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『君の涙、ドナウに流れ ~ハンガリー1958』

 『君の涙、ドナウに流れ ハンガリー1956』は、1956年のハンガリー動乱の悲劇と、時を同じくした、メルボルン・オリンピックのハンガリー水球チームの栄光を描いた人間ドラマだ。

 いつものごとく、まったく知らないことだらけですね。

Hungary1956_01  まず、ハンガリーが水球大国だということ。今回の北京にオリンピックにも3連覇(過去8度の金メダル)がかかるほどの水球の世界最強国。水球は、Water Polo(ウォーター・ポロ)と呼ばれ、これまたイギリス生れの水上球技だ。「水中の格闘技」といわれるほど、激しいスポーツ。体のほとんどが水中にあるので反則が分かりずらいし、常に手足を動かさないと沈んでしまうので、水の中では、なぐったり、蹴ったりする行為が、普通に発生するからだ。

 そして、ここにもハンドボールの「中東の笛」ならぬ、「ソ連の笛」があったこと。ライバル、ソ連戦は、露骨なソ連寄りの笛が続く。超大国ソ連の衛星国なのだから、政治的な従属は、スポーツや文化の世界にも及ぶのは当然なわけか。これは、同時に、日常的なソ連の環視や抑圧と、最後の軍事的暴挙をも暗示しているといってもいい。ソ連の衛星国どころか、軍事的な属国扱いを受けているのた。

 そして、多くの社会主義国がそうであったように、共産主義時代のハンガリーも、環視国家であった。

 昨年、とても評判がよかった『善き人のためのソナタ』(←お勧め度高いし)は、東ドイツの”シュタージ”という、体制支配の中枢を担っていた、強力な国民環視の非人間的組織と、芸術、ひいては人間性の相剋を描いた佳作だったが、ハンガリーの秘密公安警察は、AVO(のにちAVH)という。

 しかも、恐ろしいのは、国家権力の環視を支えるのは、実は、反体制的な行動や言論に対する隣人や家族の裏切りによる密告社会ということである。どこに密告者がいるか分からない。一般民衆に信条や言論の自由はもちろんのこと、これでは、職場や家庭の日常生活にまで、安らぎはないのに等しいのだ。

 恐怖政治が続いたハンガリーでは、1956年、民主化を求めて民衆が立ち上がり、権力側も呼応し、一時はソ連軍の撤退という勝利かと思ったが、一転、ソ連軍の圧倒的な軍事報復が始まり、自由を求める声は大きな犠牲と共に弾圧されてしまう。しかも、当時のアメリカを始め国際社会は、ハンガリーの民衆の援助を求める叫びに耳を傾けることはなかった。(なぜそうなったのかは、映画では答えていない。政治バランスが働いたのだろう)。そして、10数年後の「プラハの春」も同様、ソ連の圧倒的な軍事力の下に、民衆の正当な要求が蹂躙されていくのである。それが、ハンガリー動乱とか、騒動と呼ばれる”動乱”である。でも、ぼくが社会科で習ったこの「動乱」とか「騒動」というネーミング自体が、すでに体系側の視点かもしれないなー。このような形で「事件」として画一化されて発信されてしまうと、ほんらいは、その下では、人間の基本的欲求である自由を求めてた多くの命が犠牲になり、数々の悲劇があったことも、単なる画一的された数値(死者数、亡命者数、処刑者数など)で現されて、終わってしまう。

 そこを本作は、ジャンヌダルクのように、運動の中心的存在となる女子学生(そうそう、ヒトラーのナチスに本国でレジスタンスして死刑になった女子学生を描いた『白バラの祈り』も、ドイツ映画だった)と、エリートの水球選手の恋と、葛藤を描いている。

 そして、五輪史に残る、メルボルン五輪でのソ連邦との流血戦に、見事勝利し連覇を果たす。しかし、勝利によるカタルシスはない。なぜなら、政治的には、この後、30年以上に渡る軍事的支配が続く前触れであることを、みな分かっているからだ。それにしても、この水球の試合のシーンが迫力があった。それもそのはず、実際の現役、金メダルチームのメンバーが、過去の金メダルチームを演じているのだそうだ。

 「自由の国に生まれた者には理解にも及ぶまい

  たが、私たちは何度でも繰り返し噛みしめる

  自由がすべてに勝る贈り物であることを」

                (゛天使のうた゜マライ・シャーンドル)

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