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『マザー・テレサ・メモリアル』

「人々は忙しすぎます。何かに夢中で時間がありません。

 互いに微笑みを交わす暇さえないのです。

 食べ物に飢えた人ならば 食べ物を与えれば、その飢えは満たせます。

 けれど孤独な人の心の貧困は、もっと深刻なのです。

 よく見れば 世界中に“コルカタ”(カルカッタ)があります。

 愛への激しい飢え。

 誰もがその苦痛や孤独を、人生で経験します。

 家族の中にもいるかもしれない“貧しい”人々を見出し、

  愛し、 愛を実践に移すのです。」

「すべての人は愛し愛されるために創られました。

 ヒンドゥー ムスリム ユダヤ教徒 キリスト教徒(映画の字幕では、仏教徒の入っていた方もあった)

 人種や宗教の別なく、男性も女性も子供も神の子なのです。

 許すには多くの愛を要します。

 けれど 許しを請うには より多くの謙虚さが必要です。

 貧困を作り出すのは神ではなく 私たち人間です。

 私たちが分け合わないからです。」 

Teresa  20年前ほど前に映画館で見た予告編。たった2分ほどの場面を、鮮明に覚えていた。それが、この映画(『母なることの由来』)だった。世界各地から、彼女を慕い集まった新米の修道女を前に、彼女が慈愛のまなざしと共に、愛の実践の厳しさを語る場面である。

 愛(慈悲)の実践は、生易しいものではない。そこには、どんなものにも耐え忍ぶ忍辱と、何事をも怠らない精進、個人所有を拒み施す布施と、常に静かな祈りと禅定(瞑想)に裏付けられている。まさに六波羅蜜の修行そのものだ。彼女には、その強靱な精神力と共に、常に余裕あるユーモアを欠かさぬ精神が伴い、何事にも畏れない実践力も伴った。しかし、その根底にあるのは、無力の自己を投げ出し、すべてを委ねた神への信仰そのものにほかならない。

 オリビアーハッセーが演じた自伝的映画も、けっして悪いものではなかった。でも、ほんものの力には適わない。さりげない、一見、手垢にまみれた言葉も、珠玉の輝きを放つ。口先だけで、ただただ言葉の軽さ、薄さばかりが目立つ今日にあって、この人の言葉は、重く、深い。 

 ただ、映画としては、新作の2作目は、蛇足に思えた。彼女のインドでの国葬と、彼女の言葉を追ったドキュメンタリー(『母なるひとの言葉』)。肝心の言葉が、ほぼ前作と同じものだったこともあるが、、権力や特別視を嫌う一作目の彼女の言動や生き方を見せられたあとで、華々しい世界各地のセレブや国賓たちの姿と、インド軍の兵士(空砲が鳴り響く)たちが見送る葬儀風景が、皮肉としか思えなかったからだ。

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コメント

>オリビアーハッセーの観ました。

>感動しましたけどなんだか、自分には到底無理だ
>なぁと思うと悲しかった。当時のそんなことを思
>い出しました。

 さちさん、ようこそ。そうか。あまりにも、底下ですものね。でも、いまの味わいは違うでしょうね。
 ぼくは、ぜんぜん悲しくなかったなー。だって、大慈悲心の塊の「南無阿弥陀仏」を聞かせてもらいましたからね。もし悲しいとするのなら、そのお念仏を抜きにして、忘れることぐらい、悲しいことはないなー。
 ところで、「今日からスタート」に、コメントがついたけれど、これって、最初のスタート時のものですね。まだたった1年半ですが、とても懐かしいですわー。ビックリしました。

投稿: かりもん | 2008年1月22日 (火) 23:23

ごめんなさい。酔っ払ってたので違うとこにコメントしてました。

そうですね。私はずっと何一つ善いことの出来ない自分を嘆き続けていたんだと思います。その頃をふと思い出したのでした。

投稿: さち | 2008年1月22日 (火) 23:56

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