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祥月命日のお参り

  華光会館には、世間のお寺のような檀家制度はない。

 でも、多少の例外もある。同人の方でお葬式を頼まれたケースもある。そして、4軒だけ、同人でない家庭がある。華光会館創建当時にご近所だった2軒と、その親戚の2軒である。急な葬儀は、多少の差し障りも考えられると、前々号の誌上法話でも触れた。ただし、これまでの長いご縁や、父との関係を考えると、冷たくお断りするこも出来ない。というのも、年1度、お盆におまりいするだけで、月忌も、祥月のお参りもないので、普段は負担になることはないからだ。

 ただ1軒だけ、年1度の祥月命日にお参りするお家がある。そう、今日は、年に一度、たった一度のお参りなのだ。しかも、父の担当だったから、ぼくには関係なかった。でも、そろそろぼくにお鉢が回ってくるようになった。

 昨年は、こちらが忘れていて、「どうなりましたか」と電話。あわわて、ぼくが出かけた。今年は、先方が急な変更。高齢のご主人が、電話をうまく聞き取れずにいたらしい。

 話が、二転三転して、やっとお参りの段取りがついた。

 娘さんと話す。でも、なかなかご縁は結べない。子供の時は、ここに書道も習いにこられていた。『親指のふし』や『仏敵』を勧めてみても、難しいようだ。やはり、亡くなった方(仏さん)の供養のためでしかない。

 お断りしてしまうのは簡単だ。でも、せっかく深いご因縁がついたのである。もう一歩でも、何かが伝えられないか。おまつりのこと、納骨、法名、葬儀の時の写真の奇怪な現象について、いろいろと不安や心配があるらしい。一々に応えながら、その先もお伝えしてみるが、ここはまったく難しい。1年、1、2度の時間では無理なのかもしれない。でも、世間のお寺さんでは当たり前のことかもしれませんが、聞法の焦点が定まった、ある種の聞法エリート集団の華光では、このようなごく普通の死者中心の信仰をされている人と接する機会は、ぼくには貴重なのである。ここでは触れられないが残念だが、いろいろとびっくりするようなお話を窺えた。勉強になります。

 ぼくたちには、まだまだ頑張って、お伝えすべきことが多々ある。力不足だなーと思われました。

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