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自分を知らされる

  輪読法座も、ちょうど1年を迎えました。

 曜日を固定せずに、平日の午後を中心に、8月は夜から開いたり、土曜日に開催したりもしました。今月は、初の日曜日開催。もしかすると、顔ぶれが変わるかなと淡い期待をしていましたが、蓋をあけてみると、だいたいいつもの顔ぶれ。曜日はあまり関係ないね。参加する人は、いつでも参加してくださいます。今回は11名。でも、逆に、このくらいの人数が話し易い。

 しかし! 今回は、仏青世代の若手の参加が2名。ひとりは、華光会館法座デピューの方もありました。子供の保育園で最近、知り合ったお母さん。この年末に急接近。昨日も、連れ合いと一緒に、カフェでの仏青にも参加。でも、華光会館の行事は初参加だね。こんな人が一人でも、二人でもおられるとうれしいです。

 けっこう、積極的に発言されました。もともと、育った家庭や職場の関係で、浄土真宗とはご縁がある方なので、ご本願が第十八願だとか、世間の自力とか他力とは、ここでの他力廻向は違うことなどの、知識をお持ちでした。なかなかたいしたものです。確かに、いくら聞法の長短や、知識は関係ないといっても、まったく聞いたことがなければ、まず入り口のところで、チンプンカンプンの拒否反応になってしまいますからね。ここまでこられた経過を考えても、なにか深いご因縁を感じています。

 浄土真宗のおみのりは、世間の常識を超えた教えです。世間の常識の信仰である、先祖供養でも、この世の幸せだけを求める現世利益でもない。仏に成るとか、往生という言葉でも、まったく世間の間違った常識とは異なりますね。また「廻向」ひとつとっても、普通は、人間の側から、神仏に善行を振り向けていくことなのに、これもまったく反対。きれいになってこいとも、賢くなってこといとも、立派になってこといとも、正直でこいともいわれない。一切の人間の側の修行や徳を求めておられない。

 ただ、「悪人そのままで出て来い」と仰っている。

 その悪人とは、誰のことか。このわたしひとりが願われている理屈を覚えても、むなしいだけですね。ほんとうに、そこひとつをわが身のこことして喜べる身になったのかどうか。

 今回は、「浄土真宗の座談」という西光先生の巻頭言と、小生の「聖教のこころ」を輪読しました。聞法する場はどこか。どんな聞き方をしていくのか。そしてその要は何かをついて、聞かせてもらったと思いますね。

 まさに、この時間が「浄土真宗の座談」の実践の場でした。

 仰せを聞くのは勉強ではない。覚えて、または雰囲気に酔って有り難くなることでもない。それに、「そのまま聞く」といっても、必ず、聞き間違う。聞き損じる。都合よく聞く。人によっては、わざわざ間違いを強化するために、お金や時間をかけておられる方まである。もったいないなー。一方的な話を、自分の都合で聞くのではなく、その聞いているわたしの間違いを指摘してもらわねば意味がありません。そのためには、どう聴いたのかを、口に出し、聴き合い、語り合う場が大切なわけです。

 わが心の方だけを見つめていても、なにも変わりませんね。

 お話を心に響かそう、感じようとしても、ダメです。自分の心の変化で判断するだけ。

 それより、如来様に照らされた自分を教えていただく。

 如来様に願われている自分の物柄(値打ちですね)を聞かせていただくんですね。

 それを自分で見ていると思っているから、大間違い。そこが崩されていく、揺さぶられていく。それが聴聞であり、座談です。握っていくのではなく、剥ぎ取られていくわけですね。

 それにしても、飾りたい、ほめられたい、自慢したい、立派になりたいの善人指向の塊です。恥じをかくのもイヤやし、バカにされるのもイヤやし、ほんうとは分かりもしないのに、賢こぶったり、分かったようなこと言ったりする。これほど、自分を知らん大馬鹿ものはない。

 でも、いくら言葉を飾り、外面を飾っても、内に、むなしい、むなしい、愚かさ、虚仮不実を抱えているわけでしょう。その大昔から変わらない、伏魔殿、鬼の腹底が、実はお目当てとも知らずに、ますます飾っていく。

 聖教のこころで読んだ、「本願を信じ、念仏申し、仏に成る」というのが、聴聞の要。本願願のおいわれを聞くことですね。なぜ、阿弥陀様が、このわたしに頭を下げ、「救わせておくれ」と叫んでおられるのか。その本願を聞くことは、阿弥陀様に願っている、わたしのほんとうの姿を知らされていくこと。そのひとつに尽きるといっていいわけですね。

 いまは、少し難しくなったけれど、今回は、わりとかみ砕きながら、聞法の要のところをお話させていただけたと思います。ぼく自身にとっても有り難いご縁でした。

濃い、濃い、関西のオバチャンパワー炸裂ですが、皆さんも敬遠せずに、ぜひどうぞ。

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