_2131 朝、起きたきたら、子どもが、お小遣いで外国のビールと、アートの贈り物をしてくれました。4歳の子の絵をご紹介。なかなか連れ合い譲りのアート系ですわ。

 さて、仏青研修会は、2日間。2時始まり、4時30分終了なのに、アンケート式のオリエンテーションに、法話も2座と、少し離れたところへの外食(2時間かかった)など、盛り沢山すぎて、分級座談が細切れになってしまった感があります。来年は、少し何かを削って、座談会を充実してもいいかなーと思いましたね。いろいろと、もう一言言いたい、聞きたいという感じがありながら、アッと言う間に終わったですね。

 お世話の皆さん、ありがとうです。

 

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仏青研修会初日

 京都も、9時すぎきから雪が降り始めて、かなり積もりました。日本列島の広い範囲で、大雪の一日。仏青研修会で、心配もしましたが、皆さん、多少の交通機関に遅れがでたものの、キャンセルもなく、無事に到着。けっこう、知らぬまに人数増えてましたね。

 初日は、自己紹介を兼ねた、アンケート式のオリエンテーション。「最近、失敗したことはなんですか」、「人生で、印象に残る食べ物や食事は?」、改めて聞かれると、けっこう難しいね。ぼくの①は、なかなか今日の法話に取り組めなかったこと。実は、今日だけなく、このところずーっとこんな感じてすね。なーんか、モタモタしていることが多いです。やろうとしても手につかない。どこかで、なんかとなるやろうという経験的な部分も多いのですが…。結局、今日なんか、構想をもったまま、ぶっつけ本番で法話してしまいました。やりたいワーク(体験的学習ですね)もあったけれど、やるべきか、やらざるべきかで迷って、結局、流れのなかでやらない終いでした。これはまたの機会で。なんか、正解や、答えを教えて、それを知っても覚えても意味ないですねらね。聞いている皆さんが、もしくは、法話しているぼく自身が問われて来るのが、ほんとうのお念仏の教えですからね。覚えたり、知っただけでは意味がありません。そんなことを手がかりにウダウダと話させてもらいました。申し訳ない。

 3クループの分級座談に分かれて、自己紹介と法話の感想。だいたい10名ずつぐらいのグループに。まったく初参加の方がグループにおられました。皆さんが、それなりに感銘したり、頷いたいり、聞けない自分を披露したりするなかで、その方は、「まったく(言葉はわかるけれど)何を話しておられるのか理解できなかった。皆さんが、頷いたり、感銘ささているのもよく理解できない。ひとり疎外感を感じた」と、不満そうに、まったく正直な表明をしてくだいさました。そして、「『南無阿弥陀仏』って、呪文かなんかですか」…。でも、これはいいですね。正直で。視点を替えたら、いまはやりのKY(空気読めない)ですよ。皆が、有り難がっていたら、お上手でもそれにあわせていくじゃないですか。だいたい、年配の方なら、「けっこうのお話でした」とか「有り難ったですとか、嘘でもいいます。そこを少しつっこんで聞くと、「もっと精進して、煩悩を押さえていくように頑張ります」と、まったく、方向違いなトンチンカンな答えが返ってきて、ガッカリしてしまいます。

 でも、この答えはいい。「何も発言できることはない」とおっしゃったが、しっかり答えてもらった気がしましたね。ここから、いくらでも話がつながっていきます。どこで皆さんが頷かれたのか。その心境はどうだったのかを聞き直したり、何をポイントに話をしたのかを、かみ砕いてお伝えすることが出来ました。呪文や呪いでない「南無阿弥陀仏」の意味もお話出来ました。

 やっぱり、空気に合わせないで、自分がわからんことは、わからんと伝える。自分が、有り難いと思ったことは、有り難いと言う。自分に正直に、ありのままに話させていただけることが大事ですね。それを、聴き手も、否定しないで受けていくこと。きっと彼女が法話中に、抱いた疎外感も薄れたことでしょう。明日が楽しです。

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隣の竣工式

 隣の建物が完成し、昨日、竣工式があった。たぶん、十条駅から歩いて来ると、華光会館よりも、先に「ケーエスケー」という緑の看板が目に留まるかれしれない。

Img_2096  ケーエスケー(株)という大阪に本社がある医薬品の卸売業者がはいる。事務所兼配送所のようなものなのだろうか。境界を接しているが、工事の説明会にも施主は不参加だったが、昨日の竣工式まで、まだ一度もご挨拶がないので、実は、よくわかっていない。建築を請け負った東急建設の関係者から、業種などを説明を受けた程度である。Img_2098

 まあ、ともかく、工事の騒音や振動からは、これで解放される。特に、12月、1月、期日が迫ってきたので、日曜日だろうが、時に深夜も(騒音がない程度だが)野外でも作業されていた。日、祝の報恩講の時も、工事か続いて、うるさかった。もちろん、最初の説明会では、工事時間、日曜休日の話はあったが、なぜか断りひとつもないまま、平気で反故になっていた。一言、断わりいれるのがマナーなのにね。さすがに、断りもなく、会館側の通路の通行が妨げられそうになった時は、文句を言いに出かけた。こんな時の相手側の対応次第で、ますますアタマに血が登る。「久しぶりに見せていただきました」と、連れ合いにからかわれながらも、激しく抗議する時はするのも、ぼくの一面もある。激昂のあとは、落ち込むというおまけつきだ。この性分は治りそうにない。第一、先方にしたら、どーてことないんでしょうなー。そんなことでは、こんな商売はやってられんしね。

 とはいっても、ご近所のことなので、「挨拶ひとつ」「事前の断りひとつ」のことでも、あまりいい印象がもてないことが、よーくわかるね。

Img_2095 もっもと、倒れそうだった境界の塀もきれいになり(左の写真ね)、暗い倉庫だったので、夜が明るくなったるのは、有り難い。

 問題は、営業が始まってから。どんな形態になるのかが、わからんだけに、ちょっと不安やね。たぶん、営業車は日曜祝日や夜はないと思うけれどなー。荷物の運搬の大型車の出入りがどの程度あるのか、わからんですわ。130台程度の駐車場が北側に続いている。

 あと、屋上から見えていた五山の送り火は期待できそうにない。華光会館が出来た当時は、「妙法」以外の四つが見えていた。それが、すぐ「大」がみえなくなり、今度の建物で、いちばんよく見えた「船」もダメだ。あと「鳥居」もみえなくなるだろう。これは、ちょっと寂しい。

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「三度目の成仏」~唯除のこころ~

 今日の輪読法座は、ちょっとうれしい顔ぶれでした。 聞き始められて楽しみにしていた方が、風邪で欠席になって、ちょっと残念と思っていたら、予期せぬ広島からHさん! そして、このブログで「京都の方で固定している。皆さん、ご参加を!」との呼びかけで、福井からも4名の方が参加してくださいました。遠いところから、有り難いね。別に、毎月、定例の法座では顔をあわせている方々ですが、こんな形で車座になって始めると、改めて新鮮な感じがするから、不思議です。

 今日から、悟朗先生の誌上法話の『三度目の成仏』に入りました。いやー なかなか進みませんでしたね。別に脱線したわけではなくて、言葉の質問ひとつでも、少し詳しく説明すると、次々と疑問が出てくる。お聖教のご文が多いので、ほんとうに読むと疑問が出て来るのが当たり前ですね。法然上人のご和讃が3首から始まるのだけれど、本論とは関係ないのでサアーとしか触れられていない。それで、「この頭陀の行ってなんですか」とか、「ここでの往生三度?」とか(インドの声聞僧、そして中国では善導大師、そしてこのたび法然上人としての往生)などの補足説明をするだけでも、かなりの量になりました。

 そうはいっても、大方は、泥凡夫の身が、広大無辺の仏様のお働きをあれこれ心配し、計らっているようなことですわー。バカやね。そのことも、みんなで有り難く味わいました。 特に、尊かったのは、十八願文のところ。直接、本文で触れておられない「唯除五逆誹謗正法」にひっかかる方がおられた。これをどう味わっていくのか。もちろん、教義のレベルでとらえることも大事ですが、わが身の味わいのところで。食べた味がないとね、またむなしすぎる。その皆さんのお味を聞きながら、改めて「唯除のこころ」の尊さを感じます。勿体ないなー

 唯除-「ゆいじょ」。「ただのぞく」という意味ですね。何を除くのか。すべての衆生を救うと誓われた阿弥陀さまのご本願、第十八願なのに、「ただ、五逆罪のもの、非謗正法(ひほうしょうぼう)のものは除く」とあるのわけですから、これゃたいへんですわ。

 このご文をめぐって、曇鸞さまも、善導さまも、それを受けた親鸞さまも、信巻末に、難化、難治の三病として、アジャセ王の姿をまったく自分の姿として味わっておられます。生きとし生けるものすべてをもらさず救うぞというお誓いなのに、この重罪の者は除かれるわけですからね。

 でも、十九願や二十願にはないんですね。ここもポイントやね。しかも、十八願ひとつでいいはずなのに、「善人になってこい」「念仏を励んでこい」という方便の願を、なぜ造られたのか。さらに、「悪人こそがお目当てだぞ」と念を押せばいいものを、わざわざ「唯除」とまで仰ったのかというわけです。

 あるHPに、「このお言葉は「抑止門(おくしもん)」であり、文字としては「除く」と説かれていますが、実際には「救う」というお誓いなんだ、ということを論理立てて明らかにお示しくださっています。」と、サラッと書かれていました。いや、ここは、そんなサラッとはいかんね。

 ほんとうの一大事じゃないですか。文字通り読んだら、お救いに漏れているんです、この私がですよ。でも、それが大事にならないのは、誰も、自分が「除かれている」とは思っていないからでしょう。口先だけでは、悪人と言います。でも、おおかたは、生活のレベルの浅ましさ程度ですわー。本心は、「やや悪人」、いや「やや善人」か「善人」とドーンと構えて、大きな顔をして生きとる(だから生きて行ける。鈍感力ですね)。ほんとうに、この私が五逆罪の大罪人、仏様や仏法を誹り続けてきた張本人だと、化け物のようなほんとうの姿が知れたら、ひっくり変えるどころじゃすまん。おかしくなって当然やね。でも、わからんのに、口先やアタマだけでは、わかったつもりになって、「死ぬのか怖くて、後生の一大事を解決したい」とか、「獲信をめざす」となんて、ヌケヌケと求道が出来るわけですわねー。救われるのを当然として、法を聞いている。まあ、ズウズウしいね。そんなの無理に決まってるじゃないですか。除かれているのですから。

 「「除く」と説かれていますが、実際には「救う」というお誓いなんだ」、そこに「親ごごろがあるんじゃ」、なんてね。こんなお説教をヌクヌクと聞いているうちは、驚きは立ちませんわー。私の後生の一大事ですよ。昿劫以来の初事ですよ。まあまあ、まあまあ、皆さん、お好きなように…。法座の余韻で、完全に説教モードになっているので、今夜はこのあたりにしておきましょう。

「聴聞は してもおちる。
 せいでも、おちる。
 ここがじごくだ。
 ここがじごくの さだまりばしょ
 ここが浄土の さだまりばしょ」  (才市同行)

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紅白の梅

Img_2101  朝、東寺の保育園まで子供を送った足で、散髪へ。

 梅小路公園を通ったら、梅がボチボチと咲きかけていた。まだまだ寒いけれど、暦では、立春を過ぎたものね。

 月並みですが、「梅一輪 一輪ほどの あImg_2100たたかさ」 ですね。でも、どうも、今夜から雪になりそう。雪景色もきれいでしょうが…。近くなので、たまには散歩がてら、見に来ましょう。

 髪はボサボサでしたがImg_2103、カットしてもらって、スッキリ。ちょっとスースーしますね。先客と話していたら、長女と同じ小学校のお母さん。1年下でしたが、単級なので、合同、縦割りの行事も多く、子供のことを知っておられました。いやいや…。連れ合いの「南無阿弥陀仏のこころ」のDVDのジャケットの原画が飾ってありました。

 さて、今夜は「伝道研究会」。残念ながら、風邪やら葬式やらで、欠席も多かったです。羽栗行道先生の『心身の革命』の輪読。別に難しいものではないけれど、罪悪観の見方がとても具体的です。アタマのなかではなく、また高いところからでもなく、実際に求道中の方と接しておられたからでしょうね。当たり前ことなのに、この視点が、いまのお寺や真宗の中には薄いんじゃないかなー。

 たとえば、その一節に、体を車両にし、人生という線路をひた走るを列車に譬えておられる。駅名のアナウンスは前に前に進む。「いまは○○駅でした」とは言わずに、「次は△△、△△」というように、人間も前に前に進む生き物。前に進むためにいのちがあるといわんばかり。ところが、その向かう先はどこなのか。どこに到着するのかを問わないまま、走り続けている。数々、通過してきた、「おしめ駅」も、「洟垂れ駅」も忘れて、その車両も、親からの頂き物ということもしらず、しかも「死」というもっとも嫌な終着駅を見ず、ただ財産や金や名誉だと、ひた走ることが目的になっている人間の実相を、巧みにお示しくださっています。この世の中でもそうなのに、ましてや、三世因果をやですわね。

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輪読法座と、仏青研修会の案内

 今週の華光会館の法座予定です。

 このところ、寒く、グズグズした天気が続いていますが、近郊の方のお参りを待っています。

華光誌輪読法座http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/02/rindoku2008-2.htm

 日時:2月7日(木)・昼1時30分~5時

 会場:華光会館・3階研修場

 内容:前回が1月末、今回が2月上旬なので、なんかすぐにやってきた感じですね。今回は、67巻1号の誌上法話「三度目の往生」の輪読に入ります。お聖教のご文が多数出て来るので、皆さんで輪読するのにはいいと思います。ひとりだと、わからないところは飛ばしてたり、読むのをやめたりしてしまいますからね。

  参加は自由です。申込みも、参加費も不要です。(おさい銭程度を集めます)

寒中仏青研修会http://homepage3.nifty.com/keko-kai/ivent/2008/details/02/kantyubussei2008-02.htm

日時:2月9日(土)昼1時30分~10日(日)夕4時30分 (1泊2日)=1日だけの参加も可

会場:華光会館

対象:仏青世代の学生さんから40歳ぐらいの方まで。

 内容:仏青が対象です。法話は、1日目夜と、2日目朝の予定。一応、締め切りましたのが、もしいまからでも参加しようという方があれば、お申込みください。宿泊や食事が不要でも、分級座談会のグループ分けがありまので、大至急ご連絡ください。 

 お世話役は、さきほどまで名簿や名札の準備をしてくれていました。分級分けも一応すみました。出足は、参加者は少な目でしたが、どうやら30名ほどになりそうですね。1日だけの部分参加でも出来ますよ。今回も、初参加の方がおられます。楽しみです。

明日の夜は、伝道研究会もあります。

 なんか今週は、急に行事か詰まってきましたね。

 朝には久しぶりの散髪に行って、スッキリしてきます。

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徳本上人の念仏碑

Img_2092  報恩講の片づけの間に、華光会館の仏間の横の軸を代えました。

 いまは、この3幅。右側から、『正信偈』の「帰命無量寿如来~ 重誓名声聞十方」までの揮毫。そして、左側は、「後生の一大事」ということで、『大経』の五悪段の「大命まさに終わらんとするに悔懼(けく)こもごも至る…」の一節。いのち終わらんとき、後悔と恐怖が入り交じって起こり、わが業にしたがって、悪から悪、苦から苦、冥から冥(くらやみ)へと、悪道に転じていくという一段です。 もちろん、共に増井自然先生の揮毫です。(左クリックして拡大してもらわんと分かりずらいですが)

 でも、真ん中は、「南無阿弥陀仏」は、書ではなく、父が,若いとき採った、徳本上人の念仏碑の拓本(たくほん)です。なかなか、この大きさの拓本は難しいじゃないかと思いますがね。とても力強い、かなり雰囲気のある書体ですね。

Img_2093  徳本上人は、江戸時代の、紀州出身の浄土宗の高僧。浄土教の念仏者でありながら、難行苦行もされた人のようで、平生より、木食草衣、長髪長爪と、お念仏に生きられたようです。徳本行者とも呼ばれ、行実や伝記が残っています。

 なんでも、4歳のときに、友達の不慮の死をきっかけに、母から極楽往生を願うことを聞かされて発心し、修行中に、不思議な老人から、法然上人の『一枚起請(きしょう)文』を授けられ、「ただ極楽往生のためには南無阿弥陀仏と申して、疑ひなく往生するぞと思いとりて、申すほかは別の子細候はず」の一文で、念仏の教えに入られたと言われています。

 でも、不思議なのは、「南無阿弥陀仏と申す称名より他にはない」と聞きながら、どうして、その後も、常に木食(肉食は当然、五穀までも断ち、木の実を生のままで食べる行)や断食などの厳しいご修行を続けられたのでしょうかね。まあ、ここまでくると、後世の泥凡夫がとやかくいうレベルではないのでしょうが…。

 生誕の地、和歌山日高町の徳本上人のHP↓

http://yskasagi.web.infoseek.co.jp/hidakatown-room/hidakatown02.html

 ここに日高町の 念仏碑がいろいろ出ていますが、どれもちょっと違うようですが…。

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オオゴマダラ

 京都も、どんよりした空模様が続いています。昼前には小雨になりましたが、朝はうっすらと雪景色。

 華光会館では、聖典講座。ご縁がありまして、初めての方がお参りくださいました。足元が悪いなか、福井や和歌山からもお参りくださっていました。

 ぼくは珍しく土曜、日曜に、法座を入れませんでした。実は、出版の編集中です。そのことを見越していて、アケていました。夏の子供大会の法話集の作業中。子供たちの感想は、「はちす」にして送りましたが、これは、先生方のもの。だいたい出来ているのですが、これから何年も残る出版物になると思うと、文章の表現などが少しラフな感じがするので、原文を損なわない程度に軽く手をいれています。この週末でかなりやろうとハリッキていましたが、結局、個人カウンセリングが入ったり、連れ合いが所用があり、ぼくが子供たちを連れて外出したりで、正直、はかどりませんでしたね。来週からは、華光誌も始まるので、それまでにはなんとかメドをつけたいなー。

Img_2090  で、今日も、先週末に引き続いて、こんな子供たち(←)を連れて、こんなもの(→)、Img_2072_2 あんなもの(3、4)を観てきました 。フロにいれ、夕食を食べさせたら、かなりお疲れですね。

 今夜は寝かせたら、それでおしまいになりそうですわ。

Img_2088 (3、4)オキImg_2087ナワに生息する、日本最大のチョウ、オオゴマダラなどを観ました。きれいでした。うまく撮れてるかなー?

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生活の小さな変化(1)

 年末から、家族6人が、一階で食卓を囲む生活が続いている。

 これまでは、上と下では、まったく生活時間が違っていた。ご承知のとおり、父や母は、驚くほどの深夜型の生活だ。正確にいうと、父がそうで、昔の母は違った。いまは、父に付き合って、年々、遅くなっている。夕食が済むのが、10時すぎということもある。別に、遅い夕食のお宅もあろうが、我が家の場合、その後もう1食、夜食(寝酒)があるのだ。これは、たぶん50年以上続く、父の習慣だ。高齢になって少しは朝型になるのかと思いきや、まったく逆だ。年と共に、ズルズル就寝が遅くなり、いまや3時、4時である。その代わり驚くほど朝(いやもう昼だが)が遅い。一時、ぼくも同じような生活リズムだったが、子供が生まれてから、生活が変わってきた。寝酒をやめたことも、スリムになった要因のひとつだろう。父の生活は、その内、時間が一周するのではないかという勢いだ。当然だが、小さな子供たちがいる下の階とは、生活時間が合わない。一階で、昼食がすんでも、まだ上では父が寝ている。当然、子供が生まれて以来、食事は別々にならざるおえない。上の子が生まれたころには、まだ家族と事務員さんと揃って、夕方にコーヒータイムがあったが、その時間も合わなくなった。

 それが、都合で、連れ合いが夕食を造るようになったのだ。

 当然、彼女はたいへんになる。彼女からの提案で、ぼくが、夕方の子供の入浴と、就寝を担当することになった。時間が許せば、保育園にお迎えに行き、風呂に入れる。そして夕食を食べ、二人は40分ほど父や母に遊んでもらい、ぼくは寝かせる準備にはいる。

 小学2年生の姉は、まったく世話がない。でも、下はまだ4歳で、いたずら盛りだ。ぼくの大切にしているものでも平気で壊したり、グチャグチャにしたりする。母親が座らないと、おとなしく食事もしないで、ウロウロしたりもする。その度に、いろいろ表現で叱ったり、提案をしたりもするのだが、時に、「仏の顔も三度までや!」(間違った使用法やね)などと、本気で腹を立て、怖い顔をすることもあるが、なかなか簡単ではない。もちろん、とても困っているのかというとそうでもなく、だいたいは、むしょうにかわいいのである。要は、小悪魔的なキャラなのである。まあ、こちらも親馬鹿なので、いい勝負である。

 寝かせる時も時間がかかる。2冊、違う絵本を読むことに決めている。これまでは、ずっと布団の上でからだを使った遊びをしていたが、興奮し過ぎるようなので、このところは絵本である。これがだいたい楽しい。問題は、それからだ。横ですぐに寝息をたてる姉に比べると、下の子は、からだがかゆくてなかなか寝つけない。特に乾燥する冬季はかわいそうだ。眠るまでずっとからだをさすってやる。「かゆい」といったり、怒ったりするので、かわいそうだと思いながらも、こちらもイライラと、荒い言葉になることもある。寝かしだしからは、ゆうに1時間はかかるのだ。

 でも、ぼくの役目はここまで。あとは、連れ合いが一緒に寝てくれる。まあ、徐々にましになっているが、夜中に目を覚ませると、とてもたいへんなようだ。いまは、3度が、2度、それが1、5度になり、1度ぐらいになっている。徐々にではあるが、生活改善などで、よくなる兆しも見えている。急激に表面的におさえるのではなくて、根っこの体質をかえていく、ゆっくりするやり方を選んでいるので、多少は仕方がない。なかなか、彼女も根気がある。

 いまもそうであるが、連れ合いにバトンタッチしてから、この後、ブログを書き出すのである。

 実は、どんな絵本がいまのお気に入りなのかを書くつもりで始めた。でも、そこにたどり着く前に、今夜は終わりにしよう。

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『夕凪の街 桜の国』

 そしてもうひとつは、『夕凪の街 桜の国』

Yunagi  ヒロシマの原爆がテーマだが、直接的な原爆のシーンはない。原爆投下から13年が経た広島(夕凪の街)と、平成19年の東京~広島(桜の国)を舞台に、そこに生きる2人の女性が主人公だ。というのも、戦争を知らない30代の広島の女性が描くマンガが原作である。だから、未曽有の大惨事とは、それで終わるのではなく、その後遺症は、平成の現代にまで、色濃くその影響を及ぼすことにも力を入れて描かれている。

 静かだが、いい映画だった。(夕凪の街)の主演の麻生久美子の、品のある控えめな姿勢が、心を撃つ。ここにも、友人や家族を見殺しに、「生き残ってしまった」ことへの深い深い罪悪感がある。それは、『ひめゆり』にも、また『父と暮らせば』などの黒木和雄(彼自身のそうである)の描くテーマに通じている。彼女が言う。「一番、怖いのは死ねばいいと思われるような人間に、自分がほんとうになっていることに気がついてしまうこと」だと。そして、そんな私は絶対に幸せになってはいけないと、恋愛を拒絶し、深い傷が癒えぬまま背負い続けいく。その彼女が、後遺症で、死んでいく時につぶやく。「なあ、うれしい? 13年も経たけど、原爆を落とした人は、わたしを見て『やったー、また一人殺せた』て、思ってくれている?」と。戦争は、肉体の苦しみに加えて、人間の人間としての尊厳までも無惨に踏みにじり、決して、終戦と同時に終わるものではない。その苦悩を、直接的、もしくは間接的にその縁につながる人達が、どう受け止め、克服し、そして今日まで命を長らえてきてくれたのか。間違いなく、いま、ぼくたちが生きていることは、この多く苦悩や悲しみ、そして癒えることのない深い傷の上に、このいのちの営みが延々として続いているということであろう。

 個人的には、広島の女性と結婚したことで、被爆した人達が身近になった。この映画のテーマに通じる点も現実にある。その意味でも、人ごとではない。

  

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『陸に上った軍艦』

 『ヒロシマナガサキ』、『ひめゆり』と取り上げたので、昨年観た、太平洋戦争に関する2本の映画にも触れたくなった。

 いずれもドキュメンタリーではないが、大切なメーセッージがこめられていた。これらに通底するものは、体験した者が後世へ、これだけは伝えたいという高い「志」ではなかろうか。

Okagun_01  まずは、95歳の現役監督である新藤兼人が、自らの体験を語った(あくまで証言者であり、出演者でも、監督でもない)ところ、実写する形で描かれた『陸(おか)に上った軍艦』。いろいろな戦争映画があるが、異色作といってもいい。軍隊という非人間的な、理不尽極まりない組織を、一兵卒の視点から描かれている。まさに「弱兵戦記」と彼自身が記するように、30歳を過ぎて、シャバではそれなりの仕事の経験があり、家庭もある生活人たちが、やむなく徴兵されて、息子ほどの、ただただ軍隊の精神のみに生きる上官に、バカにされ、理不尽きまわりない体罰やリンチを受け続ける。それでも一切反抗することなく、従順に従い、お国のために命を落としていく。それでも、無抵抗な弱兵への暴力は留まることはない。そして、そこには、勇ましい戦闘シーンも、美談も、哲学も一切ない。ただただバカバカしく滑稽な作戦や訓練があるだけだ。もう哀れさを通り越して、噴飯ものである。

 本土決戦に備え、池で鯉を1万匹養殖する壮大な計画がたてられる。そのために、そのエサになるハエを集めるのたが、1000匹集めたら、1日の外泊が許される。ビン詰めにハエを責任者の前で大まじめに、一匹一匹数えていく。彼は、めでたく外泊許可が下りるが、その前に鯉の稚魚1万匹は、喰われて全滅していた…。またすでに武器が尽きている。真面目な訓練が、木製の戦車をみんなで引っ張り、そこに体当たりすると訓練を死ぬほど繰り返していたある時、海軍本部から画期的な指令が届く。本土決戦に備えて、集団で刀で斬り込む計画である。その時、「クツを反対(前後)向けに掃け」と命令が下る。なぜか? しのび寄ったのにクツ跡が反対なので、敵は遠ざかったと勘違いするというのである。それが、大まじめで命令され、しのび足の弱兵たちがしごかれていく。もうバカバカしい。そんなめちゃくちゃで、リンチのみがある狂気の世界が、軍隊という組織だろう。正しい現状認識も、冷静な判断もなく、不合理で、暴力が支配している。日本国中をあげての共同幻想、狂気の精神性だけの残酷で、恐怖の世界が描かれている。

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