言葉が痩せる
昨夜は、水を汲み置きして寝た。
3年に一度、地下の貯水タンクの清掃を依頼している。作業は、5~6時間ほどで済むが、その間は断水にするからだ。3年に一度、防火器具の法定点検があり、消防署への提出が必要なのだ。同一業者が、消防点検は、貯水タンク掃除も依頼している。
汲み置きの水だけでなく、風呂のお湯も残しておく。トイレで流す水に使うのだ。でも、この程度の断水なら、あまり不便なことはない。ただ、2、3日これが続くとなると、大きなストレスになるだろう。水、電気、ガスと、生活にかかせないライフラインの恩恵をタップリと受けているのがよくわかる。
ところで、先日読んだ、辰濃和男著の『文章のみがき方』に、「動詞を中心にすえる」という一節があった。いまは名詞の時代だという。新しい名詞が次々生まれて、それがいつのまにか「○○する」と、「する」をつけて新しい動詞として使われるになり、安っぽく消費されて消えている。生活様式の変化によって、言葉も変化し続けるが、それは身近にあった動詞の衰退を意味している。昔は、日常生活でなじみのある動詞が暮らしの中心にあったのだという。
確かに、朝を起きてからの作業を考えるとすぐわかる。なんでも指1本で終わる。電気もスイッチを押すだけ。ガスもいまや指1本。昔は水を井戸で汲むとか、それをお湯にするには、火をおこすために、薪も割る必要があった。そこまで大昔に戻らなくても、子供のころは、水道の蛇口をひねり、水を沸かす必要があった。いまは、捻る蛇口もない。指一本で押すだけで、暖かいお湯が供給される。ただ手を近づけるだけで水が出るものもある。暖房も冷房も、リモコンのボタンを押すだけ。トイレに入っても、テレビを見るのも、リモコンを押すだけだ。パソコンも、携帯も、電話も、車のキーも、シャッターもボタン一つで開閉できる。新しいものほど指先一つで事が足りるように出来ている。料理だって、切ったり、捌いたり、焼いたり、蒸したりしなくても、電子レンジで「チン!」で終いだ。
ほんとうに便利になったものだ。
そこで生活していると、それも当たり前になってしまう。もう不便な生活に逆戻りはできない。
しかしだ。錯覚しがちだが、便利になることが、そのまま人間が豊かになることとと、すべて一致するわけではない。
日本語の乱れが指摘されて、久しい。言葉が痩せていくのは、日常生活の利便性や効率ばかりを求めている私達の生活がやせ細っていくことにほかならない。それは、人間性が貧しくなることとにつながっていくのだろう。よく考えると当然のことだ。
でも、自分の足を使うのを惜しみ、逆に筋肉が衰えて、ますます不健康になっていくように、自分の脳味噌を使い考えることすら惜しむ時代だ。このままの暮らしを押し進めていくだけでは、いつか取り返しのつかない事態を招くことも、頭の片隅に入れておいていい。
ほんの少しだけ不便なことがあって、こんなことを考えた。
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