『ひめゆり』
先の大戦で、いまだに美談的に語られるものに、「大和」、「特攻」、そして「ひめゆり」がある。それらは、フィクション、ノンフィクションに関わらず、今日までも繰り返し、繰り返し、小説や映像の対象となっている。
たとえば、「ひめゆり」なら、ひめゆりの塔などに代表されるように、時の清純派スター女優をメーンにした、常に、ある種のイメージで語られている。悲劇であり、たとえ殉国の美談であろうが、または反戦のシンボルにしてもであるが、共に美化されたイメージに縛られている。ぼくも、「ひめゆり」と聞いただけで、反射的に固着したイメージが浮かびあがり、実は、「もういいかなー」と見るのさえためらってしまった。
でも、そのことに、もっとも落胆され、悲しんでおられたのは、実は、ひめゆり部隊で生死を境を越えて生き残った皆さんだ。
『ひめゆり』。本作は、彼女たちが、自らの手で、後世の人のために、その体験した真実を語ることだけに焦点をあてた画期的なものだ。しかも、13年もの歳月をかけて証言が集められている。もちろん、膨大な記録のその一部だけが描かれているのだが、丁寧に造られていることは、観ればわかる。
「戦場動員と看護活動」「南部撤回から解散命令」「死の彷徨」と、時間軸に添った三部構成になっている。いずれも、高齢となった22名の生き残った人々の現地での証言がメーンである。特に、感傷的な音楽やナレーションは入られない。ときおり、沖縄戦の記録映像が挿入されるが、あいかわらず、紺碧の空と、美しい海と、自然豊かな風の音を背景にした、生々しい証言で綴られいる。それでも、もし、あまりにも証言者の気持ちが過剰すぎたら、きっと聞き手は逃げてしまうであろう。しかし、130分間、引き込まれるように観た。
その意味でも、真実を「語る」ということの重さ、深さと、言葉のもつ力と、恐ろしさを感じた。
『「忘れたいこと」を話してくれてありがとう』という文字が、映画のチラシにある。実は、60年たったいまも、いまだ癒えることのない大きな傷を背負い、証言が出来ない方も多くおられるのだそうだ。そして、生き残ってしまったという罪悪感にも苛まれいく。それは、いまだ過去の出来事ではなく、現在進行している出来事なのであろう。
沈黙もまた雄弁であり、重く、深いのだ。
そして、さらにその苦悩を越えて、語り継がずにはおれないという、禀とした志の高さともいうべきものが、ヒシヒシと伝わってくる。それに呼応するように、ぼくの胸から、涙と共に、さまざまな思いや感情が、フツフツと去来していった。
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